玖 『トゥルパ』 8/10
歓喜の声を路希はあげていた。
念願を叶えることができた喜びを共有しようと他のメンバーに語りかけた。
「やっと終わりました! 終わったんですよ! これでみんな元に戻ってくれますよね!」
「なに言ってんだよおまえ!」
形兆の制止を振り切って康一が路希の頬を殴った。
怒りに任せた拳は気がはやるばかりで体重が乗っていなかった。
しかし物理的な衝撃こそないものの殴られたという事実は路希をいくらか動揺させていた。
「ちがうでしょう先輩! あいつはもう死んだんです。私が殺したんですから!」
死んだ殺したという言葉を合図にして璃々佳はついに泣き始めた。
璃々佳につられるようにして全員が目に涙を浮かべていた。
その全員の中に路希だけは含まれていなかった。
「いやいやおかしいでしょう! いい加減みんな元に戻ってくださいって」
「おかしいのは……おまえだろうが!」
康一は涙を流しながら路希を怒鳴りつけた。
「全然怒るようなことはないんですよ先輩。むしろこれが正常で――」
「うるせーんだよ。意味わかんねーし、なんなんだおまえ!」
「え、あれ?」
康一に詰め寄られたことで路希は混乱し始めた。
「そんな、なんで元に戻らないんです? これじゃあまるで――」
私のほうが狂ってるみたいじゃないですか?
「みたいじゃねえんだよ!」
歓喜から困惑の色味を増していく路希は大事に隠し持っていた短剣の存在を確認した。
柄の感触はしっかりとそこにあった。
路希はそれを引き抜いた。
月光を跳ね返す短剣が夜に煌めいた。
自ら聖別したその輝きだけが揺らぎかけていた路希の現実を支えていた。
「私は狂ってません! おかしいのはみなさんのほうなんですよ!? どうしてわかってくれないんです? なんで元に戻らないんですか?」
刃物を持ち出した路希の姿に一同は目の色を変えた。
明らかに怯えていた。
「ちがうちがう。そうじゃないでしょう! なんで私を怖がるんです?」
「この……」
刃物を恐れずに再び殴りかかろうとする康一を璃々佳が止めた。
「やめてください! 刺激したら駄目です!」
すんでのところで動きを止めた康一に間髪入れず形兆が加勢した。
「目が覚めたよ俺は。路希ちゃんのおかげだ」
康一の肩を叩いて形兆は一歩踏み出した。
「だから、その物騒なものをこっちにくれないか。女の子が持ってていいようなものでもないだろ」
あれだけ頼もしかった短剣の輝きが失われていくようだった。
これだけしか自分自身の正当性を支えるものはなかった。
それが急速に色褪せていくのだった。
「……じゃあ、井上先輩の本当の職業を言ってみてください」
「職業……え、えっと、それは――商社の営業マンだ」
形兆は来月から始まる自分の仕事をいちかばちか正直に申告した。
それと同時に背後から忍び寄った朋子が路希に飛びかかった。
だがすんでのところで路希から短剣を奪うことは叶わなかった。
路希はひらりと身をかわして屋上の縁へと飛んだ。
「わかりました」
路希は短剣の柄を自分の手と同化させるように強く握り込んだ。
「どうやらみんなまだあいつに化かされてるようですね。でも安心してください。私が聖別したこれで、今すぐ解呪してあげます。これを突き刺せばたちどころにみんな元に戻ってくれますから」
月を背にして路希は優しく微笑んだ。
だが康一は怒り狂っていた。
「死ねよ。おまえが」
「え?」
「おまえが死ねばいいだろうが。この世界がおかしいっていうならおまえだけが死ねばいいじゃないか! なんで俺たちを、由花子さんを巻き添えにするんだよ!」
「ちがうんです先輩」
「ちがくねぇよ!」
「ちがうんですよ!」
「だからなにがだよ! おまえが死ね!」
路希はおかしくなかった。
おかしいのは自分以外のすべてだった。
なにもかもがおかしい。
正しいはずなのにこれでは狂っているのがまるで自分だけのようだ。
ちがう。
そうじゃない。
私は狂ってなんかない。
狂ってなんかない。
おかしいのは私じゃない。
まちがったものは正さなくてはいけないはずだ! と路希は思った。
やめてくれ路希は刃物を手に――止まれ――足下に転がっている朋子へと襲いかかった。 短剣を朋子の首筋に走らせると血しぶきが噴きあがっ――止まれ!
