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玖 『トゥルパ』 7/10




 肝試しのリハーサルが終わると夜の帳は降りきっていた。

 廃ホテルの中には一片の明かりもなかった。

 懐中電灯を手放してしまえば外に出ることはできないだろうと思われた。

 だが一行は由花子に連れられてホテルから出ることなくさらに奥へと進んでいた。


 階段を上っていくと屋上へと続く扉が現れた。

 鍵がかかっているためこの扉は何十年と閉ざされたままだった。


「ふふふ、ところがどっこい。今回はちがうのだよ」


 不敵に笑う由花子の手にはキーホルダーに納められた古ぼけた鍵があった。

 由花子は鍵の入手先を説明しようとはしなかった。

 その鍵を入れてドアノブを捻ると扉はあっさりと開いた。


 開け放された扉からは春一番と言うには冷たすぎる風が吹き込んできた。

 外に出ると障害物のない開けた場所へと出た。


 屋上に柵のようなものはなかった。

 膝の高さていどの段差がぐるりと囲んでいるだけだった。


「さーそれじゃあ飲みましょうか」


 形兆が運んできたアルコールを各自手にして簡単な宴が始まった。


「一回ここでお酒が飲んでみたかったんだよ」

「ああ、俺はノンアルだけどな」

「いやー景色がいいと酒も美味いね」

「俺はノンアルだけどな」

「つまみがないのは残念だけどねー」

「俺はノンアルだけどな!」


 形兆だけは車の運転があるためアルコールは控えていた。


「井上さん、あざーっす!」


 康一は頭を深々と下げてお礼をした。

 それに続いて棒読みの「あざーす」という由花子と黛の謝辞が送られた。


「くそう……ジャンケンで負けなければ……」

「あざーす!」と由花子は煽りという名の謝辞を再び送った。

「うわーでも本当に綺麗ですよ! ありがとうございます!」


 璃々佳は珍しくはしゃいでいた。


 見上げれば空にはたくさんの星が散りばめられていた。

 そして眼下には街の明かりが瞬いていた。

 遠方にあるそれらはさながら星のようだった。

 夜空を塞ぐ地平線が決壊し星が地上に氾濫しているかのようだった。

 廃ホテルは山の高台にあった。

 くわえて地上六階もあるため遠くまでよく見渡せるのだった。

 この光景には路希も心を奪われた。


「井上先輩、ありがとうございます」

「お、おう」


 路希にお礼を言われて形兆は照れていた。

 クラウスターラーを一気に呷って誤魔化していた。


「先輩がたも、もうすぐいなくなっちゃうんですよねー」


 ストロングゼロを片手に朋子はしみじみと嘆いた。

 形兆と由花子は今年の四月から二人とも社会人だった。

 それでも何事もなかったかのようにこの場にいた。

 湿っぽいのが嫌いな彼らなりの振る舞いだった。

 後輩たちもそれを汲んでいた。


 だがそれもそろそろ限界に来ていた。

 由花子ですらこのときばかりはしんみりとジャックダニエルの小瓶を傾けていた。


「そうだねー。長いようで本当にあっと言うまの四年間だったよ」

「あぁ、楽しかったよな」

「そうね。まだまだ暴れたりないよ。本当のことを言うとさ」

「嘘ぉ……まだまだなの?」


 形兆はひきつった笑いを浮かべていた。


「先輩たちがいなくなると寂しくなりますよねー」


 淡々とした声で朋子は独り言ちた。

 だがその口調の裏で彼女は少し泣いていた。

 エビスビールを持った璃々佳が黙って朋子の隣に座っていた。


「井上さんも由花子さんも、今までお疲れさまでした」


 康一はジーマで二人と改めて乾杯をした。


「オメーはまだまだ頼りないが、副部長の朋子や後輩たちをちゃんと引っ張っていけよ」

「はい」

「本当に頼りないから私は心配だよ。デートのときもそうだけど君は段取りってやつが頭に入ってないよね」

「ちょっ……こんなときにデートのダメ出しは勘弁してください!」


 形兆と由花子は愉快そうに笑い声をあげた。


「まぁ、私が言いたいことは一つだけ」


 由花子は康一の肩に手を回して正面から見つめた。


「浮気したらいけませんからね、ダーリン」 

「……」

「いい加減、そうやってすぐ顔を赤くするの治らないのかな」

「赤くなんかないです!」

「どうして君はそんな童貞臭いんだろ? ベットの上でもそんなだしさー」

「いやだから、そういうこと言う場面じゃないでしょって!」


 まるっきり隠す気のないひそひそ声で形兆は由花子に耳打ちしていた。


「康一ってマグロだろ?」

「それがさ、わりとがんばって色々してくれるんだよ」

「最低だよ! あんたら!」

「「あはは」」といつものごとく二人は笑っていた。

「あ、そうだ。路希ちゃん」


 路希はみなから少し離れた場所でハイネケンを飲んでいた。

 由花子が路希の名前を呼んだことで一同には緊張が走った。


「ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな」

「……いいですけど」


