終 『きさらぎ駅』 2/11
夜が空から追い出され、日の出に向けてちゃくちゃくと準備を進めつつある午前四時。
おれと由花子さんは始発の電車に乗り込んだ。
てっきり井上さんもいるのかと思ったが、昨日から警察学校へぶち込まれているのでシャバには出て来れないとのことだった。
「それじゃあ、致し方ないよね」と由花子さんはあっさりと事情を飲んだらしい。
「どうしました? 調子悪いんですか由花子さん」
「へ……なにが?」
始発の車内に人影は数えるほどしかいない。
そのうち酔っぱらいが多数いるが、中にはスーツを着て出社する企業戦士も少なからずいる。
おれのようなボンクラ大学生から見れば別の世界の住人である。
「ずいぶん聞き分けがいいなと思いまして」
「そう? だってしょうがないじゃん」
「いつもの由花子さんなら小一時間は欠席者をディスり続けそうじゃないですか」
「私そんなことしないよ?」
「そんな可愛く小首を傾げてとぼけても駄目です」
「しないもん」
「だから、そんな可愛く口元を隠しつつ上目遣いに訴えても駄目です」
性悪さを忘れそうになるくらい可愛いのが本当にウザい。
なぜこの悪魔に天使のガワを与えたのか、おれの知るかぎり神様はよほどグロテスクな趣味をお持ちのようだった。
ちなみに今日の由花子さんはご自慢の亜麻色の長髪を器用に編み込んでカチューシャのように纏めており、服装は白いタートルネックに薄手のスプリングコート、短めの黒いフレアスカートからは黒タイツと黒のブーティに包まれた長い足が伸びている。
由花子さんは胸が大きいのでピタッとしたタートルネックを着ると身体のラインが強調されて、やたらとエロかった。
「まぁまぁ、今日という一日の門出を悪口に費やすのも面白くないでしょ」
「それもそうですけど」
「あ、そうそうこれ、とりあえず君のぶんも買っといたから」
由花子さんはコンビニ袋からワンカップを取り出し、おれへと渡してきた。
「……」
「ほら、乾杯」
なんの躊躇いもなく、由花子さんはワンカップの蓋を開けた。
芳醇な日本酒の香りが、日の出直前を駆けぬける始発電車の中に漂う。
「大丈夫だって、さきイカも買ってあるから」
「肴がないとか、そういうことではなくてですね……」
「早く開けろよ」
「はい……」
観念しておれと由花子さんは電車内でワンカップ片手に乾杯する。
企業戦士ことスーツ姿のお父さんの視線が痛い。
今この瞬間において、おれの駄目人間度は指数関数的に急上昇していくことがよーくわかった。
今年で早くも一留を決めたことで親父にぶん殴られたときもたいがいだと思ったが、駄目人間の階梯で言えばまだまだ昇り始めたばかりのようだ。
由花子さんは、楽しそうにさきイカを開封して車内でくつろぎ始めている。
イカ臭いよ……なんなのこの人……。
「はい、あーん」
上機嫌の由花子さんは、頼んでもいないのにさきイカをおれの口元に持ってきた。
本当の地獄はこれからだ……。
おれは開きなおって閑散とした車内で露骨にだらけた姿勢へと移行し、酔っぱらうのもかまわずワンカップをグイグイと流し込んでいく。
酒はそこそこに飲めるほうだが、空きっ腹にハイペースで飲んでしまったせいか通勤ラッシュが始まるころにはすっかりできあがっていた。
駄目な人間に容赦なく刺さるような視線が送られる。
逆に快感だ。
へへへ……いいだろ、羨ましいだろ。
これが特権階級である学生様だ。
お勤めごくろーさん。
せいぜい内心でおれを罵って自尊心を保てばいいさ。
ちなみに由花子さんは、どれほど飲んでも顔色にはまったく出てこない。
酒臭いのはお互い様だが、涼しい顔で取り澄ましているので、傍目にはおれとは他人に見えるんじゃないだろうか。
ていうか「うわ……なにこの人、ありえないんですけど」的な視線を送っておれを他人扱いしてくるわけだが……。
「今日ってなにが目的なんでしたっけ?」
軽く酔いつぶれてシエスタを済ませてから、おれはようやくグッダグダになっている今回の企画の趣旨を由花子さんに尋ねた。
実に合流してから七時間以上は経っている。
どんだけ暇なんだと我ながら思わなくもない。
通勤ラッシュも一段落し、時刻は昼前になっていた。
途中で何度か電車を乗り換えたものの、やっていることはひたすら電車に乗っているだけだ。
おれの記憶が正しければ由花子さんに鉄っちゃん属性はなかったはずだが……。
「だからー、キサラギ駅に行くんだよ」
「それって酔っぱらってると行けるんですか?」
「あれはただの景気づけ。大丈夫大丈夫、キサラギ駅へは順調に近づいてるはずさ」
「近づいてるっていうか。あれってそもそも行こうと思って行けるものでしたっけ?」
そんなもん最初に打ち合わせておけという話だが、おれはやっとこの重大な点に関する質疑応答を由花子さんと始める気になった。
「康一くんは風水とか詳しい人?」
「いや、井上さんはそういうの知ってますけど、おれはあんまり……ただのボンクラですから」
