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弐 『一人かくれんぼ』 3/5

 革張りの白いソファはおれの重心の定まらない体を優しく包み込んでくれた。

 目を瞑るとまだぐるぐると部屋が動いているような感じがするが、どうやら山は越えたようだ。

 意識もだいぶはっきりしてきていたし、あと少し休めばなんとか今日中には家に帰れそうだ。


「麦茶と食べ物もってきたよ」


 声のするほうへ目を開けると、由花子さんがお盆を持って立っていた。

 お盆の上には麦茶となぜかイナリ寿司が置いてある。

 由花子さんはテーブルを挟んで向かい合うようにしてあるソファに座ると、早速イナリ寿司を食べ始めた。

 なんだかとても幸せそうだ。だがその何気ない光景を見たとき、不意にあの感覚がまた起こった。


「またか」

「何が? 私がしょっちゅうイナリ寿司を食べることになんか文句でもあるの?」

「大学でもよく食べてるところ見ますけどそれはどうでもいいです。そうじゃなくて、最近なんだかデジャヴが多いんですよ。普通はデジャヴってそんなに起こるものじゃないし、起こってもだいたい一瞬じゃないですか? それがここ最近、一日に何回も起こるし、一時間くらいずっとデジャヴが続くときがあるんですよ。これって脳かなんかの病気の前触れですかね?」

「どうだろう。そういえばデジャヴってなんで起こるのかよくわかってないらしいんだよね。たまたまこの前そういう記事を読んだんだけど、クロニック・デジャヴって知ってる? 珍しい病気らしいんだけど、その病気の人は体験する全てのことに既知感がつきまとうんだって、つまりその人にとっては現在がないわけで、全てが過去になってしまうわけ。なんだか実感がわかないけど、すっごい退屈そうだよね。うつ病に罹ってしまう事もあるらしいし」

