Ver.フロウ《2》
その日は突然、やって来た。
普段は通いの家庭教師以外、出入りの殆んど無い別宅だったが、身体が12歳になり、成長期に入った俺の服を仕立て直す、ということで、仕立て屋が来ることになった。男の服、しかもまだ社交の場に出ることも無い俺の服なので、華美な装飾も必要なく、採寸と生地選びはすぐに終わった。しかし、その後、カフスボタンを選ぶ時、俺は違和感に気づいてしまった。
目の前に並べられたカフスボタンは貴族の使うものらしくどれも高級そうな素材で、しかしそのどれもが黒い魔力のオーラを纏っていた。酷く禍々しいそのオーラに、思わず「選びたくない」と言ってしまった。
間違えた、と気付いたのは仕立て屋の顔色に気付いた時だ。血の気が引いた、青い、を通り越してむしろ土気色の顔色に、『これ』は気づいてはいけないものだったのだと分かってしまった。
魔術の本の知識に依れば、黒は魔術の色。魔術のかかった禍々しい『これ』は、多分。
―――俺の命を狙ったもの。多分、別宅に移って手出しが難しくなったが故の、手っ取り早い、正妻からの死の贈り物。恐らく、遅かれ早かれ死に至る呪いが掛けられているだろう。
薄々、家庭教師が正妻の息が掛かっていることは分かっていた。俺が、淡々と相手をするようになってきて、苛々してきているのも、知っていた。……期待していたのが、俺が狂うことだったのか自殺することだったのかまでは知らないけど。
でも、『これ』を見抜いてしまったからには、もう間接的なことはせず、直接命を狙ってくるだろうことも、同時に悟ってしまった。
正直、俺はもう疲れていた。
存在を全否定されることにも、命を狙われるほど憎まれることにも。父親も使用人も、俺の生活を面倒見るのは義務感からくるものだと知っていたし、生きていても、自由も何もない。
―――それなら、いっそのこと。
仕立て屋は、様子がおかしいことに気付いた執事が対応したので、俺はその後、仕立て屋がどうなったのかは知らない。
その日の夕方、俺は自室で書庫の秘密の部屋から持ち帰ってきた一冊の本を読んでいた。その本は黒い背表紙で、特に古びた装丁だった。内容が外道なもの、倫理にもとるような、いわゆる呪いの魔法と呼ばれる魔術について書かれたソレは、恐らく禁書と呼ばれるもので、それまで手を付けていなかった本だった。
本を読み終えた俺は、書庫の奥の秘密の部屋にその本を返しに行き、普通に夕食を食べ、再び自室に戻ってきた。
自室の机の引き出しにあるペーパーナイフを取り出し、じっと見つめる。中々鋭いその切っ先は、胸に刺せば、容易く肌を貫通して内臓に届き、命の鼓動を止めることが可能だろう。貴族が使用するものらしく、ゴテゴテと小さな宝石が装飾されているペーパーナイフは、先程の黒い本に書かれた、生命を削る魔術を掛けることも可能だろう。それを使えば、胸を刺すより楽に逝けるかもしれない。
でも、そんなことをつらつらと考える自分とは裏腹に、もう一人の自分が顔を出す。
――――どうして、俺が?
別にこんなところ、来たくて来たわけじゃない。母には親愛の情があっても、父親は今でも他人の枠に入っているほど思い入れもない。何より、何故、正妻のために俺が死ななきゃならないんだ―――――!
