終 『きさらぎ駅』 6/11
「……」
「いや、ちがいます。結婚しようとかそういうプロポーズじゃありませんよ? 誤解しないでください? おれだって由花子さんと家族を作る自信とかまったくありませんからね? あくまで生活費をおれが出すだけです。予算の関係上、どこかのマンションに同居することになりますけど、そこは我慢してください。おれもエロいことは我慢するんで。由花子さんは働かないかわりに、たまーに気が向いたときに料理を作ってくれればそれでかまいませんから――」
「それ、君になんの得があるの?」
「おれは由花子さんといるだけで楽しいです。だから一緒にいるだけでも、ちゃんとメリットがあります」
「なるほど」
「どうですか?」
腕を組んで、由花子さんは大きなため息を一つつく。
「わざわざ答えなきゃわかんない?」
「はい、すいません」
「まだ素直にプロポーズされたほうがましだったかな」
「いやでも、おれはマジで由花子さんと結婚するのなんて嫌っすよ」
「うっそーショックー」
完全なる棒読みをしつつ、由花子さんは苦笑いだった。
「これは悪口じゃなくてですね。おれにとってあなたはそういうことをする人じゃないっていうか。それはちがうというか……」
おれは窓越しに見るのをやめて、隣にいる由花子さんのほうへと直接顔を向けた。
鼻が高くてメリハリのある横顔はいつものままだった。
あまりにもじろじろと見ていたので、さすがに由花子さんから「見惚れすぎだよ馬鹿野郎。童貞か」と罵られてしまった。
「ま、暇つぶしに来た大学だったけど、来れて良かったよ」
「おれも良かったです――」
由花子さんに会えて、とは言わなかった。
色々とヒドい目に合わされた気もするが、こうして振り返ってみると楽しいことしか覚えていない。
どうやらおれは、かなりのレベルで調教されているようだった。
「さて、そろそろ帰らなきゃいけない頃合いか」
由花子さんは「んー」と猫のように伸びをする。それから立ち上がると短針が三本もあるホームの時計を確認していた。
本当に読めているんだろうか?
すっかり帰れるような気分になっているが、実際のところそう断言しているのは由花子さんだけだ。
嘘でなくても、見当が外れてしまうことはある。
「ところで康一くん。ちょっとお願いがあるんだけど」
そんな心配を見透かしたのか、電車のドアから身を乗り出していた由花子さんはおれを手招きする。
促されるままに、立ち上がって由花子さんの前まで移動した。
「なんすか」
「目を閉じて」
「え?」
「目ぇ閉じなって。何回も言わせない!」
「……」
これは……。
まさか……。
もしかしなくとも……。
チューされるシチュエーションではあるまいか?
「早く閉じろっつの」
足をパタパタと動かして苛立ちを露わにする由花子さんだったが、きっとそれは照れ隠しなんだろう。
おれはなにも気づいていないふりで、いたって平静を装いながらしっかりと目を閉じた。
「大丈夫? 薄目開けてない?」
「開けてませんよ」
「マジで?」
「マジでマジで。ていうかなにするんです?」
「うん。まぁ、色々と考えたんだけどさ。やっぱりこうするしかないかなって――」
瞳を閉じていたおれの瞼の裏に火花が散った。
「グうッっっ――!!!」
叫び声をあげようにもあげられない。
それもそのはずで、喉笛に高威力のスタンガンをぶち当てられてまともに喋られる人間がこの世にいるなら、ぜひとも紹介していただきたい。
何万ボルトあるのか知らないが、おれは膝から崩折れるようにしてその場に倒れ込んでしまう。
必死で身体を起こそうとする努力もむなしく、由花子さんは軽やかな足取りでおれたちが乗っていた電車から降りて、反対の車両へと乗り換えてしまう。
その手にはおれが確保していたミネラルウォーターがしっかりと握られている。
あ、と思う間もなく、由花子さんはそれを開封して一口、二口と飲んでしまった。
くそ、なんなんだよ。
なんなんだよこれ。
「――!」
大声を出そうとしても喉がうまく鳴らない。
無様にうめき声をあげるだけで精一杯だった。
「さようなら、康一くん」
由花子さんは寂しそうに微笑んでいた。
卒業式でも決して口にしようとはしなかった別れの言葉を吐きながら。
おいおいおい、マジかよ。
あんたなにしてくれてるんだよ。
発車を知らせる電子音のメロディが、無人のホームへと流れていく。
早く身体を起こさなければともがくが、ただのたうち回るだけで電車から出ることもかなわない。
二つの車両のドアは閉じていく。
閉じる瞬間、由花子さんがなにか小声で囁いているのが見えた。
おれのところまで届くことのない言葉。
それが「ごめんね」という、あの人らしからぬ謝罪の言葉だと、かろうじて唇の動きでわかった。
いや、そういうの本当にもういらねーから。
ふざけんなよ。
いいかげんにしろよ。
電車は動き出した。おれたちの電車は互いに反対の方向へと走り出す。
謝ってんじゃねーって!
じゃあやるなよ!
どうして――!
絶対に……連れ戻してやる。あの、クソアマぁ……!
