信長降臨の章
序 妖管領
『ようこそ修羅の世界へ』
目覚めると笠のお化けがそこに居た。
「笠のお化けとは失敬だな」
笠の端から顔が現れた。
わしは地面(と言っても全く感覚が無いが)に横たわっており、わしの上方に大きな笠が逆さに浮かんでいる。笠が中空に浮かんでいるだけでも奇妙だが、何者かがその上に座ってその端からわしを覗きこんでいる。
「汝は死んだ。家臣の裏切りにあって。覚えがあろう」
「是非も無し」
「どうやら冷静に話せそうだな」
謎の男は笑った。
「先ほど修羅の世界と聞こえたが?」
「汝がこれから行く土地には、現世で戦いの果てに散った武士たちが集まっておる。そして生きていた時の妄執に摂り付かれて、再び戦いに身を投じておる。何とも痛ましい事よ」
「それで、貴様はその番人なのか?」
「いいや。吾もその住人の一人。この世界を変えたいと思うモノだ」
「それで、余をどうするつもりだ」
「汝を吾の後継ぎに迎えたい。吾は汝のような男を長いこと待っておった」
「後継ぎだと。大体貴様は余より若く見えるぞ」
「吾は汝よりも若くして死んだからの。死人はそれ以上年を取らぬ」
と男は笑った。見掛けよりも年寄りらしい。
「汝が行く、わしらの住む世界は、見掛けは前世と瓜二つ。ただし人工の建物はほとんど無い。例外としてあちらで戦いによって失われた建物が存在する。どうやら戦いによって失われたものが、これは人も含めての話だが、元通りに復元されてこちらへ移されてくるらしい。そして死を遂げたのと同じ場所で目覚める事に成る。つまり汝の体はこの世界に再生した本能寺へ向かっておる」
「貴様。こちらの住人と言うなら、わしの素性をどうやってそれを知った?」
「吾は生きている頃から人とは異なる妖術を身に付けておってな。こうして笠に乗って飛ぶのもその一つだ」
「つまり今のわしは目覚める前。肉体が復元される途上という事だな」
「理解が早いな」
「肉体は現世で死んだ時の状態で復元される。つまり若くして討死した者は若い状態で目覚める。死体だから物を食う必要もないし、暑さ寒さも感じない。故にこの世界では土地を巡っての戦いは無意味だ。それでも戦いの本能は消えぬ。ある者は復讐の為に戦い、ある者は権力欲に取り付かれて、更には純粋な闘争本能だけで動いているモノもある。死体だから新たに受けた傷は治らないし血も出ない」
「そんな連中をどうすれば殺せる?」
「手足を切れば動きを止められる。首を落とせばもはや戦うことは出来ない。一番良いのは燃やすことだが、火を起こす手段は限られるからな」
「厄介だな」
「もっと厄介なのは武器が乏しいことだな」
落ちてくるのは武者ばかり、となれば武器を作るものがいない。武器を持って死んだものはそのまま落ちてくるので使えるのはそうした使い古しだけ。純粋に武者だけの世界。
「なるほど」
男が「修羅の世界」と評した事も肯ける。
「吾はその修羅の妄念を浄化したいのだ」
実際、彼の支配領国ではあらゆる復讐・闘争が禁じられていると言う。
「これは吾の人徳と言うわけでは無論ない。ただ吾の妖術が恐れられているにすぎぬ」
内なる闘争は押さえられても、これを外に向けて解放することは出来ない。出来るのは現状維持が精々だ。
「この膠着状態を打破するために、汝の力が必要なのだ。第六天魔王よ」
男の口調にはどこか揶揄の色を感じる。
「改めて聞くが、貴殿は誰なのだ」
先ほどよりは少し丁寧な口調になっている。
「もう察しがついているのでは無いかな」
「細川右京大夫政元殿」
「御名答だ」
天狗狂いの妖管領。だが普通に名乗られたとして素直には信じなかっただろう。
