永劫回帰の章
諸事情により放置していましたが、執筆を再開します。
拾弐 松永弾正
河内を北へ引き返す信長軍の行く手を遮る軍勢が現れた。
「お懐かしや、内府殿」
「なんと、松永弾正ではないか」
弾正久秀が討たれた時、信長は右近衛大将を兼ねる内大臣であった。
「老けられましたな、兄上」
と声を掛けたのは実弟の長頼である。
「共に丹波に攻め入って以来か」
その当時は兄弟共にまだ二十代。その後、長頼は丹波の守護代内藤家を継承して丹波に留まり、久秀の方はやがて大和の平定を任されることに成る。出世競争では弟の方が先行していて、弟の七光と言われた時代も有った。山城の南北に位置する国を兄弟で抑えて三好政権を支えていたのだ。
「これより先に進まれると、三好軍に行く手を阻まれますぞ」
と久秀。
「そなたは三好側に加わらなくて良いのか?」
大和に居た久秀としては、信長をそのまま行かせて背後を遮断すると言う手も有った筈。
「修理大夫(長慶)様であれば、あるいはそれがしを受け入れて下さるやも知れませぬが、世継の左京大夫(義継)様とは激しくやり合いましたし。そもそも当世の三好家はもっと上の世代が取り仕切っているので、それがしの食い込む余地が有るかどうか」
当世の三好家当主は長慶の父元長である。信長に同行していた細川晴元に仕えていたが、神輿として担ぐ将軍の人選で対立し、最後は顕本寺で一向一揆衆に攻め殺された。信長が生まれるよりも前の話で、彼の狙いは信長と言うよりは旧主晴元なのだろう。
「修理大夫殿はその全盛期に上洛したが、対面は叶わなかったな」
桶狭間の戦の前年で、信長がまだ尾張の小勢力で無名だったころの話だ。義元を討った後なら会ってもらえたかもしれない。いや義元を討って名を挙げた後なら、長慶に会う必要を覚えなかっただろう。
「今一度余に賭けて見る気に成ったか」
「その節は失礼をしました」
久秀は越後の上杉謙信の上洛に呼応して挙兵したが、肝心の謙信は領国へ引き返してしまい、孤立して城と共に滅んだ。
「この先に三好勢が待ち構えているとして、そなたの軍勢を加えて押し出せば蹴散らせるのではないかな」
と探りを入れる。
「それは可能かもしれませんが」
と同意しつつも、
「三好家の主力は四国に有ります。それは如何されますか?」
と切り返す久秀。
「敵兵力が纏まる前に叩くのが兵法の常道ではないか」
「普通ならそうでしょうが、あいにくとこちら側には大軍を送り込むだけの船が有りません。唯一の手段は四国勢をこちらへ渡らせて、彼らの船を奪う事です」
「なるほど。それも一理あるな」
と賛同した上で、
「ではどうしろと?」
「我が領国を通って京へ帰還されては如何でしょうか」
「判った。案内せよ」
信長は久秀の裏の意図も読み切った上でこの提案を受け入れた。
そもそも何故久秀が三好軍の待ち伏せを知っていたか。三好家からの指図を受けて、恐らくは前後から挟み打ちする作戦だったのだろう。しかしそれで信長を倒せたとしても、これは織田軍の半分に過ぎず、後継ぎの信忠からの報復は必至だ。この第二撃を凌ぐだけの戦力は今の三好家にはない。命令を無視して後ろからの奇襲をせずに見送ったとしたら、数で劣る三好軍は蹴散らされるだろうが、全滅はしない。久秀は三好家の怒りを買うだけで、信長へは恩を売れない。四国の主力と合流した三好軍の攻撃を真っ先に受ける事に成る下策だ。
信長から提案された、合流して三好家に当たると言うのは、傍観よりはましかもしれないが、先鋒を任されるのは必至で、自軍の損害が馬鹿にならない。何よりも直接旧主に弓を引くのはやはり気が進まない。信長としてはその心理も読み切って、久秀の旧主への借りを敢えて返させたのだ。