おかしいのは私だ!
正すべきは――
自分の左手に短剣を突き刺した。
骨をいくらか削りつつ刀身は甲を貫通して掌から突き出た。
一瞬で頭は激痛に支配されてなにも考えられなくなる。
思考が完全に停止する。
その瞬間に、私は意識を強制的にずらして転調させる。
地面が沈み込むような感覚。
ポジとネガが入れ替わり、世界が裏返しになっていく。
いや、正確に言えば裏の裏、こっちが正常な世界。
◆
気
が
つ
く
な
ん
て
つ
ま
ん
な
い
の
あ
と
ち
ょ
っ
と
だ
っ
た
の
に
◆
自分の中からあいつが出ていくのがわかった。
霧が晴れていくかのように、世界が鮮明になっていく。
転調を通して元の世界へとようやく帰還した。
廃ホテルの屋上の縁に立っていた。
目の前には井上先輩やトモちゃん先輩、璃々佳ちゃんがいる。
そして、行方不明の先輩もいた。
状況は概ね変わらなかったが、メガネに私服姿だった先輩は病衣姿になっている。
春とはいえ、風の強い夜はとても冷えた。
眼下に広がる足下に視線を落とす。
そこにはなにもない。
暗闇と、ところどころ雑草に突き破られたアスファルト。
死体はおろか、血だまりの一つだって見つけられなかった。
わかっていたとはいえ、ほっと胸をなで下ろしてしまう。
良かった。
危うく殺人犯になるところだった。
「さぁ、みんな帰りましょうか」
「あれヤマーさん? 私、どうしてこんな場所に」
「なんかすごいイヤーな夢を見てたようなー」
「どこだここ?」
璃々佳ちゃんたちも正気に戻っているようで、私の呼びかけにちゃんと正常な返答をしてくれた。
やはり、ほっとする。
危うくこの人たちを殺しかけていたなんて、本当に悪い夢を見ていたとしか思えない。
もちろん、これは夢なんかじゃない。
その証拠に、ズキズキと心臓の鼓動に合わせて激痛が左手に走る。
とっさのこととは言え、この手じゃしばらくギターは弾けそうになかった。
「どしたの、璃々佳ちゃん。なんでずっと動かないの?」
「ちがうんです」
「なにが?」
「動けないんです。喋るだけで精一杯なんです」
「え?」
「俺もだ」「私もー」と井上先輩もトモちゃん先輩もそれに続く。
……そうとは思いたくなかったが、やはりこれで終わりにはしてもらえないようだった。
「帰っちゃいやん」
聞き覚えのある声がした。
先輩の頭を両腕で包み込むようにして、そいつは宙に浮かんでいた。
ついさっきまで地面に横たわっていたはずなのに。
そいつに外傷なんてどこにもない。
「うまくいかないものだねぇ」
狐宮由花子はたいして困ってもいない様子でそう嘆いていた。
イタズラが見つかったのを誤魔化すように、舌をぺろりと出してウィンクをして、コツンと自分の頭を小突いている。
ここに至るまでのあれやこれやは、すべてこいつが見せた幻だ。
ただしはっきりと一つだけ、幻覚でないことがある。
私はこいつが大っっっっっ嫌いだ!
