弐 『一人かくれんぼ』 2/5
真上を向いて口を大きく開けたところに、井上さんがつまみとして置いてあったレモンを素手で握りつぶし、おれがそれを「うまいうまい」と言いながら飲んでいたところまでは覚えているのだが、ふと気が付くとテキーラの空き瓶を大事そうに抱えてトイレに座っていた。
ふらふらと壁にぶつかりながらテーブルに戻ると、完全に目が据わっている井上さんと、いつも通りの由花子さんが座っていて、そのテーブルの周りにはテキーラの空き瓶と酔っぱらいたちが無造作に転がっていた。
その中にはもういい年のはずのマスターもいる。
この店の最大の良さはマスターのノリの良さだと思う。
マスターがそんなだから、当然もう店内におれたち以外の客はいない。
時計はもう深夜の時間帯を指していた。
綺麗な亜麻色の長髪をいじりながら、由花子さんは灰皿にある煙草の煙をぼんやりと見つめていたが、壁に寄りかかっているおれに気付くと灰皿に水を注いで煙草の火を消し、おもむろに立ち上がった。
「少しは気分良くなった? 今日はちょっとはしゃぎすぎたかな」
「おれ未だに少し気持ち悪いです」
「大丈夫? そろそろ帰るから、皆を起こさないとね。ほら形兆も惚けてないで手伝ってよ」
「あー。わかったわかった」
井上さんはそう言いながら椅子から立ち上がろうとしたが、バランスを崩してまた椅子に座り込んでしまった。
こんな井上さんはかなり珍しい。
「どれくらい飲んだんですか?」
「さぁな。途中で考えるのを止めたよ。久しぶりに吐きそうだ」
「由花子さん、やっぱりいつも通りですね」
由花子さんはニヤニヤしながら、眠っているマスターの禿げ上がった頭をぺちぺちと叩いて起こそうとしている。
たぶん酔っぱらっているわけではないと思う。
「あいつと飲んでると今自分の持っている液体が何なのか。わからなくなるときがあるよな」
「うわー。すげーわかります。それ」
マスターを起こした由花子さんは、次に井上さんの友達を起こしにかかる。
……ビンタで。
なんというか、やりたい放題だ。
たぶん酔っぱらっているわけではない。
だいたいいつもこんな感じだ。
「ほら形兆。あんたの友達なんだから、ちゃんと支えて歩かせてよ。この人私がビンタしても起きないんだから」
ほーらと言いながら、由花子さんはいい音を出しながら往復ビンタをしている。
その人は起きる様子もなくぐったりしていた。
「馬鹿。わかったからもう止めろ。強く叩きすぎだ。……さてと、しょうがないから担いで帰るか。ほら康一ももう行くぞ」
井上さんは酔い潰れている友人を軽々と担いで店の外へと出て行った。
おれも椅子から立ち上がって出口に向かおうとするが、どうにも体の重心が定まらないので、うまく歩けない。
自分の体じゃないみたいだ。
そんなおれを見かねて、由花子さんが肩を貸してくれた。
「がんばりすぎだよ。無理してでも飲むその意気はいいけど、周りに迷惑かけちゃ駄目でしょー」
「……すいません」
由花子さんはさっきまで煙草を吸っていたにもかかわらず、とてもいい匂いがした。
シャンプーの香りなのだろうか。
どうして美人からはいい匂いがするのか。
不思議だ。
◆
外に出るなり、なまぬるい外気がおれの体にまとわりついてくる。
太陽はもうずいぶん前に空の向こうへ追いやられたはずだが、太陽の光は熱となってまだここに存在している。
まるで街全体が茹で上がってしまったようだ。
アスファルトがまだ熱を持っているのが分かるような、その日はとにかく狂おしいほどの熱帯夜だった。
そのなまぬるい外気は酔っぱらいの気分を悪化させるのに十分で、おれは思わず道路にしゃがみこんでしまう。
自分以外のすべてがぐるぐると回り、歪んでいく。
思考の焦点も定まらず、ただおれは耐えることしかできない。
