日常よこんにちは、さようなら 後
煩い。
先程からずっと耳元で奇声が聞こえる。狂った様に叫び続ける声は機械音のように脳に直接響いてきて、吐き気がする。いい加減静かにしてくれないだろうか。私はまだ眠いのに。
パパが私を起こしに来たの?
スマホのアラームが鳴り続けてるの?
煩い、
煩い、
ウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイーーーーーーーーーーー...
「葵さん!葵さん!!落ち着いて!!誰か先生を呼んで!」
喉の焼けるような痛みと頭痛で、私の意識が浮上する。
先程からずっと煩く叫んでいたのは、私だったのだ。
目を開けているはずなのに、どうしてだろう。何も見えない。
暗い、怖い。
怖い。
顔に触れると何かで目元を覆われているのが分かり、乱暴にそれを剥ぎ取る。突然の明るさに一瞬視界が歪むがやがて歪みは消え真っ白な天井がぼんやりと見える。
でも、何故だろう。よく見えない。特に、左側。
どれだけ叫んでいたのだろうか、喉の奥が熱を持ちヒリヒリと痛む。
慌ただしい足音が響いたかと思うと勢いよくドアが開かれ誰かが近づいてきた。
「神野 葵さんですね?私の声は聞こえますか?」
喉の痛みで声は出せそうに無かったので、小さく頷く。
「ここは、病院です。私は君の担当医、板尾と言います。君がどうしてここに居るのか、覚えていますか?」
私は首を傾げた。
病院?
私、何してたんだっけ。
困惑している様子の私を見て、先生は看護師に何か指示を出す。
「あなたは、一週間昏睡状態にありました。ガラス片が目に飛び散ったようで違和感があるだろうけれど、暫くすれば元のようにもどるでしょう。」
「…っ」
「しかし、あなたの右目ですが…傷が深く網膜まで損傷しており、放っておけば壊死してしまい脳にまで影響を及ぼしかねない状態でした。大変申し訳ありませんが、身内の方の承諾を得、切除させていただいております。脳に損傷は見られませんが、左脛骨と骨盤を骨折されていますのでまだ暫く動かないように気をつけて下さい。」
え…?
「あの事件でこの程度の怪我で済んだのは奇跡的です。今はまだ混乱しているでしょう、暫く休んでから、また詳しくお話しましょう。」
…事件?
先生の言うように私は混乱しているようだ。考えれば考えるほど頭に、目に、痛みが走る。私は掠れた声を絞り出して、病室を出ようとする先生を呼び止めた。
「先生…」
「はい、何でしょう」
「…パパと、ママは」
不安だった。
知り合いが1人も居ないこの場所で、あの二人が傍に居てくれないこの状況が。
「…」
「パパと、ママは、どこ?」
「……手は尽くしましたが…救急車が到着した時にはもう、手の施しようがない状態でした。本当に、残念です。」
「…」
「…では、また後ほど伺います。」
それだけ言うと、先生は病室を出ていく。続いて看護師達も大人しくなった私に安心したのか、それぞれの持ち場へと戻っていった。
次第に、私の中で混乱し散り散りになっていた記憶の欠片たちが元形を取り戻し始める。頭が割れそうに痛い。
痛みが、記憶を呼び起こす。
私の背後から迫る影に気付いた父が、乱暴に手をひいて突き飛ばし、そのまま勢いよく滑り込んできた大型トレーラーに巻き込まれた二人…
全部、見ていた。
全部、覚えてる。
あぁ、そうだ。
夢じゃ、無かった…
あの日、私が懸賞なんて送らなければ
あの日、私がハワイ旅行なんて当てなければ
あの日、私があの場所に座っていなければ
あの日、私が父の誘いを断らず一緒に飲み物を買いにいっていれば
あの日、私が外に出るなんて言わなければ…
恐怖が、絶望が、忘れていたあの見えない暗闇が私を包み込む。
私のせいだ。
私が外に出てしまったから。
外に出ちゃ行けなかったんだ。
私が、
私が_______________…
______________…こんにちは」
静寂の中に突然響いた声に、私は真っ白な頭で重い顔を上げる。するとそこには、あの日見かけた黒髪の男の人が不自然に立っていて、足元には青いリボンを付けたあの黒猫が寄り添いこちらを見ている。背筋を恐怖が這い上がってくる。
怖い、
「怖がらないで」
怖い、怖い、怖い、
ほら、また、あの感覚だ。底知れぬ闇が私を包み込むような得体の知れぬ恐怖感。
男の影が近づいて私に手を伸ばす。
「ーーーーーおいで、君が望むものを、あげるから」
怖い、
怖い、
怖い、のに
何かに背を押されたような気がして、私は差しだされた彼の手を握りしめていた。
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__________…