 嵐の直前の動向を見守る一行の中にいて形兆だけが由花子を制止した。


「まぁまぁ、任せておいてくれたまえよ」

「任せろっておまえ……。絶対に喧嘩するなよ」

「それは場面で」


 路希は吸っていた煙草を地面に押しつけて火を消した。


「……いいですよ由花子さん。二人で話をしましょうか」

「そうこなくっちゃ」


 不安そうに見守る他のメンバーからできるだけ離れた場所へ路希と由花子は移動した。

 強風で二人がなにを喋っているかは誰にもわかりようがなかった。


 屋上の端付近に立つと眼下には星たちが瞬き犇めいていた。


 亜麻色の長く美しい髪が風を受けて夜空に流れていた。


 青い二つの眼が瞳孔をいっぱいに開けて月明かりを取り込んでいた。


「君は私の彼氏が好きでしょう?」


 由花子は前置きを一切せずストレートに会話を始めた。


「えぇ、好きですね」


 怯んだ様子をまったく見せずに路希はすぐに切り返した。


「いいね。そういうムカつく態度、悪くない」


 遠目に見れば親しみを持って由花子が微笑みかけているように見えた。

 対照的に路希の表情は敵意を隠そうとはしていなかった。


「私はあなたが嫌いです」

「そう」

「話はそれでおしまいですか?」

「私の彼氏に手を出さないでくれるかな」


 路希はうっすらと笑った。

 嘲笑だった。


「あなたがそれを言うんですか? 聞いてますよ評判は。いったい何人の女の子たちがあなたにそう言ってお願いしたんでしょうね」

「覚えてないね、興味ないから。でも、これはお願いじゃないの」

「命令ですか?」

「警告だよ」


 張り付けたような微笑みを由花子は絶やさなかった。

 だが表情とは真逆の負の迫力が言外ににじみ出ていた。


「これでも私は君のことを認めてるんだぜ。私が敵として認めたんだ。君は誇ってもいいんじゃないかな」

「いえいえ、誇るほどのことじゃないですよ」

「あれは私のモノだ。誰にも渡さない」

「そう言われましても。選ぶのは先輩ですから」

「まぁ、それを言ったら君は選ばれなかったわけだけど」

「……」

「あはは、にらまないでよ。君が大好きな男が私を選んでるってことは事実なんだから。そうでしょう?」

「……」

「いいかい? 私は親切心から言ってあげてるの。だからこれは警告というよりは訓告かな」

「あなたみたいな人に諭されることなんてなにもありません」


 路希の言い分を由花子は完全に無視していた。


「君が康一くんに選ばれることなんて一生ないんだからあきらめな」


 黙ってガンを飛ばす路希をやはり無視して由花子は語った。


「時間の無駄だよ。だって彼は私のことが好きで好きでしょうがないんだもの。君のことなんて康一くんは見てないっしょ? だからさっさとあきらめて、他の男を漁ったほうが生産的だってこと。あなたには軽音のつまんない男どもがお似合いだと、お姉さん思うの」

「……」

「ああ! ごめんごめん! 軽音はあなたがサークルクラッシュさせたんだっけ? 学内でも評判だもん。彼女持ちだろうがなんだろうが手当たりしだいに男をひっかけるクソビッチだって。同族嫌悪とはよく言ったものだよね。大嫌いな私と似たり寄ったりの評価だなんて、滑稽すぎるじゃない――」


 路希は由花子に殴りかかった。

 由花子は罠にかかった獲物をせせら笑うかのように口元を歪めていた。

 由花子はあえてそのまま路希の拳を左頬に食い込ませた。


 だがすべてが由花子の思うとおりにはいかなかった。


「先輩を誑かすトゥルパめ! 私が殺してやる!」


 由花子はなにを言われたのかわからない表情を浮かべた。

 ここまできてシラを切る振る舞いに路希はさらに激昂した。


 路希は由花子の身体を掴んだ。


「え、なにするの?」


 殴りあいの喧嘩が始まったことで見守っていた康一は走りだすが間に合いそうになかった。


 路希は自分よりもずっと軽い由花子を力任せに放った。


「死ねぇえ!」


 由花子の身体は地上六階の屋上から宙へ舞った。

 星屑一つも見あたらない闇の中へと由花子の身体は消えていった。

 固いアスファルトに血と肉と骨をぶちまける鈍い音が響いた。


「由花子!」


 今にも宙へと駆けていきそうな康一を形兆は無理矢理に引き留めた。

 ワンテンポ遅れてやってきた朋子は地上に懐中電灯の光を照らした。

 すぐにそれは見つかった。


 大輪の曼珠沙華がコンクリートを割って咲き誇っていた。


 長い亜麻色の髪は花糸のごとく放射状に伸びていた。

 曼珠沙華は焦点の定まらない瞳を虚空に向けていた。

 美しく咲き誇る花弁に養分を吸われた手足は力なく地面に転がされていた。


 吹き荒れる春一番にさらされても一輪の曼珠沙華は少しも動かなかった。

 なにがあってももう動くことはなかった。


 それを見た璃々佳は絹を裂くような叫び声を上げた。

 興奮状態の路希は自分のしでかしたことをようやく理解した。


「やりましたよ先輩!」


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