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終 『きさらぎ駅』 8/11

 大切にしてきた自分の記憶を、自分の生きる支えとしてきた事実を、幻なわけがないと信じ続けてきた思い出を、なかったことにする。


 しかも自分自身を否定するという形で。


 先輩は淡々としていたが、私には先輩が自傷しているようにしか見えなかった。

 でも、これこそがきっと先輩にとっては成長なんだ。


 そう言い聞かせて、私はずっと耳を傾ける。


「夢はあるていど象徴で読み解くことができるが、それだけでは片手落ちだ。夢というものは夢見者の個人的な記憶や経験で作られる。例を挙げれば、二千年前の人間と現代の人間がまったく同じ夢を見たとして、それの意味はだいぶ変わってくるということだ。産まれた時代がちがえば見る夢は当然変わるし、象徴のニュアンスも変わってくる。神様は現代の人間にも意味が通るように、ちゃんと夢をバージョンアップさせているということだな。

 その最新バージョンが如月駅だ。

 荒唐無稽に思えるかもしれないが、これが案外そうでもない。如月駅の話を子細に見ていくと、日本の神話や伝承に見られる構造と非常によく似ている」


「それは古事記の固有名詞が出てくるとかそういうことではなく、物語の展開という部分についての話ですよね?」


「そうだ。異界という非日常へ行き、そこから日常に戻ってくるというのは世界中によくあるパターンなんだが、日本の昔話に特徴的なのはそこに魔法が介在しないという部分にある。呪術自体は日本にも昔から存在しているにも関わらずだ。

 これはつまり、日常と非日常の境界がそもそも曖昧だということを示す。

 もう一つあげられるのは物語としての簡潔さに欠けるというものだ。ハッピーエンドのものは少ないし、そもそもオチが弱いというものが本当に多い。昔から慣れ親しんでいて誰も気にも止めないが浦島太郎なんてその最たるものだ。お爺さんになってしまった浦島太郎は次には鶴となり、物語の世界から消えてなくなってしまう。あとにはなにも残らない。

 序、破、急とはよく言われるが、日本の昔話や伝承に見られるオチは、このなにも残らないというものが多い。

 日本の神話の根底にあるものはこの曖昧さだ。日本神話に通底しているということはすなわち、日本の民族性にも反映されているということでもある。

 最もそれがよく現れているのは最高神である天照大御神の存在だろう。

 そもそも太陽の神が女性であるということが特異なんだが、もっとも特異な点は、天照大御神が全知全能を持ち、日本神話の中心に据えられているわけではないということだ。

 ギリシア神話ではなにか事件が起これば最高神のゼウスが出てくるが、天照大御神の場合は事件を把握するのみで、能動的に働きかけることはない。

 日本神話に絶対的な権力者というものは存在しないんだ。中心には必ず無があり、なにかが中心に来ることがあっても最終的には全体が調和するようにできている」


 日本神話に関してはさほど詳しくはないが、唯一神という考え方が日本に乏しいというのは頷ける話だった。

 八百万の神という多神教的な宗教観を持っていることは誰しも認めるところだろう。


「くわえて日本人は分析というものにさほど重きをおかない。「神の見せる夢を見た」、という体験そのものを分析せずにそのまま語る。昔話のオチが弱いというのはこのことも起因しているんだろう。

 分析するということはその体験を自分から切り離すということ、それはつまり自分を中心に置くということだ。「我思う、ゆえに我あり」という哲学は日本人に馴染みが薄い。

 なぜなら事物と自分を切り離そうとせず、あくまで調和の姿勢をとり続けるのが日本人という民族だからだ。その中心にあるのは思意や意識ではない。

 なにも存在していない無の空間だけだ。

 如月駅もこの類型的な日本神話の範疇に収まる。特にオチもなく、最後は語り手ごと消え、跡には無だけが残る。それは俺が見た如月駅にも言えることだ。

 如月駅という題材そのものが類型的であることは説明したが、俺が体験したものも最後は狐宮由花子の消失という形で終わる。絶対無の中心へ、狐宮由花子は消えてなくなり、俺にはその体験のみが残った」


 先輩は一度そこで言葉を切ってから、しばらく沈黙した。


 表情には出ていなかったが、迷っているのだろうと、そう思った。

 肩は少し震えていて、怯えているようにも見える。

 迷うというのは他でもない、躊躇しているということだ。


 けれど結局、先輩は限界まで解体して見せた。


「いや、「神の見せる夢」だとか、そこまで大袈裟な種類のものですらないのかもしれない。当時の俺の心境や状況を考慮すれば、あの如月駅という場所が、いかに俺自身に向けたメッセージ――象徴――に溢れていたかを読み取ることも可能になる。

 あのときの俺は大学を留年していて、人生に迷っていた。

 それは挫折の始まりと言えるだろう。

 電車というのは目的地を目指すということの象徴であり、駅は新しい世界に出かけるという意味を持つ。駅で電車を待っていたり、駅が広大で迷宮のようになっているということは、俺が将来に対する準備ができておらず、不安に思っていることが表現されている。