「汝は吾と良く似ておる。天下を我が物にしながら家臣の裏切りにあって死んだところも」
「一緒にするな」
魔法に狂い政治を省みなかった政元と、自分は違う。自分の目指した天下布武は。
「そうだな。吾は将軍の首を挿げ替える所までは行ったが、将軍権力そのものを否定することは出来なんだ。当然だな。吾の権力の根源は将軍を補佐する管領職にあるのだから」
将軍に任命される管領ではなく、将軍を任命する管領。だが管領職にある限りは、将軍を上に戴く体制からは逃れられない。ならば管領を辞めればよい。だが政元には後を託せる息子がいなかった。魔法を修めるために妻を持たなかったからだ。だが、
「よりによって何故三人も?」
「馬鹿な子ほど可愛いと言うが、養子となるとそうも行かない」
愛情抜きで純粋に能力だけで見てしまうから、評価はどうしても辛くなる。新たに優秀な人間を見つけると、そちらに乗り換えたくなる。
「挙句の果てに、最初の養子に殺されたわけか」
と皮肉るが、
「だが、吾の見立ては確かだった」
政元を討った最初の養子澄之は、それよりマシな二番目の養子澄元に倒されて、その澄元もより優れた三番目の高国に討たれた。だが難しいことに、その高国を倒したのは澄元の息子晴元だったのだから人の値踏みは難しい。
「でその養子たちは今はどうしている?」
「無論健在だ。まあ兄弟仲良くとは行かぬが」
「先ほど後継者にと言ったが、余を四人目にするつもりか?」
「この修羅の世界で、親子関係など意味はあるまい。吾の後継ぎとなる条件は力のみ」
要は力を蓄えて奪いに来いということか。
壱 本能寺
見覚えのある天井。先ほどの妖管領との会見も只の夢かと思えるが、一つだけ違うのは手に握った懐剣。腹を切るときに使ったものだ。
死んだものが死んだ場所に出現するのなら、この本能寺には彼を守って死んだ家臣達も来ていることになる。
「たれぞある」
信長は声を張り上げて呼んだ。
現れたのは懐かしい顔だ。
「お乱か。やはりそなたも来て居ったか」
「どうなっているのでしょうか。目覚めたら刀を握って倒れていたのですが」
記憶が混乱しているようだ。
「忘れたか。余もそなたも既に死んだ身ぞ。邸内にいるものを全て呼び集めよ」
信長は命を下した。
「多くないか?」
集まったのは三百五十ほど。当時本能寺にいたのは信長の小姓習で三十名ほどだった筈。顔ぶれを見廻すと京のあちこちに宿泊していた馬廻り衆が駆けつけて命を落としたのだと分かる。がそれにしても、
「邸内で討ち果たした寄せ手の兵も集めてあります」
と蘭丸。
先ほどまで戦っていた者同士が整然と並んで彼の言葉を待っているのは他家では考えられないだろう。
寄せ手の明智兵は多くが誰と戦っていたのかすら知らされていなかったらしい。直属の指揮官に従って目の前の敵と戦う。これこそ信長の求めていた理想の兵士達だ。それに足元をすくわれたのは皮肉ではあるが。少し気の利いたものは上方に来ていた家康を謀殺するのだという出所不明の情報を聞かされていた。これは光秀の情報操作の見事さを表している。
それにしても、
「まだ足りぬな」
兵の絶対数もそうだが、この中には将を任せられる人材がいない。まあ当然だろう。そう言う人材は全て最前線へ置かれているのだから。
「まずは手近な味方と合流しよう」
「味方と言われましても」
と蘭丸。この若者は行政官としては有能だが、将に必要な突発的状況への適応能力が欠けている。
「明智が中将(信忠)を見逃したと思うか?」
そもそも信長だけを殺すのであれば、光秀には幾度も機会が有った。しかしそれではただの暗殺事件であって、信長の政権を奪うクーデターにはならない。後継者の三位中将信忠を同時に倒してこそ天下取りは成るのである。
