終 『きさらぎ駅』 7/11
左手の甲には、短剣による傷跡がド派手に刻み込まれている。
おかげさまでギターをしばらく演奏できなくなってしまったが、幸い大事に至ってはいない。
傷はもう治っていたし、リハビリをきっちりとこなせば、また元通りに動いてくれるとのことだった。
「ごめんな」
先輩は自分の罪を確認するように、傷ついた手を頬へと当てる。
先輩のほっぺたはひんやりとしていて、気持ちが良かった。
「いいですよ。気にしないでください」
「そういうわけにもいかんだろう。女の子を傷物にしてしまったんだから」
「先輩が責任をとってくれればなんの問題もありませんよ。これからはワガママ言い放題だと思えば安いものです」
「ぐ……」
先輩は申し訳なさそうではあるものの、顔をしかめていた。
これまでは惚れた弱みというやつで、先輩の良いように転がされてきた私である。
だが今回のことで先輩とのパワーバランスがだいぶ変わった。
それを思えば、ギターが少しのあいだ弾けないのも、まぁいいかと前向きに捉えることもできた。
「如月駅への旅も、もうすぐ終わりですね」
「ああ、たどり着けるとも思ってないけどな」
先輩は私の左手を握りしめながら、祈るように瞼を強く閉じる。
「もうわからないんだ」
「……」
「昔は迷いなんてなかった。疑ったことなんてなかった。世界より俺のほうが正しいんだって。由花子さんは存在していたはずなんだ。俺だけがあの人のことを覚えているってことは、俺しかあの人を迎えに行くことはできないんだって、そう信じていた」
瞳を閉じたまま語る先輩の姿は痛々しく、辛そうだった。
先輩にとって、今日の旅は自分で自分の傷口を広げるようなものなのだろう。
「でも、今の俺にはもうわからない。なにが本当だったのか、あの人が本当にいたのかすら。この俺の胸にある寂しさが、あの人が存在していたことの証明だと信じていた。けどな、心に空洞がない奴なんていない。誰だってそれを抱えてみんな生きている。俺はそれに耐えられなくて、無理矢理埋めようとしただけなんじゃないのか? 年々、そんな気持ちが強くなっていく」
「……」
「由花子さんがかつて存在していたことを否定したくなかった。だから嘘になってしまう前に、忘却しなければいけない。でも、それじゃあ足りない。愛する君に対して、それは失礼だと、俺は思う」
「……」
「だから俺は、これから狐宮由花子を嘘にする。すべての神秘を腑分けして、バラバラにして、意味を与えて、関連づけて、理解して、消費し尽くそうと思う」
「……」
「それを、君に見ていて欲しい」
先輩は自分の血の最後の一滴を絞り出すようにして、ついにその言葉を口にした。
「はい。いいですよ」
これはだから、先輩にとって、狐宮由花子との別れの儀式。
いわば、葬式なのだ。
強固なトゥルパを作るために、来歴や物語を設定するという工程が非常に有効かつ重要であることを、私は知っている。
あれだけの化物をこの世に産み出すために、先輩はいったいどれほどの気持ちを込めて、これらのエピソードを想い描いたことだろう。
それこそ現実と妄想の区別がつかなくなるほどの熱量で、先輩は本当に狐宮由花子のことを愛していた。
……ぶっちゃけてしまうと、今に至るまでの先輩と狐宮由花子とのエピソードには神経を逆撫でされる箇所も多々あった。
がんばって辛抱強く聞いていたとは思うが、元々考えていることが顔に出やすいタチなので、お互いにギリギリな一日であったように思う。
だがこれで別れるようなことがあれば、それこそ狐宮由花子の思い通りな気がして不快なので、その思いを糧になんとか乗り切ったのだった。
それに私は、実在するのかどうかもわからない人間のことを、ここまで真剣に思える先輩がやっぱり好きなのだ。
単なるヤバい奴じゃないかとか、恋で盲目になっているだとか、若いだとか、私を罵りたければ罵ればいい。
だって、しかたがないじゃないか。
好きなんだから。
◆
「まずは如月駅という都市伝説から始めようか。補足をまじえつつ、解体していく。
結論を最初に述べると、俺は如月駅の存在に対して否定の立場をとるが、なにからなにまで嘘だったとするつもりはない。如月駅はどこにも存在しないが、如月駅へ迷い込んだという体験は存在する」
「どうゆうことです? 如月駅が存在していないのに、そこへ行けるわけがないでしょう」
「まぁ、順を追って話そうか。
まず如月駅の話に出てくる固有名詞は、古事記をなぞったものが多い。伊佐貫トンネルという名称は伊耶那岐神をもじったものだ。トンネルというのもポイントで、これは黄泉の国への探訪を示しているのだろう。トンネルというのは夢占いで生と死の境界を象徴する。
君は如月駅の派生系の話の中に、カタス駅とヤミ駅というのがあるのは知ってるか?」
「二人目だか三人目が如月駅へ行ったときに出てきた駅名ですよね。如月駅の両隣の駅がそれぞれカタス駅とヤミ駅っていう」
「カタス駅というのは根之堅州国、ヤミ駅は黄泉の国を指す。黄泉の国は今さら言及するまでもなく、伊耶那美神が封じられたとされる死後の国のことだ。根之堅州国は須佐之男が治める死後の国を指す。