「やはり美しいな」
現世では久秀と共に燃え落ちた信貴山城を左手に見ながら大和へ入る。いわゆる信貴山越だ。
「父上、首尾よく行ったようですな」
久秀の息子久通が兵を引き連れて城外で出迎えた。
「大きくなったな彦六」
と声を掛ける長頼。
「儂の弟、お前の叔父だよ」
と久秀が紹介する。
自分とあまり見かけの年が変わらない叔父に戸惑う久通を見て、
「この世では珍しい事では無いな」
と信長も笑う。
「兵はあとどれくらいいる?」
久秀が率いていたのは千ほどだが、
「城内にはあと三千ほど」
「であるか」
信長は長頼に千五百の兵を付けて入城させて、代わりに同数の城兵を供出させた。元から久秀が率いていた兵を含めて二千五百なので、兄が弟とを入れ替えて、信長の手元の兵は千ほど増えた事になる。
「丹波も凄かったが、大和は一段と人の気配が無いな」
建物がほとんど見えず、森が広がっている。現世ではそこかしこに寺が林立していたのだが、
「大和は大名権力が弱く、派手な戦が少なかったですから」
奈良で大きな戦が有ったのは源平合戦の時代まで遡る。戦国時代には大名権力が構築されず寺社勢力が強かった。古都の外では国人領主同士の小競り合いは有ったが、奈良の街中は殆ど戦火を受けていない。そんな中で目立つのは、
「あれは東大寺か?」
この古刹は二度の戦火を体験している。一度目は平重衡による南都焼討。そして二度目はここに居る松永弾正と三好三人衆との兵火だ。
「三位中将(重衡)の南都焼討では興福寺も被害に有った筈だが」
「それなら」
と久秀が指差す方向を見ると、
「すっかり朽ちておるな」
「なにしろ四百年も前の話ですからなあ」
考えてみれば建物も手入れしなければ朽ちていくモノだ。戦で散った武人しか居ないこの世界では、建物を手入れする職人もいないのだ。
「源平時代の建物がこの惨状では、それより古い建物は残り様が無いな」
拾参 実父と義父
信長軍は奈良街道を通って山城に入る。淀城で援軍を率いて詰めていた中将信忠と合流した。
「これは三位中将様、お久しゅうござる」
と挨拶する久秀に、
「弾正か。帰参叶って何よりだ」
と鷹揚に対応し、
「日向が美濃の情勢について報告があると、安土で待って居ります」
と信長に報告する。
「そうか。摂津方面からの連絡は無いか?」
「そちらはまだなにも」
信長は淀城に三千五百の兵を残して残りを率いて安土へ向かった。元から居た兵が二千、大和から連れてきた松永兵を千五百の割合で、久秀自身も副将としてここに残る。そして松永兵の残り千名は久秀の家臣だった海老名と森の二将が率いる。こうして配置換えをしながら全体の均質化を図るのが狙いだ。
「美濃と尾張の情勢が判りました」
と光秀。
「当世の美濃を治めるのは齊藤道三殿でした」
現世では息子の義龍に討たれた道三だが、当世では恨みを晴らしたらしい。
「その道三殿から、尾張の信秀様との対面を仲介したいと申し出がありました」
「父はまだ健在なのか」
信長の父織田信秀の享年は四十二。今の信長よりも若い筈だ。
会見の場は美濃鷺山城。現世では道三の隠居城で、道三が討死した後は廃城に成っていた。
「久しいな婿殿」
道三自らが出迎えてくれた。一応兵は連れてきたが、供は光秀ともう一人だけ。案内された部屋に待っていたのは父信秀ともう一人。
「あれが我が父上ですか?」