もし光秀が信忠を逃すようなら、彼への評価を変えなければ成らないだろう。逆に信忠が光秀の攻撃をかわして逃げ延びるようなら、信長は息子を過小評価していたことになる。
本能寺の外、修羅の世界の京の町並みは信長の記憶にあるものとは大きく異なっていた。
「なるほど、そう言うことか」
戦災を受けた建物が落ちてくると言う原則を当てはめれば、そこに広がるのは応仁の大乱で焼けた古き京の町並みと言うことになる。
ともかくも信忠が宿泊していた妙覚寺のあったと思しき方面へ兵を進める。するとある一角、建物の無い空き地があった。そしてそこに信忠軍が所在無く群れ集まっていた。
信忠は明智軍を迎え撃つために隣接した二条御所へと移っていたのだが、その二条御所は元は二条家の館であり、応仁の乱で焼け残った建物であったのだ。故にこの一角は逆に空白地となっていた訳だ。
「春長軒、うぬも来ておったか」
こちらの正体に気付き、真っ先に駆けつけてきたのは京都所司代村井貞勝であった。
「上様、ご無事でしたか」
「馬鹿め、無事でないからここに居る」
信長は苦笑いをした。この能臣にして、いや能臣であるがゆえにこの異常事態に対応できないと言うべきか。
「ここにはどれくらいの兵が居る?」
「中将様配下の馬廻り三百に加え、京のあちらこちらに分宿しておりました上様の馬廻りが五百名ほど加わっております。それと…」
とここで言いよどむ貞勝に、
「襲ってきた明智の兵も混じって居るな」
その中には明智孫十郎、光秀の近親も含まれていた。
「それも合わせて千六百から七百ほどになりますか」
「すると道連れがほぼ同数か。些か物足りぬな」
「残念ながら、こちらに来てから逃げ去った兵も居りましたから」
とこれは知らせを受けて現れた信忠本人の弁明。なるほど。本能寺は炎上して建物ごとこちらに落ちてきたが、こちらは建物が無いので逃げようと思えば逃げられた訳だ。
逃げたと言えば、信忠とともに居たはずの寄騎武将が何人か欠けている。彼らにとって信忠は主君ではなく上司に過ぎない。主君はあくまでも信長であり、主君が亡くなったとあれば単なる上司に命がけで奉公する意味は無い。信長が亡くなったと成れば、その後を継ぐのは信忠であるはずなのだが、彼らは信忠の下について日も浅く、親密な関係を結ぶまでは至っていなかったのだろう。
「実は長益の兄上が見当たりません」
といったのは信長の末弟長利。話によると、信忠に強く自害を勧めたのが長益であったと言うのだが、
「いざとなると恐怖が先に立ったか、あるいは初めから囮にして逃げる気だったのか」
いずれにしてもあの弟らしい。
「新五、おぬしもおったか」
斉藤新五郎利治。かの斉藤道三の末子、つまりは信長の義弟と言う事に成る。
「こちらの手勢と併せて二千余りか。桶狭間を思い出すな」
数は同じでも、その質は大きく異なる。桶狭間当時の二千は、信長が実戦で鍛えた熟練兵ばかりであったが、今の二千は後方担当の奉行衆や未来の官僚候補が多く混じっている。それでも、信忠の側で死んだ者の中には信長が寄騎としてつけた将レベルの人材が何人か居た。
信長自身が五百を率い、残りの千五百を五つに分けて三百ずつに編成し直すことにした。これを率いる五人の部隊長は、信長の弟信利に五男の信房。斎藤道三の末子で美濃加治田城主の利治、尾張羽黒城主梶原景久、その一族で美濃岩村城主団忠正。そして再編成を担当するのは菅谷長頼。これに蘭丸成利を補佐としてつける。
弐 叡山攻め再び
「さし当たって落ち着き先を探しませんと」
と言ったのは村井貞勝。京の所司代を任せていた行政官である。
「そうさな。近江坂本か丹波亀山」
