終 『きさらぎ駅』 9/11
「なんですかこれ? アクセサリーでも入ってるみたいな小箱ですけど」
「みたいとかじゃなくてそうなんだよ!」
先輩はそうわめきながら、小箱を私に押しつけてきた。
開けると、そこにはサファイアをあしらったピアスがある。
「どうしたんですかこれ」
「……やるよ」
「はい?」
「だから……プレゼントだっつの! なんでわかんねーんだよ!」
ペシンとおでこを叩かれた。
いや小箱を出された段階でわかってましたとも。
ただ恥ずかしがって照れている先輩が異様に可愛かったので、ついついからかってしまっただけだ。
先輩はまだ照れているのか、そっぽを向きながら誰もいない空間に向かって喋っている。
「その石が……君の瞳の色に、に、似てて……綺麗だったから。似合う……かなと」
うーん。
なんかイジワルしたくなってくるな……。
「でもこれ、お金はどうしたんです?」
「無粋なことを聞くな君は」
「でも先輩、お金なんてないでしょ。そういうセリフはラーメン代をちゃんと払えるようになってから言ってください」
「むぐ……」
すべてとは言わないが、日々のデートで使うお金はだいたい私持ちだ。
ちょっとくらい嫌味を言っても罰は当たらないだろう。
まぁそれくらい、別にかまわないのだけど。
「井上さんの親父さんにオカルト関係の仕事を回してもらえるようになったんだ。それで、ちょっと前借りをだな」
「え、先輩って働くんですか!?」
素直に驚いた。
てっきりこのまま生活保護コースに入るのかとばかり。
「なんか勘ちがいしてるようだが。俺は働くことが嫌いじゃない」
「ええ……先輩、なに言ってるんですか? らしくないですよ」
「俺らしいってなんだよ」
「私に甘やかされて骨抜きのダメ男になっていくプロジェクトはどうすればいいんです? やっとフェイズ2に入ったのに――」
「捨ておけそんなもん!」
ごほん、と先輩は軽く咳払いをして仕切り直す。
「とにかくだ。やっと働けるようになったということだ」
「はい。おめでとうございます」
「迷惑かけたな。ありがとう、路希。これからもよろしく頼む」
先輩はわざわざ座席から降りて、ひざまずいてからちゃんと頭を下げてくれた。
「……」
いくら人の少ない車内とはいえ、ここまでしなくてもいいんじゃないだろうか。
そこまでされるようなことをしてはいないし、むしろ散々迷惑をかけているのはこちらのほうというか……。
それでも、そんな先輩の振るまいがとても嬉しい。
気がつくと泣いていた。
「……ありがとうございます。大切にしますね」
「ああ」
「好きですよ。先輩」
先輩は立ち上がって、私の肩を抱き寄せる。
私はそっと瞼を閉じる。
「……俺も、好――」
「ひゅーひゅー!」
いきなり冷やかされて、私も先輩も正気に戻ってしまった。
誰だ!?
せっかくいいところだったのにぶち壊しだよ!
たしかに電車内でやるようなことじゃないかもだけど!
空気読んでくれてもいいじゃん!
まったく、どこの酔っぱらいだと思いながら、車内を見渡す。
「へ?」
そこには、誰もいなかった。
先輩と私以外に乗客はいない。
さっきの声は、じゃあ誰のものなんだ?
目と鼻の先には驚いている先輩の顔があった。
近い近い近い近いっ!
吐息すら感じられる距離に恥ずかしくなってきて、先輩を押し戻してしまう。
そして、私は先刻の声に聞き覚えがあることに気がつく。
でも、まさか……そんなはずはない。
あっていいわけがないじゃないか。
その予測に恐怖し、思わず怖気に震えてしまう。
けれど先輩は覚悟を決めたように、今一度私を抱き寄せると、強引に唇を奪っていった。
先輩の暖かな口づけを舌先に感じることで、私はようやく落ち着きを取り戻した。
「先輩、今のって――」
「なにがだ?」
先輩はなんのことやらわからないという様子で、空とぼけていた。
でもそんなはずはない。
たしかに声は聞こえていた。
先輩だって顔色が変わっていたはずだ。
しかし、先輩はそれをなかったことにした。
「いえ、なんでもありません」
私も知らなかったふりをして、先輩に微笑む。
ないものはないのだから。
これからも、きっとこういうことはあるんじゃないかと思う。
なにせ私の彼氏はこんな人間だ。
危ない目や怖い目にも沢山あうはずだ。
それでも、私はこの人のことが大好きで、この人がもたらす非日常を愛してる。
電車はそろそろ終点だ。
果たして如月駅に行けるかどうかは誰にもわからない。
でも、先輩となら私はどこへだって行けるはず。
「そろそろだな」
同じ景色の中を、私たち二人はどこまでも歩いていく。
その果てが幽闇の場所であったとしても、私と先輩は互いを見失ったりなんてしない。
死が二人を分かつことになろうとも。
ずっと、ずっとずっと、ずっっっっと――
◆
「シカトかごるあ!」
先輩の首に二本の腕が絡みつき、瞬時に締め上げる。
チョークスリーパーは完全に極まっており、先輩が腕を引き剥がそうにも剥がすことができない。
「ぐぇ……ギブ……ギブです……!」
パシパシパシパシッと必死にタップをしながら、先輩はくぐもった声を漏らす。
締め上げていた腕がするりと解かれると「げほごほっ」と何度もむせかえしていた。
