玖 『トゥルパ』 9/10
「そんなの私が許しません! ヤマーさんは私とイチャイチャするんですから!」
……そうじゃない。
「だったら、あなたも飼ってあげる。それなら文句もないでしょう」
「駄目です! あなたはヤマーさんじゃありませんから!」
「そんな疑問も持てなくしてあげるから大丈夫さ」
言いながら狐宮由花子は亜麻色の髪はそのままに、私の顔へと変わった。
声すらもあっさりと似せてしまう。
「この身体を貰ったらもう一度、君たちには狂ってもらう。私を認めない世界を、私は認めない」
「私は絶対におまえを認めない」
「だったら一石二鳥じゃない」
狐宮由花子は元の姿へと戻る。
先輩が作り上げた狐宮由花子、そのものの姿へ。
「そろそろあなたの身体をもらうわ。完全に意識を奪ってから私がそこへ入り込む。それでおしまい。ハッピーエンド。めでたしめでたしというわけ。――そうだ。親愛なる山岸路希さんへの最期のプレゼントとして、その役目は康一くんにやってもらいましょう」
パチンと狐宮由花子は指を鳴らす。
「やってくれるよね。康一くん?」
それを合図に、先輩は手足をバラバラにぎこちなく動かしながら私の目の前へとやってきた。
どれほど私が身体を捩ろうと、一歩だって移動することも叶わない。
すがるような気持ちで先輩の目を見るが、こちらに焦点が合うことはない。
唯一、視界に入るものは狐宮由花子の姿だけだった。
腰のあたりまであるキューティクルの整った流れるような亜麻色の長髪。
小顔にしては大きなつり目に高い鼻。
控えめな唇にほっそりとした輪郭。
起伏に富むボディライン。
「ほうら康一くん。さっさと片づけてしまおうよ」
先輩の手が私の首へと伸びていく。
節の目立つ長い指と、暖かな先輩の体温が私の首にまとわりついた。
それは真綿のように優しく緩やかに、それでいて確実に私の気道を押し潰していく。
私は短剣が刺さったままになっている左手の痛みに意識を集中させた。
これが私にできるせめてもの抵抗だ。
痛みで散り散りになる意識をかき集めて研ぎすましていく。
ポジからネガの世界へと沈み込んでいく意識をさらに深くへと潜行させる。
もっともっと深く、ロゴスとミュトスで構成される世界の元となる場所へ。
遠のきそうになる意識に必死でしがみつき、さらに深奥へと踏み込んでいく。
一瞬でも集中を切ればたちまち引き戻されそうだった。
あいつにできて、私にできないはずがない。
今この一瞬だけでいい。
どうか私を神様の場所へ届かせてください!
路希はおもむろに左手に短剣を突き刺して自傷に及んでいた。屋上のリノリウムの上にはぽたりぽたりと血痕が垂れていた。それでいて自分だけでなく他の者にも襲いかかった。それをすんでのところで璃々佳、形兆、朋子が三人がかりで止めた。今だ康一!と形兆は言った。促されるままに康一は路希の首に手を伸ばした。康一は路希の首を絞めた。康一は路希の首を絞めた。康一は路希の首を絞めた。康一は路希の首を絞めた。最初はためらいがちだった。だが徐々に力は強く込められていった。康一は路希の首を絞めた。康一は路希の首を絞めた。白鳥の首の骨を折るかのように思い切り力を込めた。
どうしてこんなことになっちまったんだ。おれは嘆きの涙が両目から溢れるのを止められない。山岸はこんな奴じゃなかったはずだ。歯を食いしばって犬歯を剥き出しにしている山岸の表情は、鬼のようだった。物静かでいて、実は寂しがりで人懐っこい彼女の姿はどこにもない。それがどうしようもなく悲しかった。だがそれ以上に、こいつは由花子さんを殺した。殺したんだ!おれの一番大事な人を、おれの彼女を、おれの由花子さんを。こいつは殺した。殺したんだ!それが許せるわけがないだろう!ここでこいつを殺さなければ、おれは自分の気持ちが嘘だったと認めてしまうようで怖かった。おれは由花子さんが好きで、由花子さんもおれを好きでいてくれて、夢のように思っていたのに。おれの由花子さんを……。
告白したときの由花子さんの反応を、おれは思い出す。
眉も動かさず、驚いた様子も見せないで、大きなため息をついて。
「いや、ありえないっしょ」と――
んん??