いずれも謀反人明智光秀の居城である。信長を討った光秀だが、そのまま天下を取れたとは思えない。早晩信長の配下の誰かに討たれてこちらにやってくるだろうという見込みだ。
「捕らえて仇討ちですか?」
と訊いて来る息子に、
「たわけ。あれほどの将をただ殺す訳が無かろう。兵はいくらでも欲しい。有能な将となればなおさらだ」
実際に死んだ今となってはもう一度殺せるのかどうかもまだ分からないのだ。
「二月だな」
二ヶ月間、持ち堪えられれば光秀の勢力は生き残れるだろう。と信長は踏んだ。
「我が家中で明智日向と戦えるとすれば、まずは北陸の柴田修理。あるいは中国の羽柴筑前。我が家臣ではないが今は上方で右往左往しているであろう徳川三河守辺りか」
この三人を倒すか、退けるか出来れば当面は生き残れるだろう。
「但し、それですんなり日向守の天下に成るとは言えぬが」
中央を支配していた織田家が分裂弱体化し、周辺大名に浸食されて再び四分五裂と言う事も充分にあり得るのだ。
「まあ現世の事は、死んだわしらの預かり知らぬ話だ」
「どうします。兵を分けるのは問題が」
と中将。
「既に坂本へは人を遣わしておる。その結果次第だな」
近江坂本と言えば蘭丸成利たちの父森可成が討死した地だ。志賀の陣は十年以上前の事なのでまだそこにいるかどうかは判らないのだが、光秀の動きによっては近江方面に新たな味方が落ちてくることも考えられる。そうした者達から娑婆の戦況が分かるかもしれない。
信長が派遣したのは可成の二人の子供、坊丸長隆と力丸長氏だ。
「あの二人、父の顔を覚えているでしょうか」
と不安がる兄蘭丸だが、
「その点ではお前も怪しいな」
と言われ返す言葉も無い。
「勝蔵は父そっくりになった。あれを参考にすれば問題あるまい」
勝蔵とは可成の次男、武蔵守長可である。
戻ってきたのは力丸一人。
「早かったな。駄目だったのか?」
「いいえ。父には会えました。それよりも上様に危機が迫っております」
「危機だと?」
「叡山に、総兵たちがいます。彼らが上様の存在を知れば必ず襲って来ましょう」
「叡山だと」
信長は東の方を見やった。
「余が叡山を焼いたは十一年も前だが、それ以上に叡山の僧がこの世界に落ちてきている事の方が滑稽だな」
信長は直ちに兵に号令を出した。
「連中が動き出す前にこちらから攻めてやろう。力丸、向こうはどれほど兵が居た?」
「おおよそ五百」
「中将。梶原源左衛門(景久)と団平八(忠正)の六百を率いて向こう側と合流しろ。夜明けと同時に東西から攻め上がる」
「私も行きます」
と言う力丸だが、
「お前は少し休め。代わりに蘭。お前が同行しろ」
払暁を期して信長による二度目の叡山攻めが開始された。
初めの一撃で半数が倒れた。彼らは誰と戦っているのかすら理解しなかったであろう。
「武器を捨てろ。武器を持って立っているモノは敵とみなして殲滅する。武器を持たず、座っているモノは降伏したと認める」
全軍にそう叫ばせた。
半時余りで決着は付いた。最終的に降った兵は約三百名。
「貴様らどこの兵だ。何故こんな無道を」
「余は織田信長である」
その一言で全ての答えとなった。
「見れば僧形のモノが何名かいるようだが、仏道に仕えるものがこの様な修羅の世界へ落ちて来るとは、嘆かわしいな」
信長は数名の指導者と見られる僧形のモノを引きだして、
「成仏させてやろう」
と言って首を刎ねさせて、
「残りは解放してやる。どこへなりと行くがよい」
「宜しいのですか?」
と訊ねる信忠に、
「良い。奴らは余の為には戦わぬであろう。それよりもこの信長がこの地に降り立った事を広く知らしめる役を与えてやる」
織田軍はこの世界へ来て最初の拠点を手に入れた。