その時。ドアがノックされる音がした。
滅多にないことに少し驚き、執事の声に入室を許可する。
すると、そこには思いがけない人物が居た。
俺と、……正しくは父親と同じ、茶色の髪と瞳のその人は、数回しか顔を会わせたことがない、兄だった。
兄は、執事を下がらせると、率直に、用件を切り出した。
「母が、とうとうお前の命を狙い始めた。もう気付いているんだろう。今夜ならまだ間に合う。―――逃げろ」
「―――何で。あんたが……」
カラカラに渇いた俺の声が、広い部屋に消えていく。思いがけない人に、思いがけないことを言われて、これ以上無いほど俺の頭は混乱していた。
「私は、母の憎しみを父以上に知っている。あの人が、もう限界なのも―――お前を本当に殺してしまえば、あの人は壊れてしまうだろうことも。でも、あの人はそうせずにはいられないんだ」
「なら、何で……」
「それでもあの人は、私の、母だ」
その声は、思わず背筋が伸びるほど、凛としていて―――悲しかった。
「哀れで、もろく、浅はかで、プライドが高く、愚かな女で、それでも」
俺の―――母なんだ―――。
「だから、これはお前の為ではない。母が罪を犯さない為に、―――俺の為に、逃げてくれ」
そう告げると、兄は来たときと同様に、颯爽と部屋から出ていった。その背を見ながら、この別宅に来られるように手を回してくれたのは、俺を唯一気に掛けてくれたのは、この兄かも知れない、とふと思った。それが当たっているかどうかを知る術は、もうないけれど。
正直、その後の記憶は朧気だ。その夜のうちに最低限の身の回りのものを纏め、習得した魔法を駆使して必死に屋敷から遠ざかったことだけは覚えている。
その後、魔法国であるドルマン国内に居れば見つかってしまうと考えた俺は、他国を転々と旅した。出入国に必要な書簡なんて手に入る訳もなく、国境を超えるときは山や森の道無き道を通った。魔法が無かったら命は無かっただろう局面も数えきれないくらいあった。まだ12歳の俺が生きていくには、汚いことにだって手を染めた。生きていくためには魔術だって利用したし、国から逃げるために偽名をいくつも使った。4年も経つと、そんな生活にも嫌気が差して、また死へと逃げたくなった。
―――もう、いいのではないか。国からは充分遠ざかった。正妻も、兄も、誰も関係のない此所で死んでしまっても、今度は誰も気に掛けない。誰も邪魔しない。俺が生きてても、何の意味もないのではないか……
―――――そんな時。一つの依頼があった。
呪いの魔法を第二王子に掛けて欲しいという。
そんなの大罪だ。解っている。捕まれば死刑だろう。
でも、生きることに疲れていた俺は、その依頼を、受けた。
計画通りに目晦ましの水魔法を使って、やられた振りをして隙をついて王子に呪いの魔法、魔術を掛けた。
初めて王族に出会ったけれど、不思議な魔力のオーラだと思った。自身の持つ魔力は珍しい金色なのに微量で、精霊からの加護を受けすぎて色が混ざりすぎて混沌とした色になっている。こんな魔力のオーラは他に見たことがない。普通の人間はあまり持たない金色の魔力が、赤、青、橙、緑と混じると、キラキラと輝く漆黒のような、矛盾したオーラとなることを初めて知った。
魔術を掛けるのに成功はしたものの、やはり捕まってしまった。結界を張られた風の牢の中で、ぼんやりといつ自分が死ぬのか考えていると、いつの間にか結界が解け、空中に浮遊していた。
眼下に見える少女は王子様の依頼をしに来た少女と同一人物で。失敗を責めに来たのかと思えば、何だか様子が違う。
オーラが、王子様と一緒?
「変わらないんですけど!置いたら勝手に結界が解除されて風の牢が現れるはずって聞いたのに!」
いきなり、叫びだした。
情緒不安定?
……死ぬ前に、話してみるのも一興かな。
少女に興味を覚えて、会話してみると、依頼に来たときとはまるで別人で、素直で可愛らしくノリの良い、……ちょっと美少女すぎる普通のお嬢さんだった。育ちも良さそうなのに、いきなり人をチャラ男扱い。どこで覚えたんだそんな言葉。
変なお嬢さんだな、と思っていたら、少女は記憶喪失だと言う。
あぁ、そんな魔術もあったな。最後に読んだ黒い本に、精神を移す、魂の移植魔法とかいうの。本当に、前に出会ったときとは、別人なのか。
………………別人。別の、人生、か。
俺も、今までの人生でなく、別の人生を歩めるなら、
「お嬢さん、俺の名前はアンタが決めてくんない?気に入ればそれにする」
気付けば、そう口に出して頼んでいた。
目の前の、同じ人物でありながら、今までとは別の人生を歩むであろう少女に。彼女に決めてもらう名前なら、俺も。
今までの人生と、決別出来るのではないかと。
希望を、抱いてしまったから―――――。
「……………フロウ、とか?」
少女が答えたのは、俺の意表を突く名前だった。
しかも、言葉の意味は、知らないらしい。最も、もう既に廃れた言語で、俺が昔書庫で暇を潰してたときに見てた本に載ってたのを興味本位で覚えていた単語だから、まだ幼いとも言える少女が知らなくても無理はない。
昔の俺が、興味本位で覚えるほどに切望したその単語の、その意味は―――――――古い言葉で、『制約の無い自由』という。
俺に『自由』の名前をくれた少女、ルチア・アルバニア。俺は彼女のために、第二の生を歩もう。初めて俺に、『制約の無い自由』をくれた彼女だからこそ、俺の全力で、君を、守る―――。
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