「ボンクラならば一度は聞いたことあるでしょう? 今こうして乗っている環状線や他の路線が巨大な太極図を描いているって話」
「ありましたねそんなの。
江戸幕府が平将門の怨念を鎮めるために神社と首塚の位置を意図的に配置して、妙見菩薩の印とされる北斗七星の形にしたとか。
幕府を滅ぼした政府は平将門の怨念を恐れて、その北斗七星を封じ込めるための結界として太極図になるよう路線を引いたとか。
先の大地震は某電波塔の完成によりその結界が壊れたからとかなんとかかんとか」
「さすがボンクラ」
「あんたもな」
「でもわりと馬鹿にはできないものなんだよ風水って。そうにちがいないよ。積み重ねってものがちゃんとあって、時の試練に耐えて、何千年と残っているんだから」
「言わんとしてることはわかりますけどね。地の利と言いますか、城や都を作るときのノウハウってのはありますから」
「でしょー。だからさ、それを逆手に取るの」
「はい?」
「四国のお遍路さんってあるじゃない。それの逆順礼って知ってる?」
「死人が生き返るとかそういう触れ込みなら聞いたことありますけど」
「事物の本来を逆にするってことはそれだけで呪術的な意味合いがある。その呪術の効力は、古く遡れば神代の頃からあるんだから」
「えっと……つまり由花子さんが言いたいのは、太極図に見立てられた路線を遡ることで、なにかしらの呪術的な摩訶不思議パワーが発生してキサラギ駅に行けると、そういう感じですか?」
「正確に言うと風水や陰陽道から導き出した方位や気の流れを逆に辿っていくって感じ。ほらこれ見てみぃ」
由花子さんはバックの中から時刻表を取り出した。
言われるがままに中を開くと、始発から終電までびっしりと書き込みがなされている。
それはまさに圧巻の一言であり、おそらくネットの検索には出てこない強引な乗り換えも含まれているんじゃないだろうか。
「知り合いの鉄オタにちゃんと検証してもらったから、このルートなら絶対にいけるはずだよ」
胸を反らしてドヤ顔をする由花子さんだった。
たぶんその鉄オタは男で由花子さんに高確率で誑かされているわけだが、今さらそんなことにツッコミを入れても詮無いことだった。
そんなことよりも、由花子さんがここまでしっかりと自分から下準備をするということがそもそも意外だった。
由花子さんは抜群の霊能力を持ってはいるものの、それを用いる知識や技術の類をほとんど身につけようとしない。
理由は勉強や努力が嫌いだからという、至極単純かつそびえ立つクソのような動機である。
だがこの人は筋金入りのボンクラではあるものの、頭はとてもキレる。
ここまで頑なに知識を受け入れないことには、なにかしらのポリシーがあってのことじゃないだろうか。
そんな由花子さんから内的な経験則ではなく、体系的にまとめられた外部の知識が飛び出したことに驚く。
大学生活のラストということもあって、気合い十分ということだろう。
……しっかし、改めて思うが、この人はいったい一日に何人の男に声をかけられているんだ?
始発から一緒にいるが、軽く二〇は越えている。
通勤ラッシュのサラリーマンにすらナンパされていたわけだが、おまえはいったいどういう気構えで出勤しているのかと小一時間は問いつめたい。
男が想像している以上に、美女の需要というのは高いようだ。
ナンパ男に対する由花子さんの対応も堂に入っているというか、邪険にすることは決してしない。
必ず笑顔でノリ良く会話して連絡先をあっさり交換しているのを横目で見ていると、尻軽さに呆れるよりも素直に関心してしまう。
面倒くさくなったりしないんだろうか。
そして、すぐ隣にいるにも関わらず彼氏として認識されていないおれの存在とはなんなのか。
悪気がないのはわかっているが、男としての尊厳を踏みにじられているような気になる。
まぁ……彼氏じゃないんですけど!
「どしたの康一くん? なんかむくれてるけど」
初老のお爺さんにナンパされて愛想良く談笑しつつ適当にあしらい終えた由花子さんは、ようやく連れであるおれに話しかけてくる。
ちなみに由花子さんはナンパされたとき、完全にピンでいることを装っているので、カッコよく助け船を出すとかは求められていない。
最初のうち、それをやったら「黙ってろ」と一蹴されたのだった。
「べっつにーむくれてなんかませんけどぉー」
「なになに? 妬いちゃってるわけ?」
「まさか! 今さらそんなことで妬くわけないでしょう」
「素直じゃなーい、可愛くないよ」
「男なのに可愛いとか言われても嬉しくないですし、これはおれの素直な気持ちです」
「へぇー」
「由花子さんの男好きは今に始まったことじゃないでしょ。それくらいとっくにわかってますから」
「へぇー」
「……なんすか」
「いやーなんでもー、ただその男好きに告白してきたのはどこの誰だったかなーと思って」
「ぐぅっ……なにしてくれてんだよあのときのおれ! こうなるのはわかってたはずだろ!」
あははは、と由花子さんは愉快そうに笑っていて――
……なんだよ。話の腰を折らないでくれるか。