「君ねえ! 私のこと散々おもちゃにして酷くない? なにあれ? あんな人を貞子か伽椰子みたいに……失礼しちゃうよ。私はもっとずっとキュートでお上品ですわ! そうですわ!」
女は両手に腰を当てておむずかりな様子だった。
大きなつり目がちな瞳に、鼻梁は彼女の高飛車さをよく表し、桃色の唇が形作る微笑みは親しみよりも高慢さを表していた。
そして、艶やかな亜麻色の長髪は、その一本一本が意思を持つかのように滑らかに流れていく。
「キャラ変わりました……?」
息を整えながらも、先輩はツッコミをかかさない。
「変えたのは誰だって話だよ。康一くん」
「えっと、その、すいませんでした。つい、出来心で。もうしませんから許してください……由花子さん」
「わかればよろしい」
許してつかわす――。
狐宮由花子は私たちとは反対の座席に腰かける。
その姿と声はまさしく先輩が作り上げたトゥルパそのものだった。
「久しぶりだね康一くん」
「そうですね」
「初めまして、というわけでもないのかな? 山岸路希さん」
狐宮由花子は手を膝の上に置き、背筋をすっと伸ばして行儀良く座っている。
大粒のアーモンドのような形をした二つの瞳が私を捕らえた。
表情は柔和だったが、真っ先に想起されたのは瞳孔が縦に裂かれたヘビの瞳に睨まれたような感覚だった。
腹立たしくも、慎重に言葉を選んでしまう圧力がある。
「いえ、ここは初めましてということにしておきましょう。狐宮由花子先輩」
「私のことは由花子さんでいいよ」
「初めまして由花子さん、改めまして河野先輩の恋人の山岸路希というものです」
「あははは。そんな怖い顔をしないでよ。私は康一くんの元カノでもなんでもないんだから。ただ彼に告白されただけの女さ」
明らかに挑発されているが、それには微笑みで返すことにする。
余裕を見せつけてやることが、この手合いには一番きくはずだ。
「ところで由花子さん、なにしてるんですか」
「なにって見てわからない?」
狐宮由花子は両手を広げて、自分の姿を誇示していた。
それは巫女さんが着ている服によく似ていた。
神御衣と言ったっけ?
「神様さ」
「はい?」
まったく説明になっておらず、要領を得ない。
だが狐宮由花子はそんなことは些末なことだとでも言いたげに、それ以上言葉を尽くそうとはしなかった。
「ま、それは横に置いておこうよ。時間もあまりないからさ。
さて、君たちと話を始める前に、まずは今の私という存在をどう考えているのかうかがっておきましょうか」
狐宮由花子は腕を組んで偉そうに座席でふんぞり返っていた。
「私はいったいなんなのでしょうか? 如月駅の向こうへと旅立った君の先輩? それともしぶとく残っていたトゥルパの残滓? あるいは君たちに取り憑く得体の知れない怪物かな? いやいやいや、もしかしたら私は本当に正真正銘の神様で、君たちの信心深さを試しているのかもしれないよ? 今まさにこの瞬間、君たちは奇跡に立ち会っているのさ」
饒舌に口上を述べる狐宮由花子の姿は、舞台女優さながらだった。
その姿は幽霊や魑魅魍魎などといった曖昧なものではなく、とてもクリアで、現実に目の前で喋っているとしか思えない。
「あなたは俺が見ているただの幻ですよ。俺が夢から覚めるために、俺自身が見せている幻です」
「おやおや、幻にしてはずいぶんと普通に接しているようだけれど?」
「今さら無視もないでしょうよ。無視は結局のところ、自分の都合の悪い部分から目を逸らしているだけなんですから」
「ご立派だこと。でも路希さんにも私は見えているようだね」
「こいつは特別性ですから」
言いながら、先輩は私の頭をぽんぽんと叩いた。
「他人の心に敏感な、優しい子なんですよ」
「へぇー、私と同じタイプってことだね」
「……本っ当に話聞いてねぇなあんた」
「あはははは、聞いてるよ。私は君の幻。いいでしょう、そういうことにしてあげる」
先輩と狐宮由花子が会話している横で、私は黙って意識を転調させる。
周囲の色彩がすべて裏返しになるような感覚の中で、改めて狐宮由花子のほうへ意識を向ける。
だが反転する世界にいて、そいつは何も変わらず、その場に佇んでいるだけだった。
それがなにを意味しているのか、見当をつけることもできない。
だって、こんなことは、初めてだからだ。
「それにしても、なにも変わってないんですね」
「そりゃそうだよ。私は君の幻なんだから。幻は歳をとらない。お得で気楽なもんだね、幻ってやつは」
狐宮由花子が本当に存在していたとしたら、先輩よりも年上のはずだ。
だが目の前にいるこいつは先輩よりもわずかに歳が下に見える。
まぁもっとも、二十歳から三十歳のあいだは年齢が読み取りづらいものなのだが。
しかし、狐宮由花子はまじまじと先輩を観察してから一言、「君はずいぶん老けたね」と宣う。
これは先輩も自覚していたらしく、けっこう本気で凹んでいた。
「もうすぐ三十路だもんねぇ。オッサンになるんだもんねぇ」
「やめろ。本当のことでも言っていいことと悪いことがあるんですよ?」
「でもカッコ良くなった」
「……」
先輩は照れていた。
幻だと断言してみせたときはちょっとカッコ良かったのに、あっさり手玉にとられている。
会話の主導権は常にあちらにあった。
「ところで、君たちはこんなところへなにをしに来たのかな?」