信秀が伴ったのは息子の勘十郎信勝。信長が連れてきたのはその息子の七兵衛信澄である。信長親子と同じく、父親の方が若い。信澄の随行は信秀方の要望で、信勝との親子対面をさせたかったのであろう。まだ幼かった息子の方に父親の記憶が無いのは当然としても、父親の方も幼子がいきなり自分よりも年を取って現れたので困惑気味だ。
そんな息子と孫の対面の様子を横目で見ながら、
「儂の死後、随分と暴れたようだな」
と信秀に言われると、
「勘十郎の一件に関しては、どちらかが死ぬしかありませんでした」
と悪びれない信長。信勝の謀叛も一度は許したのだ。再度の謀叛については、家臣だった柴田勝家からの密告を受けて、仮病を装って謀殺するに至った。
まだ幼かった信勝の子はその勝家のもとで養育された。一門の序列では五位と厚遇され、序列一位の信忠以外がまだ現世にいるので、現状では序列二位と言う事になる。
「謀叛についてはそれがしの不明とお詫びいたします」
と信勝が頭を下げた。
「また息子を引き立てて戴いたことに感謝申し上げます」
「お前の活躍のお蔭で、尾張美濃はここ数年平穏だ」
と信秀。
「現世で大きな合戦があると兵たちが大量に落ちてきて、勢力の均衡が崩れることがしばしばだ」
尾張と美濃は信長の本領として戦いが無くなったので突発的な勢力の発生が絶えていると言う。
「国境に今川軍が出現した時には肝を冷やしたぞ」
と笑う信秀に、
「尾張の統治は父上が?」
「まあ武衛殿を形式的に担いではいるがな」
武衛殿とは尾張守護の斯波家を指すが、この場合は信長の時代に弑逆された義統を指す。信秀はこの悲運の守護を庇護し、これを討った守護代織田信友とその父信達を処断することで尾張の実権を握ったと言う。
「それで今川治部は如何相成りましたか?」
今川治部太輔義元が信長軍に討たれたのは二十年も前の事だが、
「それがな、隣国三河の松平家が手強くて、今も共闘状態にあるのだよ」
当世の松平家の当主は清康と言う。信長の同盟者であった家康の祖父であるが、信長がまだ物心つく前に若くして亡くなっている。
当世では病死した者よりも討死した者の方が手強い。老化しないので若くして死んだ者ほど厄介だ。清康に謀略を仕掛けて死に追いやったのは実は信秀なのだが、
「自ら蒔いた種に手を焼かされている」
だがそれだけでは無い。
「奥三河に松平家に手を貸している勢力が居てなあ。これはお前の方が詳しいだろう」
三河長篠で討たれた武田の兵たち。そしてそれを率いるのは武田信玄入道である。
「武田の勢力が三河まで?」
と訊くと、
「信玄は本国の甲斐に戻れずに信濃の山奥に逼塞していたらしい」
甲斐を仕切っているのは先に死んだ祖父信縄。そこに信玄に殺された嫡男義信が先に合流したために信玄は武田の本家から義絶状態なのだ。その一方で長篠で討死した将兵は信玄の跡を継いだ勝頼に物足りなさを感じていた信玄の崇拝者たちである。つまりは名門武田家は親信玄派と反信玄派とに分裂状態と言うことだ。
「分裂と言うなら、今川治部も長兄の死後の家督争いで勝ち残っただけに、家に戻っても父や兄が居て立場が弱い訳だ」
現世で同盟関係にあった義元と信玄であるが、協力して家を奪い取るにしても、どちらを先にするかで意見がまとまらずに協力できずにいる。
現世の時とは違って、今の戦力さなら義元を討つのは容易いが、得るものは少ない。むしろ義元を押したてて今川領を攻めとる方が利が多いと言える。
「会ってみるか。治部に?」
組むにしろ戦うにしろ、一度会ってみたい。と信長は同意した。
「但し会うなら兵を調えてから」
と言う事で一度戻ることにしたのだが、そこには思いもかけない事態が待ち受けているのである。