ガードレールにもたれかかって少し目を瞑ると、そのガードレールの感触はぐにゃりと変形していき、そのままおれは混濁した意識のなかへと飲み込まれていった。
◆
しばらくして気が付くと、由花子さんの肩につかまってどこかへと歩いていた。
いや、どこかではない。
たしかおれを見かねた由花子さんが自分の家で休ませようと、連れてってくれているんだっけ。
井上さんたちは……店の前でもう別れたんだよな。
どうやら少しは意識がはっきりとしてきたが、一人で歩くのはまだ困難なようだ。
由花子さんはおれを連れて黙って歩いている。
「今日は本当にすいません……」
「いいからいいから。すこしは気分良くなった? もうすぐうちのマンションに着くからね」
そのまましばらく歩いていると、無駄に立派な建物が現れた。
どうやら由花子さんが一人暮らしをしているマンションはここらしい。
おれの住んでいる小汚いマンションとはえらい違いだ。
明らかに大学生が住むようなところじゃない。
由花子さんとおれとの生活レベルの違いに驚く。
床や壁が大理石でピカピカに輝いているエントランスに入り、由花子さんは当たり前のようにあるオートロックの自動ドアを開けている。
これが格差社会というやつらしい。
そんなことを考えながら、由花子さんの後ろについて自動ドアを潜り抜けたとき、不思議な感覚にとらわれた。
「どうしたの?」
それはほとんどの人にとっては不思議だが取り留めのない感覚に違いない。
たしかに不思議な感覚ではあるが、特にこれといって記憶には残らず、次の瞬間には忘れてしまう。
これはそういった性質を持っている。
「いや、別に。ちょっとデジャヴが起きただけです」
◆
由花子さんの部屋はこのマンションの最上階にある。
中はとてもじゃないが、大学生が一人で暮らしているとは考えられない。
インターフォンはカメラ付き、広々とした部屋が三つもあり、リビングも含めて全てエアコン完備。
風呂とトイレは当たり前のように別々で、トイレはウォシュレット付き、足が伸ばせるほどのバスタブにはジェットバスも付いている。
部屋も南向きで日当たり良好。
五階にあることから害虫に悩まされることもほとんどない。
部屋に置いてある調度品もしっかりとしたものばかりで、とてもお洒落だ。
「由花子さん……。前からうすうすは気付いてたんですけど、金持ちなんですね」
「私っていうか、私の家が金持ちなんだよね。それにうちの親って甘いから、私がちょっとお願いすればなんでも聞いてくれるんだ」
「それにずいぶん清潔にしてるんですね。なんだか意外です」
「こう見えても、家事には自信があるからね。どうよ。けっこう女らしいところもあるだろー」
「いやー正直見直しました。おれはてっきり腐海みたいになってるのかとばっかり」
台所を見てもとても清潔に保たれている。
それは使われていないことからくる清潔さではなく、ちゃんと使いやすいように整頓されている清潔さだ。
「冷蔵庫デカッ。なんですかこれ? 井上さんが中に入れそうなデカさなんですけど……。一人暮らしですよね?」
「私の趣味が料理を作ることと食べることだから、大きい方がいいかなーと思ってさ。上京するときに買ってもらっちゃった」
「由花子さん料理できるんですか?」
「楽勝。豚の解体とかもできるよ」
「うわぁ意味ねぇ」
「何かリクエストでもあれば今度作って上げようか?」
「そうですね。スペアリブとか作れます? おれの好物なんですけど」
「余裕。じゃあ今度作ったときにでも呼んであげる」
「期待しないで待ってます。でもいくらなんでも、この冷蔵庫はデカ過ぎだと思いますよ?」
「実は私もさすがにやりすぎたかなとは思うね。中身、けっこうスカスカだからさ。まぁとりあえず、向こうのソファに座ってなよ。飲み物とか持って行くから」