「さすがにあれくらいじゃ死なないか」
「当たり前でしょう。私は河野康一が作り出したトゥルパ。あれくらいで死ぬなんて笑い話にもならないよ」
人間を装うことを完全にやめて、狐宮由花子はぷかぷかと宙に浮かんでいた。
先輩に抱きついていなければ、そのまま風に乗ってどこかへ行ってしまうかのように、重さというものがないようだった。
そりゃそうだ。
狐宮由花子は人間でもましてや幽霊でもない。
先輩の妄想に過ぎないのだから。
「でも君は見えているでしょう。聞こえているでしょう。私の姿や声が。それはもはや一人の男の妄想とは言えないんじゃないかな」
狐宮由花子は当然のようにこちらの思考を読み取ってくる。
サトリかこいつ。
「今から焚き火をする余裕なんてあるのかなぁ」
狐宮由花子は余裕を見せつけつつ、挑発するように先輩に口づけをした。
当の先輩は目こそ開いているものの、まるで夢遊病者のように見えた。
ここではないどこかに目の焦点を合わせていて、表情もない。
狐宮由花子が操るマリオネットといった有様である。
璃々佳ちゃんたちは口や瞳だけは動かせるが、頭を右に左に振ることもままならないようだった。
みな怯えきった瞳で私に助けを求めている。
まともに行動できるのは私だけだった。
「少なくとも形兆とトモちゃんには死んで欲しかったんだけどなぁ。せっかく私が主役に抜擢したのに、途中で舞台から降りるなんて、君はずいぶんお転婆な女の子なんだねぇ」
「あんな出来の悪いグランギニョールはこっちから願い下げ」
「ふーん」
こちらを値踏みするように足下から舐めるように視線を這わせてくる。
「逃げる気はないみたいだね。感心感心」
「誰が逃げるかよ」
「ま、逃がさないんだけどね絶対に。君は私とご主人様の世界に邪魔なんだよ」
「……」
「君がいなければ私は力を取り戻すこともなかった。それは素直に感謝。けど、君がいることで私は本調子になれないんだ。本当、うまくいかないというか、ポンコツだよね。世界ってやつは」
「おまえのほうだろう、ポンコツは。あの先輩に作られたくらいだしな」
「あはは。黙りなよ」
いきなり先輩以外のみんなが駆け寄ってきた。
身体が自由になったわけではないことは恐怖を浮かべた表情を見ればすぐにわかった。
逃れようとするが三対一に加えて、背後は地上六階の断崖である。
立ち回ることもできず、三人にあっさりと取り押さえられてしまった。
井上先輩に両腕を、璃々佳ちゃんとトモちゃん先輩が右足と左足にそれぞれしがみついてくる。
「ヤマーさんごめんなさい。でも、身体が言うことを聞かないんです」
璃々佳ちゃんの指が太ももに食い込む。
先輩がたも同じだ。
特に井上先輩は万力のような力でまったくビクともしなかった。
無理にふりほどこうにも歯が立ちそうにない。
「コレの悪口を言ってもいいのは私だけ。私だけがコレを自由にできる。傷つけたいときには傷つけたいだけ傷つけていいし、愛したいときには愛したいだけ愛していい。コレは私だけのモノだから」
狐宮由花子は蛇のような真っ赤な長い舌で先輩の頬を撫でる。
見ているだけで激しい嫌悪感を覚えた。
「調子に乗るなよ。ただのトゥルパの分際で……」
「そんな劣勢で強がるなんて、哀れさを貫通して滑稽だぜ」
自分の有利を疑わない狐宮由花子は、先輩から離れてすぐ目の前までやってきた。
「そんな滑稽な路希ちゃんに、とっても素敵な提案があるの」
間近で見ると亜麻色の髪をしたこの化け物がどれほど美しいかを無理にでも理解させられた。
だがこちらを下からのぞき込んだ途端、人とは思えない容貌へと変化していく。
ネコ科の生き物のように瞳孔を異常に拡大させ、白目は外へと追いやられる。
裂けた口元は三日月のような半円を描き、ほっそりと開いた隙間からは鋸のごとき細かな牙がびっしりと生え揃っていた。
「私に君の身体をちょうだい」
狐宮由花子の手が私の乳房に触れた。
こいつの存在が幻だとわかっていても、乳房を鷲掴みにされた感触は否定のしようがない。
覚めない悪夢の中で、つねった頬に痛みが走ったような絶望感だった。
「君は私のことが嫌いみたいだけど、私は君のことを気に入っている。君は優秀だ。絞りカスのようになっていた私の存在に気がつくことができた資質。私に逆らうことができる胆力。人を引きつけるカリスマ性。そして、まぁまぁ整っているこの容姿」
下顎を掴まれ、無理矢理に顔を化け物の目の前に引きずり出される。
「バタ臭い外見は好きじゃないし、女の子にしては背が高すぎるけれど、それは妥協してあげる。特別大サービスでね」
「ふざけるな。そんなこと許すわけが――」
「君にとっても悪くない話さ。私は晴れて現界へと授肉できるし、君は愛しの先輩からの寵愛を一人占めできる」
「私の意識はどうなる」
「いちおー残しといてあげる。あなたはこれから永遠に夢を見ることになるでしょう。河野康一と山岸路希が仲睦まじく過ごしている居心地のいい夢をね」
許せるはずもない、その無茶な提案をいち早く却下したのは私ではなく、足を掴んだままの璃々佳ちゃんだった。