唐突に、世界の色彩が変わった。
「せ……ん、ぱ…………い」
おれは慌てて手を離した。
まったく状況が読み込めず、長い眠りから覚めたような感覚がする。
山岸は何度も何度も咳を繰り返していた。
どうもおれが首を絞めていたらしい。
なぜだ?
そんなことをする理由なんてないのに……。
山岸の身体をどういうわけか取り押さえている井上さんや黛や川尻を見ると、そこには恐怖している人間の顔があった。
その視線はおれを通過して背後へと伸びている。
いったいなにがそれほど怖いんだ?
おれはなんの気なしに、現実感の乏しさを引きずりつつ、夢の続きを見てやるかくらいの気持ちで振り向いた。
「……」
「どうしたんですか? ご主人様」
「……」
由花子さんがおれに微笑んでいた。
「早くしてください。あなたの最愛の由花子は待たされるのがなにより嫌いなんですよ」
「マジで……?」
「マジですよ。私はあなたの由花子です」
「……」
「……」
「本当に、目の前にいるみたいだ」
「そうですよご主人様。あなたのおかげです。ここはあなたにとっては舞台裏。そんなにまじまじと見るものではありません。それは野暮というものでしょう」
「……」
「まぁ、でも、あなたの由花子は忘れてあげます。ご主人様もすぐに忘れさせてあげますよ。この私があなたの由花子です。これからは、たっぷりとあなたを愛してさしあげましょう。その代わり、あなたも私を存分に愛してください」
「……」
「私が優しく包み込んで、二度と目覚める必要のない場所に連れて行きましょう。それが私の役割ですから」
「……」
完全に集中の切れた意識は散漫で、ともすればふっつりと途切れてしまいそうになるのを懸命にこらえるだけで精一杯だった。
先輩は長い沈黙を保ってから、決心したかのように狐宮由花子を抱きしめた。
……。
それが先輩の出した答えだと言うのなら、もうどうしようもなかった。
「由花子さん」
「どうしたの康一くん?」
「俺はあなたのことが大好きです。狂おしいくらいに愛してます」
「私もよ」
「だから、俺と……結婚してください」
狐宮由花子はきょとんとしていた。
なにが起きているのかまったく理解が追いついていない。
目を見開いて、先輩をじっと見つめている。
先輩はそんな狐宮由花子の反応を無視して、虚像のはずのその身体を抱き締めた。
そして、狐宮由花子に顔を近づけて――。
思わず、私は顔を背けた。
見たくなかったからだ。
頬からは自然と涙が伝っていく。
完璧に負けた。
私は死ぬ。
そのまま、観念してうなだれていると、こちらに先輩が歩いてきた。
今度こそ殺されるのだろう。
「ごめんな」
先輩は私にそうつぶやいた。
それは正気のときの先輩の声そのものだった。
先輩は久しぶりに私をちゃんと見てくれていた。
こんな状況でもそれを心のどこかで嬉しいと思っている自分がいる。
それゆえに、悲しみは深くなっていくばかりだった。
その現実に耐えられなくて、私は瞼を閉じる。
すると、唇に柔らかな感触が走った。
なにか暖かなものが口の中へと入ってくる。
目を開ける。
先輩が、私に、ベロチューをしていた。
おもいきりビンタした。
「へぶっ!」
「なんすかなんすかなんなんすか!? いきなり!?」
「……いや、急に目ぇつぶるから、キスして欲しいのかなって」
「殺す直前くらいふざけるのやめてくださいよ!」
「……なんのことだよ。誰が誰を殺すって?」
「いやだから! ――あれ?」
身体が自由に動く。
周囲を確認すると井上先輩、トモちゃん先輩、璃々佳ちゃん、みんなが横になって意識を失っている。
そしてなにより――。
「狐宮由花子はどうしたんですか?」
「……煙草あるか」
ひとまず煙草を取り出して、先輩にくわえさせてからジッポーで火をつける。
先輩は一口ゆっくり吸うと、ゲホゴホとすさまじく噎せていた。
吸えないのか……。
それからたっぷりと、長い沈黙をとってから、先輩はたった一言。
「消したよ」
それからすぐに話題を切り替えるようにして「迷惑かけたな。ありがとう」とだけ言った。
「なんで、私を殺さなかったんですか?」