 まっすぐに伸びる線路は決められたコースを進むことを意味しているが、それが数え切れないほどあるということも、俺がどれほど混乱していたかを示す象徴だ。

 無数にある星は目標が定まっていないことを示しているし、弦月は援助を受けていることを意識しつつも、それに後ろめたさを覚えている心境を示している。

 その後、俺が受動的に駅内を探索する場面や、エスカレーターで運ばれていくことが象徴するのは、主体性がない人生ということの表れだろう。

 改札で見た鳥居は救済や聖域を示す。

 これは駅側が内で商店街側が外だ。俺は駅の中で見るものや体験するものに恐れてばかりだったが、外には決して出ようとしなかった。これは俺にとって現状が苦しいということであり、しかし外に出る、つまり社会に出るよりは現状のほうがまだましという無意識の表出ととれる。

 鳥居の向こうの商店街から聞こえてきたお囃子――太鼓と鈴の音――はそれぞれトラブルと良い知らせの象徴で、俺はそれが恐ろしくてしょうがなかった。

 駅の外からやってきたヒトモドキたちはそのまま、社会人たちの象徴だろう。自分の未熟さを隠すために、他者を異化させてしまう自分が情けない。

 狂った時計は計算ちがいを、時刻表は人生設計をそれぞれ示している。時刻表が俺には読めなかったということは、すなわち迷っている以前の問題で、俺は将来に関して見て見ぬ振りを決め込んでいたということだ。

 電車の中の窓は心の目を示し、それが本性や未来の象徴である鏡面として機能していたということは、俺自身の心の中を示す。

 つまり、俺のそばにずっといた狐宮由花子という存在は俺自身だったということも、ここでちゃんと明かされているわけだ。俺のことを引っ張り、駅の中を案内し、時刻表を読み取って、俺を諭す役割を持つ。ちなみに曇った窓は見通しが立たない、心を閉ざしているということも示している。

 狐宮由花子が俺自身であることを踏まえると、あのミネラルウォーターも象徴的だ。水は財や発展のチャンスを表し、俺はそれを自分自身に奪われた。

 俺は自分自身に見限られて、現世へと送り返される。そこで俺がしたことは、やはり分析ではなく、幻覚を幻覚のまま受け取り、そして狂うことだった。

 調和なんて聞こえはいいが、それは破滅を知っていて現状維持を保ち続けるということにもなる。

 俺は、成長に伴う喪失や痛みが怖くて、目を逸らしていただけだ。

 今の俺は未熟な大人で、中身は未だに少年のままだ。

 そろそろ、俺はあの「神の見せる夢」に立ち向かって、理解することが必要なはずだ。そうすることで、俺はようやく学生から、大人になれる」


「……」


「俺はあの理解不能な体験を、あの場所を、絶対無を、幽闇の場所と呼んで神聖視していた。どうすればその場所へ手が届くのかと、そんなことばかり考えていた。

 それは、だから……惑わされていただけなんだ。

 もう終わりなんだ。

 なにも始まってすらいない。

 狐宮由花子は頭のおかしい俺が見た、ただの夢だ。

 神秘なんて、どこにもない。

 俺がすべきことは、今ここで、君と生きるということなんだから」


 先輩は私の手にそっと自分の手を重ねる。

 先輩は身長のわりに手のひらが大きいのですっぽりと覆われてしまった。


 先輩の手の中は暖かで私にとってはいつもとなにも変わらない。

 頼りになる先輩だ。


 私は少し迷いつつも、思い切って先輩の頭を撫でて、自分の肩にもたせかける。


 また馬鹿にされたり怒られたりするのかと思ったが、先輩はあらがうことなく、素直に私に寄りかかってきた。

 しっかりと先輩の重みを肩に感じる。

 私も自分の重みを先輩にいくらか預けることで、互いに互いを支え合う。


 そのまま、しばらくのあいだ、私たちはそのまま電車に揺られていた。







「これで、終わりか」


 最後の電車に乗り込むと、ほとんど独り言のように先輩はつぶやいていた。


「終わりですよ。先輩、これでおしまいです」

「……ああ」


 墨汁を広げたような車窓の奥へと目を凝らすが、そこに人の姿はほとんどない。

 誰もいない夜道を等間隔に照らす外灯だけが、車窓の外を右から左へと流れていく。


 時計の短針と長針は、私と先輩が過ごしてきた夜の深さを、重なりあうことで静かに示していた。


 一つ前の電車では酔客が多めでそれなりに人混みがあったが、最後の電車に乗客はほとんどいない。

 それでも電車は夜の闇から闇へと乗客を送り届けていく。


「ところで、ちょっといいか」

「どうしました?」

「ん、その……そんなたいしたことでもないんだが――」


 らしくもなく、先輩は目を泳がせてそわそわしていた。


「薬ですか? でしたらここにミネラルウォーターがありますよ」

「いや、そうではなくて……これをだな――」


 先輩は懐から小さな箱を取り出した。


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