おれの意識はそこで途切れ、気がついたときには病院のベットの上だった。
心当たりはないが、駅のホームで意識を失っていたらしい。
おれは無事に元いた世界へと帰還した。
狐宮由花子が存在しないこと以外は、何一つ変わらない世界へと。
◆
「あの日から、由花子さんはいなくなった。そんな人間は最初からいなかったように、世界は変わっていたんだ」
狐宮由花子との数々のエピソードを語り終えた先輩は淡々としていた。
廃ホテルの一件から病状は順調に回復し、仕事は未だにお医者さんに止められてはいるものの、この調子ならば寛解も十分見込めるとのことだった。
今は入院もしておらず、自宅から通院している。
リハビリと気分転換を兼ねて、二人で散歩をするのが最近の主なデートだ。
お天道様が空におわします時間に外へ出て、ふらりふらりと二人で歩くだけのシンプルなデート。
目的地は公園やラーメン屋やレンタルショップなど、あまり色気のない場所ばかりだったが、こちらとしてもそっちのほうが気楽だった。
廃ホテルの一件があってから、先輩が心霊スポットへ足を運ぶことはない。
璃々佳ちゃんとはオカルトサークルの活動の一環で定期的に足を運ぶが、先輩と行くことはなくなっている。
お医者さんからは規則正しい生活をするように言われており、しっかりと太陽の光を浴びることが精神の病気には良いらしい。
なので当然、夜に車で遠出するなんてことは無理なわけだ。
しかし、それを差し引いても先輩からオカルト関係の話を聞くことはなくなった。
あれほどオカルト狂いだった先輩が、だ。
心霊スポットへ誘われることもなく、怖い話を聞かされることもない。
大学図書館の司書をクビになったこともあり、あれほど入り浸っていた部室にも顔を出さなくなった。
それはやはり、先輩にとって先日の出来事が非常に重い意味をもっていたということだろう。
表面上は穏やかに過ごしてはいるものの、きっと先輩は先輩なりに一生懸命これまでのことを消化しているのだ。
少しずつではあるがゆっくりと、先輩は変わろうとしていた。
それは説明なんてされなくともよくわかっていたので、あえてこちらからオカルトの話をすることもない。
結果、それで先輩がオカルトから距離を置くようになったとしても、それはしょうがない。
そう思っていた。
だから「如月駅へ行こう」と先輩が言い出したとき、内心では驚いていたが、特に理由を尋ねようとはしなかった。
言われるがまま、されるがまま、某駅に集合して始発電車へと乗り込んだ。
如月駅の話は当然知っていたが、行き方があるなんてことは聞いたことがなかった。
奇しくも話の中の先輩と同じだったわけだ。
電車を次から次へと乗り継いでいく道中で、先輩は堰を切ったように喋り続けていた。
最近はやや口数が減っていて心配だったのだが、それはどうやら杞憂だったようだ。
今まで減らしていた口数を取り返すように、先輩はひたすら喋り続ける。
狐宮由花子とのあいだにあった一連のエピソードたちを。
途中で休憩を何度か挟んだりはしたものの、ほとんど一日中喋りっぱなしで、今は声も少し嗄れている。
最後のエピソードを喋り終えたとき、時刻はもう夜になっていた。
線路をひた走る電車の頭上には雲一つなく、白々とした満月が灯っている。
如月駅への道程もすっかり終盤だ。
この道順を教わるのは初めてだったが、その複雑さには目を見張るものがあった。
だが先輩はそれを完璧に諳んじることができた。
呆れを通り越して驚嘆するばかりだったが、それもそのはずで、先輩はあれから何度も何度も繰り返し、如月駅へ行こうとしたらしい。
それはもう、数え切れないほど。
だが、一度たりとて目的地へとたどり着くことできなかった。
後年はアプローチの方法を変え、如月駅に繋がる噂を聞けば西へ東へ津々浦々を巡ったそうだが、それでも見つけられなかった。
「もともとトゥルパを作ることを思いついたのは、如月駅へと行くためだった」
廃ホテルから一度も触れようとはしなかったトゥルパについて、先輩はようやく重い口を開いた。
「俺には並の才能しかない。霊能力のような彼岸と此岸の橋渡しをするような技術は、生まれ持った部分によるところが大きい。いくら知識や経験で埋めようとしたところで、素質がなければどうにもならない。だから、俺は如月駅へと続くためのドアを開ける鍵として、トゥルパを作った」
鍵と言うよりは、あれはむしろ破城槌だったように思う。
あんなものをまともにコントロールできる人間がこの世にいるわけがない。
そして、先輩は自分のことを並の才能と言ったが、そんな人間にあれほどのものを作れるわけも、またありえるわけがないと思う。
「結果はご存じの通りだ。君には出会ってから迷惑をかけっぱなしだな。君がいなければ俺は確実に死んでいた。俺だけじゃない、井上さんや黛も川尻も、みんな取り返しのつかないことになっていたはずだ。
あらためて言うが、助けてくれて本当にありがとう」
ひねくれ者で意地の悪い先輩が素直に頭を下げた。
嬉しいけれども、ちょっと調子が狂ってしまう。
少し戸惑っていると、先輩は私の左手に触れた。
先輩の長い指が傷の形に盛り上がった肉を撫でる。
「怪我は大丈夫なのか?」