脳で理解できない事が起こると、人は呼吸を忘れてしまう。私が男の手を取った瞬間、先程までの真っ白な病室の風景が一転した。夢でも、見ているのだろうか。
そこは古風な造りの建物で、骨董品なのかよく分からないものや色鮮やかな雑貨などが所狭しと並んでいる。それは足元や壁一面、天井の梁にまでも飾られていて、掃除が行き届かない所には薄く誇りが被っていた。
「こちらです」
先を歩く男に手を引かれ、見慣れない風景に泳いでいた視線を男へ向ける。
一歩足を踏み出して、漸く気付いた。
「あれ、私、怪我」
「怪我はあちら側で負ったものですから、こちら側には関係ありません」
「ごめんなさい、何を言っているのか…」
男の言葉の意味が分からない。
男は店の奥へ私を連れて進んで行く。赤やピンクや水色、錦糸の刺繍が施された豪華な天蓋を抜けると、純白のテーブルと同じ造りの椅子が二対置かれていた。
男に連れられるまま、私はその椅子に腰掛ける。
私を椅子に座らせると男は一人、更に奥の襖の中へ消えていった。天井にはガラスのシャンデリアが設置されていて、電球ではなく蝋燭の光を使っているそれはとても幻想的に輝いている。
程なくして、男が戻ってきた。
「お待たせしました」
黒い着物に派手な打掛を羽織り現れた男は、まるで別人のようだった。
精巧な作りで、小さな木箱の引出しが無数にある薬箱のような物を片手に、男は私の向かいの椅子に座った。
慣れた手つきで男は木箱の引出しをあけ、翡翠色の陶器を取り出し私の前に置く。
細かな装飾を施してあるそれは、息を呑む程美しかった。
「綺麗ね」
「香炉といいます」
器の蓋を開けると、中には真白な灰が詰まっていた。
男はまた別の引き出しを開け中から円錐型の小さな塊を取り出し、灰の中央に置いた。男が天蓋を閉じる。シャンデリアの無数のガラスに蝋燭の灯が反射して、その空間を淡く照らした。
「これは、香です」
「香、」
「特別な香です」
慣れた手付きで男が香に火を灯す。白煙が立ち上り、お香の香りが部屋に満ちる。他人事のようにその光景を見ていた私の視界が、ふと、遮られた。背後には人の気配を感じる。どうやら男の掌が私の顔を覆い隠しているようだ。
背後の男はそっと屈み、私の耳元で囁くように言った。
「時間は、そう長くはない。触れることは出来ない。会話も出来ない。出来ることは、君の言葉を伝えることだけ。」
「何、」
「そして、一つ、約束してもらう。香が燃え尽きるまで決して私から離れないこと」
「何が、始まるの?」
「言ったでしょう、君が望むものをあげると」
辺りに漂う香りに酔ってしまいそうだ。心臓の音が酷く煩い。
視界を遮っていた男の掌が、ゆっくりと離れた。
「…な、に、?」
開けた視界は濃い白煙に包まれていた。男が焚いた香のものだろう。ただの煙であるはずのそれは、生き物のように蠢いて見えて少し気味が悪いと感じた。
生暖かい何かに頬を撫でられているような感覚に小さく身震いをすると、男は私の肩に乗せていた手をそっと滑らせ膝の上で握りしめていた私の両手に重ねた。
指先で私の顎先をくいと持ち上げ、ぼんやり白煙を見ていた私の視線を、香が立ち上る白煙の中心へと向かせる。
男の言葉の意味も行動も理由が分からない。
もうずっと真っ白な頭でじっと見つめた白煙の先に、それは不自然に、しかし鮮明に、確かにそこに浮かび上がった。
「何、これ」
「君が、望むものだ」
白煙の中に確かに浮かび上がる影は私の両親の姿をしていた。
写真か映像だろうか。しかし、それにしては動きがまるでそこにいるように、私の声が聞こえているように見える。その鮮明な影はいつものように微笑んだ。力強くこちらに手を振る父、それを落ち着けるように微笑む母。私にとって日常の光景がそこに浮かんでいた。
押し込めていた感情が膨張し、何かが胸の奥から込み上げる。
私の残った左目から、一筋涙が零れ出た。
「何か伝いたいことが、あるのでしょう?」
男のその言葉は私の胸に深く突き刺さる。
封を切ったように、押し込めていたものが、言葉が、溢れだす。
「…ご、めんなさい、いつも、パパに、冷たくあたって、ママに我儘ばかり言って、心配かけて」
白煙の中の二人は首を横に振り、嬉しそうに笑った。まるで私の話が聞こえているかのように、いつものように側にいてくれているように。
「お外、出ないって、いつも、我儘ばかり言って、甘えて、ごめん、なさい」
白煙の中、母は優しく微笑む。
父は、泣いていた。
あぁ、全部、全部、夢ならいいのに。
また、いつも通りの朝が来て、心配性の煩い父といつも優しく笑う母親が居て。
それで良かったのに。それが、当たり前だと思っていたのに。