「……なんでだろうな。所詮、俺は凡人だったということだ」
私に語りかけると言うよりは、自分に言い聞かせるように先輩は喋り続ける。
「良かったんだ、これで。アレのために、俺が狂い死にできるなら、それで良かった。だがそうはならなかった。アレは俺以外のものも手に掛けようとした。だから……」
消した。
「あいつは俺が心血を注いで作り上げた真実だった。嘘や幻になんてさせられない。そうであってなるものか。けどな、だとするなら、もう……忘れるしかないんだ」
「……」
「……」
それから、またしばらくのあいだ沈黙が続いた。
私はいつまでも先輩が口を開くのを待っていた。
◆
煙草を一本、ギリギリまでふかしてから、先輩はそれを屋上から地上へと投げ捨てた。
「寒いな……」
当たり前だ。
先輩はほとんど寝間着に近い病衣のままなのだから。
「帰るか」
「はい」
それから先輩と私は、意識を失っている三人の目を強引に覚まさせた。
三人は三人とも、ひどく憔悴していてろくに口も聞けない。
帰り道はまさしくゾンビそのものという有様だった。
「なんとかなって、本当に良かった……。まさかこうして無事に帰れるなんてな……」
「康一、あんた……覚えてなさいー。この貸しは絶対に取り立てるからー」
「ヤマーさん……私、もう限界みたいです。五日くらいぶっ続けで徹夜したみたいな……」
ギリギリな状態にありつつも悪態をつくことで、みんなは自身が無事であることを示してくれた。
しかし、疲弊していることは本当で、みんなは車に乗り込むなり、ぐーすかと眠り込んでしまう。
「俺が運転するから、君は助手席でゆっくりと寝ていろ」
そう先輩は言ってくれるが、私だけは眠ってはいけない。
その責任がある気がした。
ていうか、そもそもこの人、免許持ってるんだろうか?
障害者手帳二級を保持する人間が果たして国家から車両の運転を許可されるものなのか?
とにかく不安の種は尽きない。
かといって、今の私に車の運転がまともにできるとは到底思えない。
絶対に途中で事故ってしまう自信があった。
眠すぎる。
起きてるだけでも一苦労だ。
せめてもの慰みとして、みんなのシートベルトがきちんと締まっているかを確認して回る。
ある意味、この家路が最大の恐怖の時間になりそうだった。
しっかりとシートベルトをして助手席に乗り込む。
運転席の先輩は危うげな動きでサイドミラーやバックミラーを確認していた。
「あのさ。左がアクセルで右がブレーキだっけ?」
「やめましょう!」
「冗談だ。冗談」
「……」
先輩は本当に冗談がキツい。キツすぎる……。
ようやく車は発進した。
バックミラーに写りこんだ廃ホテルがしだいに遠ざかっていくのが見えて、やっとすべてが終わったのだと実感できる。
と思ったのも束の間、屋上に狐宮由花子が立っているのが目に入った。
バックミラー越しに見える姿は小さいが、見まちがいということはなさそうだった。
奴はパクパクと口を動かす。
すると、一瞬遅れてから車内に声が響いた。
「退屈な人だね。康一くんは」
それっきりだった。
気がつけば煙のように、屋上からその姿は消えていた。
先輩はなにも言わずに、車を走らせている。
もしかしたら、今のを聞き取っていたのは私だけなのかもしれない。
けれど、それを先輩に確認する気にはどうしてもなれなかった。
代わりに、自分にできる狐宮由花子への精一杯の抵抗というか反撃を考えてみる。
思いついた。
けれども、それを実行に移すまでに三〇分の沈黙が車内には流れていた。
「……」
「……」
「先輩」
「なんだ?」
「私は、どうやら……」
「……」
「……あなたのことが、好きみたいですよ」
「……」
「……」
「じゃあ、そうじゃないかもしれないな」
「……」
「……」
「……好きです」
「そうか」
「……」
「……」
「私と、付き合ってください」
「……」
「……」
「……」
「……」
「「……」」
先輩がそれにオーケーを出してくれたのは、それからたっぷりと四八時間が経ってからのことだった。
すいません。
所用により、次回の投稿は来週月曜日になってしまいます。
ごめんなさい