第1話 黒猫
私は、完全に固まっていた。
私の様子などお構い無しに、猫は深いため息を吐きながら滑らかな動きで椅子を飛び降り、身動き取れず寝たきりの私の上へ容赦なく飛び乗ってきた。そういえば、去り際に悠禅が猫置いてくとかなんとか言っていた気がする。
何一つ理解できていない動揺している私は、ただお腹の上の黒猫を見つめることしか出来なかった。
使えない頭を働かせて、霧がかかったような記憶の中から悠禅が言っていた言葉を思い出そうと試みるが、残念ながら私の頭はポンコツだった。
「おい」
考え事をしていた私は、いつの間にか目の前に迫ってきていた猫に気付いていなかった。予想外にすぐ側で聞こえた声に反射的に身体がビクリと動き、全身に痛みが走った。余りの痛みに悶絶する。わなわなと痛みに震える私の目の前でフワフワの尻尾を揺らしながら、鋭い目付きでこちらを見ている黒猫は更に深いため息を吐く。次の瞬間、鈍く光る猫の爪の鋭い先端が私の左目寸前に迫っていた。
「俺様を無視するなんて、いい度胸だな」
「ヒッ…」
「返事も出来ないのか、死ぬか、今」
「す、すみません…もう死にかけてるんで勘弁してください…」
「ちっ」
訂正しよう。
フワフワの可愛らしい猫、改め、腹の底まで真っ黒な毒舌黒猫だったらしい。私の精神疾患もついに最終ステージに到達してしまったのか。可愛らしい黒猫が、しかもかなり、辛辣な言葉を話すなんて。なんてこった。
「ちびっ子、お前、何考えてる」
「ちびっ子って…猫に言われたくないんだけ「…おい、次俺様のことを“チビ”って言ったら、その左目抉り出すからな」すみません、肝に銘じておきます。すみません、爪しまって下さい。」
「ちっ…悠禅の奴面事押付けやがって、戻ったらタダじゃ置かねぇ。」
猫に脅迫される日が来るなんて思いもしませんでした。猫も人も見かけで判断しちゃ駄目ってことね。うん。理解した。
「猫さん、聞きたいんですけど…」
「あ?誰が猫さんだ。俺様を“さん”付けするなんて千年早い、“アオ様”と呼べ」
「…ア、アオ様。さっき、悠禅が私を連れて行ってくれた場所って一体何処なんですか? 確か、あの時悠禅は“あちら側”とか“こちら側”とか言っていた気がするんですけど…」
「…その質問に答えてやる前に、アンタに一つ確認しておきたい」
黒猫、アオは目を細めて私を見ながら言葉を続ける。
「アンタが来る事を、俺様は歓迎しない。“あちら側”へ行った所で、アンタが幸せになれる保証も無い。もしかしたら、“こちら側”に居た方が寧ろ幸福で居られるかも知れない。それでも、行くのか?」
アオは真っ直ぐに私を見る。その目は何処か寂しさを漂わせている。
「…うん、行くよ。もう決めてるから。私は、悠禅に助けて貰ったの。だから、彼に恩を返したい。それが本音。」
「………そうか」
アオの目が一瞬燻って見えたのは気のせいだろうか。
「ならば、俺様はもう何も言わない。」
そう言うと、アオは身軽に私の上から飛び降り元居た椅子の上へと軽やかに移動する。その直後、私とアオの間に立つように突然大きな影が現れた。甘いお香の香りが辺りに漂う。
「お待たせしました…おや、アオさん。お邪魔でしたか…?」
「…るせぇ、さっさとしろ。俺様を待たせんじゃねぇ。」
突然現れた悠禅に驚きを隠せず、瞠目したままの私に気付いた彼がニコリと微笑んだ。
「…あれ、確か、明朝迎えに来ると…」
「えぇ、ですから、お約束していた明朝にお迎えに参りましたよ。」
「でも、私ついさっき目が覚めたばかりで…え、あれからもうそんなに時間が経ってるの?」
「…アオさん、起こして差し上げなかったのですか?」
「ふざけろ、なんで俺様がわざわざコイツを起こしてやらなきゃいけないんだ。間抜けなツラして寝てたんだ、知るか阿呆。」
完全に馬鹿にした顔で私に目を向けるアオに、私は怒りを通り越し殺意を覚えた。そんな私の怒りのこもった視線などお構い無しに、アオは毛繕いをしている。この腹黒猫め。
「悠禅、私なんの用意も出来てない…荷物もこの、耳あてくらいしかないよ!」
言いながら、私は枕元に置いてあった母から貰った兎の耳あてを指差す。スマホも荷物も全て失った私の手元に残った唯一の持ち物だった。悠禅は腕を組み困り顔で首を傾げる。
「…そうですか、それは困りましたねぇ。しかし、申し訳ないのですが…」
言葉の途中、突然悠禅が私の手を掴んだ。アオはいつの間にか悠禅の肩に飛び乗っている。
何だろう、何か、くる。
目に見えない圧迫感を感じ強く目を閉じたその直後、突然全身から力が抜け驚くほど身体が軽くなった。私はそっと目を開く。
そこは先程まで私が寝ていた病室ではなく、何も無い広い部屋の中だった。身体の痛みはなく、私は自分の足で立つ事が出来た。
ゆっくりと顔を上げると私の視界一杯に、空間に不自然に空いたとてつもなく大きな黒い穴が広がっていた。
「こっから先は、神のみぞ知る、か」
「…え?」
「門の開閉は時間厳守ですので、もう出発させていただきますね」
「えぇ?」
「あぁ、あと言い忘れていましたが、門を潜る時に対価として貴方の身体の一部が必要なんです。」
「何それ怖っ!そんな大事な事言い忘れるってどうなの?!言い忘れていいレベルの話じゃないよね?!!」
「ですから…」
言うやいなや、ザクリと耳元で音が聞こえた。血の気がひいた顔で悠禅を見上げると、彼はいつもの澄ました笑顔で右手に鋏を持ち左手には……
「貴方の髪を、いただきますね」
「怖っ!もう切ってるし!しかも、き…切りすぎでしょ?!!」
「また伸ばせばいいでしょう?それとも、手足の指一本頂いた方が良かったですか?」
「髪でも指でも何でもいいから、さっさとしろ、俺様を待たせんな」
「………いえ、髪で結構です。髪でお願いします。」
ドSか。
コイツらドSなのか。
それなりに手入れし三年以上伸ばしていたのに、よりによって顔周りをザックリ肩上まで切られてしまった。これは修復不能だろうな、と不格好な頭で項垂れる私を他所に、悠禅は私の手を引き眼前の真っ黒な穴の方へと歩き出す。
「さぁ、いきましょうか。“こちら側”へ。」
暗い闇に触れた瞬間身体が何かに吸い込まれる感覚を覚える。
新しい何かがこれから始まる。
私の中に僅かな高揚感がうまれる。
闇に飲み込まれるように二人と一匹の姿がその場から居なくなり、同時に空間に空いていた穴も跡形もなく消失する。
それは私、神野葵の存在が彼らの言う“あちら側”の世界から、消えた瞬間だった。