こんな日が、来るなんて。
押し込めきれない感情が涙となって溢れ出る。左目から滝のようにとめどなく流れでる涙。右目はもう泣けないけれど、奥が熱く疼いた。嗚咽混じりに絞り出す声は嗄れてして、見るに耐えない酷い有様だ。
「ごめん、なさ…ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ…」
これが映像でも何者であろうとも、もうどうでも良かった。私の中で押さえ込んでいた感情全てを言葉にしよう。
私は頭を抱え、振り乱し、顔を両手で覆い泣き叫ぶ。
男が私の頭に触れた。男の手は、いつか父がしてくれた様に暖かく、優しかった。
白煙が揺れる。
香が焚き終わるのか、虚ろい、揺れ始める。
「…待って、お願い、一人に、しないで、パパ、ママ…二人が居てくれないと、私…ッ」
白煙が薄れ二人の姿が次第に見えなくなる。これで最後と言った男の言葉が頭の中にこだます。寄り添う父と母の姿は、私に何か伝えたそうに、悲しそうに歪んで見えた。
「…ごめ、なさ……ありがとう、ずっと、大好き」
囁くように零した声は届いただろうか。白煙は霞んで消える。
最後に見えた二人の顔は、いつも通り優しく微笑んでいたように見えた。
役目を終えた香の灰が香炉に積もる灰に溶け込むように崩れる。
男は滑らかな手付きで香炉の蓋を閉めた。
静寂の中に、私の荒い呼吸だけが響いていた。
どのくらい時間が経ったのだろう、私の呼吸が落ち着いた頃合を見計らったように男が口を開いた。
「…落ち着きましたか?」
いつの間にか私の後ろを離れ、向かい合った椅子に腰掛けて足を組みこちらを見ている男。
「…はい、頭の中は真っ白だけど」
「そうですか」
「…あれは、何?あなたは一体、誰なの…?」
ちりん、と鈴の音が足元で鳴った。いつからここに居たのだろう、あの青いリボンの黒猫が男の足元にすり寄り、膝の上へ飛び乗った。男は優しい顔をして、猫が乗るのを見届けてから口を開いた。
「これは、“反魂香”という香の一種です。僅かな時間、見たものが望む死者の魂を呼び戻す、と言われています」
「はんごんこう…?」
「私はこの店で、香を作り生業をたてている、悠禅と申します」
「…ゆう、ぜん」
まだ覚めきらない虚ろな表情の私を見て、その男、悠禅は立ち上がり私に手を差し伸べた。
「…送りましょう、元の世界へ」
素直に悠禅の手をとり立ち上がる。そういえば、私は病室を抜けてきたのか。どうやってここへ来たのだろう。ここは一体どこなのだろうか。まだまだ聞きたいことが山ほどあるのに。
私は、これからどうなるのか。
一人あの家に帰り、一生家に篭って生きていくのだろうか。
それは、生きていると言えるのだろうか。
歩きだそうとした彼の手を強く引き、振り返る悠禅を見上げる。
「…帰るところは、もうないよ」
「…」
「もう、パパもママも居ないなら、私が帰るとこなんてないよ。悠禅はどうして私のところに来たの?どうして私をここに連れてきたの?どうして、そんなに優しくしてくれるの?」
「…知りたいですか?」
「うん、知りたい」
彼は黙ってこちらを見ていた。
やがて真っ直ぐに私の方へ身体を向けると笑みを浮かべて言った。
「私と来ますか?」
私に迷いはなかった。
「行く」
「そうですか」
悠禅は暫く考え込む素振りを見せてから、ゆっくりと手を伸ばし私の頬に手を添える。彼はまるで懐かしいものでも見るような、不思議な表情をしていた。
「中身も器も別物の筈ですが、これは少々堪えますねぇ」
「…え?」
「……少し準備をしてきます。明朝、お迎えに参ります。」
悠禅はもう一度私の目元を掌で覆った。闇に包まれた世界の中で彼の手が触れている場所だけが熱を持つ。
突然、世界が暗転する。
ぐらつく足元、身体の力が根こそぎ奪われ意識が闇の奥深くまで飲み込まれていった。
目を開けると、真っ白な天井が視界に入る。
気付くと私は元の病室に戻っていた。身体は重く、骨折だらけの身体は固定され、鉛のように重い。窓一つ無い病室には時計も無く、今時間が何時なのかも分からない。
今まで、私は夢でも見ていたのだろうか。
何処からが夢で、何処までが現実なのか。
あれは朦朧とした意識の中で見た、幻覚だったんだろうか。
___チリん。
考え込む私の耳に、いつかの鈴の音が響いた。音がした方に視線を向けると、病室に置かれた椅子の上に青いリボンの黒猫が姿勢よく乗ってこちらを見ていた。黒猫と目が合う。鼓動が波打つ。
どくん、
_______どくん、
________________どくん。
「…間抜けなツラして見てんじゃねぇよ、チビ」
フワフワの可愛らしい姿と声で、確かに猫がそう言った。