「え。じゃあ、おれはそれになりかけてるってことですか?」

「そうかもねー」

「そんな露骨にどうでも良さそうにしなくても……。こういうのって幽霊のせいとかはないんですか?」

「どうかな……。最近はそんな大したところにも行ってないしね。一人でどっか行ったりした?」


 どこにも行ってないですよと言ってから、おれは少し前に実行した交霊術のことを思い出した。

 よくよく考えてみると、この異変が起き始めた時期とも一致する。

 そして、あのときのことを思い出すと同時に、体に悪寒が走る。

 なぜあんなことをしたのか、自分で自分がわからなかった。

 急に黙りこんだおれを見て由花子さんが口を開いた。


「なんか心当たりがあるんだ?」

「もしかしたら……これのせいかもしれないですね。実はおれこの前、交霊術をやってみたんですよ」

「交霊術ねぇ。交霊術でデジャヴが起こるようになるのかな。ていうかそんな面白そうなことに私を呼ぼうとしないのが最大の問題だね。私を差し置いて誰とやったの?」

「いや、別に仲間外れにしようとかじゃなくて、それは一人でしかできないやつなんですけど……『一人かくれんぼ』って知ってます?」



 大学に入ってからというもの、おれは由花子さんたちの影響でオカルト趣味に目覚めつつあり、暇なときにネットでそれ関係の情報収集をすることが多くなっていた。

 おれがそれを知ったのも、ある掲示板で話題になっていたからだ。

 そこにはこれを実行しておかしな体験をしたというような書き込みや、実際にやっているところを実況しているものがいくつもあった。


 その遊びは、やっているところを少し想像するだけでもわかるくらいに異様で、悪趣味きわまりないものだ。

 しかし、誰にでも深く考えず何かを実行してしまい、規模の違いはあれど取り返しのつかないことになってしまったことがあると思う。

 きっと魔がさしたという言葉はそういうときに使うのだろう。



「一人かくれんぼ」は深夜(二時から三時)の間にやるのが好ましい。

 そして一人暮らしであること、これはたぶんやっているところを人に見られたら、気が触れているようにしか見えないからだと思われる。


 用意するものは、ぬいぐるみと包丁などの刃物に米とコップ一杯の塩水、そして自身の髪の毛か爪だ。


 ぬいぐるみは頭部を持ち、四肢を有している人の形をしたものでなければならない。

 少し前に、ゲームセンターで取ったクマのぬいぐるみがあったのでこれを使う。

 使用するぬいぐるみは中から綿を全部取り出し、そこには綿のかわりに米と自分の爪か髪の毛を入れておく。

 これで準備は完了だ。



 その日、おれは余裕をもって準備を終わらせた。

 部屋の時計が二時ちょうどになったことを確認してから、部屋中の電気を消し、実家から持ってきた古いテレビをつけっぱなしにしておく。

 当時おれが住んでいたマンションは最寄り駅から歩いて二十分の位置にあった。

 マンションの周囲には大きな道路などなく、代わりにぽつぽつと畑があるような場所で、夜はとても静かだ。

 今の部屋にはテレビの音だけしか存在しない。


 暗闇の中に光るテレビの画面には、お笑い芸人たちが心底どうでもいいことを喋っているのが映されている。

 いつもはこの空間にぴったりとはまるはずのその画面は、今夜に限っては暗闇に浮いていて、おれは手の届かない遠くの世界を見ているような気がした。


 用意したぬいぐるみと包丁、塩水が入ったコップを持って風呂場に入り、ぬいぐるみをあらかじめ水を張っておいた洗面器に沈める。

 次にまだ残り湯が入っている浴槽に蓋をし、その上に水を吸っていくらか重くなったぬいぐるみと、そばに塩水を置いておく。

 そして、おれはそのぬいぐるみに向かってこうつぶやいた。


「オニは康一。オニは康一。オニは康一」


 それから包丁を口に咥えて風呂場から出る。

 包丁は口に咥えたまま、しばらくのあいだ部屋の中を徘徊する。

 ベッドの下を覗いたり、押入れを開けて中を確認したり、まるで何かを探しているかのように。

 大学生が一人暮らしのために借りているような部屋だから、それほど物を探すような場所もない。

 それでもおれはこういった動作を十分ほど繰り返したのを確認するとまた風呂場に戻り、口に咥えていた包丁を手に持ちかえる。


「見ーつけた。見ーつけた。見ーつけた」


 とつぶやきながら、三回包丁をぬいぐるみに突き刺す。

 ザクッザクッという音がやけに耳につく。

 包丁はそのままぬいぐるみに突き刺したままにしておく。

 掲示板の書き込みを読んでも、大抵ここまでは特に何も起こらない。

 ここからが『一人かくれんぼ』の本番だ。


「次はあなたのオニ。次はあなたのオニ。次はあなたのオニ」


 そうぬいぐるみにささやいてから、そばに置いてあった塩水を口に含み、おれは押入れの中に隠れた。

 襖をぴったりと閉め、おれはそのまましばらく息を潜めた。

 暗い押入れの中には、テレビ画面からの笑い声だけが響いている。


 そのまま十分ほど経っただろうか。

 いっこうに何も起こらない。

 押入れの中は締め切りになっているのでとても暑く、この短時間でおれは汗だくになっていた。

 やっぱり噂のレベルでしかなかったのか。

 そんな考えが脳裏に浮かぶ。

 テレビからの笑い声がまるでおれを嘲笑しているかのように聞こえ、誰が悪いわけでもないのにとても腹立たしい。

 いい加減もう止めにしようと襖に手をかける。


 ブツン――


 テレビの電源が切れた。

 と同時に押入れには沈黙が押し寄せてくる。

 おれは襖に伸ばした手をとっさにひっこめた。

 当たり前だがテレビの電源を切ったのはおれではない。

 だいたいうちにはテレビのリモコンが存在しないので、電源を切るためには本体の主電源を落とすしかない。

 ということは、単純に考えて今襖の向こうには誰かがいるということになる。


 誰だ?

 こんな時間におれを訪ねてくる人なんていないだろうし、ドアには鍵がかけてある。

 だいたい誰かが部屋に入ってきたら物音で分かるはずだ。

 電源が切れるその瞬間まで、そんな物音は一切しなかった。

 しかし今、現に襖の向こうに何かがいる気配がする。


 どうやらそいつは部屋の中をうろうろと徘徊しているようだ。

 そのとき、おれは理解した。

 そいつは何かを探している。

 いや、何かなんてもんじゃない。

 そいつが探しているのは……おれだ。


 あれほど暑かったにもかかわらず、氷水を頭から浴びせられたかのように、おれはガタガタと震えていた。

 あれはヤバイ。

 おれは由花子さんのようにもの凄い幽霊が見えるわけではないし、幽霊を見てどういったものがヤバイのか判断できるわけでもない。

 だが直感がそう告げている。

 あいつに見つかってはいけない。

 もし見つかったらとんでもないことになる。

 恐ろしいことが起こる。

 理屈ではなく、本能で理解できた。


 おれはこのときになってやっと自分の軽率さに気がついた。

 その掲示板の書き込みにも色々な体験が書いてあったが、実際にやるのとでは大違いだ。

 まさかここまでヤバイとは思わなかった。

 とにかく、こんな悪趣味な遊びはもう終わりにしなければいけない。

 おれはもう一度襖に手をかける。


 大丈夫だ。

 この交霊術が完璧なものであれば、塩水を口に含んでいるおれの姿はあいつには見えないことになっている。

 おれは覚悟を決めて襖を開けて押入れから出た。


 暑苦しい押入れに居たせいだろうか、部屋は冷房もついていないのにやけに涼しい。

 閉まっているカーテンの隙間からもれる、わずかな光しかこの暗闇を薄めるものはない。

 すぐに風呂場に向かおうとしたとき、視界の片隅にそいつがいるのが見えた。

 そいつはこの部屋の暗闇を凝縮したような黒い影だった。

 幸いおれに気付いた様子はなかったが、微動だにしないその影は恐怖でしかない。

 ひどい耳鳴りに悩まされながらも、おれはなるべく物音を立てないようにそっと移動する。

 瞬間、


 シャッ


 という音に驚き、口に含んだ塩水を飲み下しそうになる。

 音のしたほうを振り向くと、カーテンが開けられていた。

 窓は黒く塗りつぶしたようになっていて、鏡のように部屋の中を映している。

 それはまるで窓の外に、もう一つここと全く同じ部屋があるかのようだ。

 だがそれはあくまで虚像でしかなく、窓の向こうにある部屋はこの部屋の中の姿であるはずだ。

 ということはどういうことになる?

 ――おれがそこにいないということは。


 おれは思わず、塩水を飲んでしまった。

 血の気が引くと同時に脱兎のごとく風呂場へ駆け出す。

 自分の背後にあいつの視線を感じる。

 部屋の暗闇が一層濃くなったような気がした。

 風呂場に入るなり、おれは包丁が突き刺さった異様なぬいぐるみに残っていた塩水を全部かけ、必死に言い聞かせるように言う。


「かくれんぼはおしまい! かくれんぼはおしまい! かくれんぼはおしまい!」


 言い終わったときには、もうあいつの気配は完全になくなっていた。

 そのあと、寝ないで日の出を待ち、公園で使用したぬいぐるみを燃やした。

 灰になっていくぬいぐるみを見ながら、これで全部終わったと、そのときは信じていた。


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