黄泉の国の出入り口は千引の岩で閉ざされているから、誰にも入ることはできないはずだ。ならば死んだ人間はどこへ行くのか? という問題が古事記では発生する。
この問題を解決するには、日本においては死後の世界が複数あり、根之堅州国がその一つだとするのが自然だろう。
とするならば、根之堅州国と黄泉の国の中間あたる如月駅は、現世と死後の世界を繋ぐ場所、黄泉比良坂に当たる。
ここで三大宗教的な死生観を踏まえると、死後の世界は天国と地獄で二分されるわけだが、根之堅州国と黄泉の国は、天国と地獄のような二元論で語られることはない。
というのも死後の世界において天国と地獄ができるのは、形成された社会があるていど成熟してからなんだ。基本的に原始社会において死後の世界に良いも悪いもない。むしろ桃源郷的な解釈のほうが多いくらいだ。
このことが意味していることはつまり、古事記成立当時の日本社会がまだ発展途上にあったということだ。
古事記が上梓されたのは七一二年、奈良時代が始まってすぐになる。
大宝律令が施行され、社会制度が律令制度へと本格的に確立し、日本という国号が正式に定められた時代だ。日本において仏教はまだ特権階級的なもので、律令法の中に僧尼令がやっと導入されたくらいだ。
仏教が民間レベルでの発展を遂げる直前くらいになるな。
とまぁ、ここまでが基礎知識だ。
ネットに転がっている考察に俺がいくらかの補足を加えたものだ」
「先輩が言いたいのは、如月駅という怪談は日本神話の骨子を基に創作されたということですよね?」
「部分的にはそれで正解だ。要するに俺が言いたいのは日本神話だけに限らず、世界中の神話の骨子を如月駅が備えているということだな。
異世界や冥界を探訪するという話は、それこそ類型的で世界中に見られる神話のパターンの一つだ。
ギリシャ神話のオルペウスにペルセポネー。
シュメール神話におけるイナンナ。
神話とはちがうがアイヌの昔話にも類似の話は存在する。
神話というのは、その民族の思想体系が如実に反映されているものだ。それは思考の枠組みであったり、道徳や倫理であり、法律であり、その民族の人生観の土台となるものだ。
そしてここからが重要なんだが、それは多く臨死における感覚が基になっている。
神は会うものでもなければ教えられるものでもなく、まして信じるというものでもない。神というのは本来、経験するものなんだ」
「経験ですか? いまいちピンときませんが」
「つまりは神秘体験だよ。俺らはわりと日常だが、幽霊を見るということもそうだろうし、もっと大仰に奇跡と言い換えてもいい」
「奇跡ですか……」
「臨死体験で垣間見たビジョンや経験を神として崇め、世界中の人類はそれぞれ自分たちの神様を作り出していった。
神話があるていど似通っていて、類型的になっていくのはこのためだ。
脳科学的に見ても、人間には神を感じる器官が備わっている。後部頭頂葉がそれに当たるんだが、このことからも人類という動物に共通の神秘体験が存在していることは確実だろう。
神話は臨死体験に基づいて作られた。
それは換言すれば、無意識が作り出す、いわば夢が神話の素材になっているということだ。その「神が見せる夢」は人類に普遍なものだ。
今も昔も変わらずな。
つまり、俺たちにだってその夢を見ることは可能なはずだ。俺が言いたいのは、如月駅はその「神が見せる夢」だったんじゃないか、ということになる。
如月駅に行ったという最初の人間が、帰ってきたという話を知っているか?」
「ええ。消息を絶った最初の体験者が七年後に帰ってきた、っていう書き込みがありましたね。でもあれは――」
「そうだ。嘘か本当かなんて、確かめようがない。
だが俺は本当に帰ってきたのだと思う。ただしそれはあくまでも夢からの帰還という意味でだ。
如月駅に迷い込んだ最初の人間、はすみさんと言ったか、彼女はなんらかの精神疾患、あるいは神懸かりをしやすい体質だったのだろう。女性というのは男性よりも神懸かりになりやすいものだしな」
「でもそれじゃあ、先輩が体験したことは全部が夢の中の出来事だったということになりますよ? 如月駅でのことはそうだとしても、今の私たちのように電車を乗り継いだ出来事も夢だと言うんですか?」
「あの後いろんな場所で俺自身のことを聞いて回ったが、目撃者の話では始終ずっと一人で俺は電車に乗り続けていたらしい。
そして終電後の駅のホームで、意識を失っていたところを発見された。
まぁ普通に考えて統合失調症の幻覚や幻聴の類を見ていたんだろう。そして、俺はそこでついに「神の見せる夢」を見たと、かいつまんで言えばこういうことだ」
「……」
「なんのことはない。冷静に考えれば、これで十分説明がつく。俺の頭がおかしかったという事実を受け入れればな」
「まぁ……先輩はちょっとクレイジーな脳味噌をしているなぁとは思いますけど」
とかなんとか、ちょっと冗談めかした相槌を打つことしかできない。
先輩は苦笑いでそれに答えていた。