玖 『トゥルパ』 6/10
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形兆の運転でオカルトサークルの一行は目的地へと到着した。まだまだ陽が落ちきるには早すぎる時間だった。
春の陽光は廃墟の陰影をはっきりと照らし出していた。
これらの陰影が夜の闇へと溶けてしまわないうちに一行は下見を終えることができた。
廃ホテルに変化はまったく見られなかった。
前回よりも綺麗になっているということはなかった。
前回よりも朽ち果てていることもなかった。
まるで神様が、この場所に流れる時のゼンマイを巻き忘れてしまったように感じられた。
四年の井上先輩が初めて連れてこられたときからなにも変わってはいないと聞いた。
さらに言えば、井上先輩が新入生だったときの四年の先輩がたも同じことを言っていたそうだ。
そういう話を聞いていると、こんな廃墟でも神秘的に思えてくるのが不思議だった。
陽が沈む頃に一行は車へ戻った。廃ホテルから車で一〇分ていどの場所に桜が咲いている場所があった。
そこで持ち寄った食料を広げて簡単なお花見と早めの夕食を済ませた。
陽が落ちて一時間もすれば辺りはすっかり夜になっていた。
それを見計らって一行は廃ホテルへとんぼ帰りした。
「それじゃあ、リハーサルのペア決めをします」
康一は当日とまったく同じ段取りでくじ引きを行った。
路希のペアは康一だった。
夜になって暗闇に閉ざされた廃墟へ路希と康一は足を踏み入れた。
決められた順路を懐中電灯で照らしながら歩いた。
さっきのこともあってちょっと気まずいなぁと思っていると先輩に話しかけられた。
「悪かったな。立ち聞きなんてしちゃって」
「いえ、先輩が謝ることじゃないですよ」
どちらかというと謝らなければいけないのはこちらのほうだろう。
「由花子さんがあんなに怒る理由はよくわからないけど、気にすんな。すぐに忘れるよあの人は。根に持つタイプじゃないから」
そうだったのかもしれませんが、今回はそういう問題じゃないんですよ。
路希はどう説明するべきか言葉を選んでいた。
しばしの沈黙から康一へ打ち明けた。
「先輩……目を覚ましてください」
「え、俺またなにか怒らせるようなこと言ったか?」
「狐宮由花子なんて人、どこにも存在しないんですよ?」
康一は呆気にとられている様子だったがそれも無理のないことだった。
こういった反応が返ってくることは路希も想定していた。
だからひるむことなくたたみかけた。
「あれは、先輩が作り上げたトゥルパなんです。しかも普通のトゥルパじゃありません。人の思念を食べて成長する特別なトゥルパです」
「トゥルパ? あのネットとかでよく見かける、人工未知霊体のことか」
「今の私たちはみんなあいつが作り上げた幻なんです。本当の先輩はとっくに大学を卒業していて大学図書館の司書をしている社会人です。井上先輩は警察官をしてますし、トモちゃん先輩なんて結婚までしてるんですよ? 今のオカルトサークルに先輩たちはもういなくて、現役なのは私と璃々佳ちゃんだけです。康一先輩だけはOBとしてたまに顔を出したりしますけど、私が部長であとは女の子たちばっかりです。先輩は私を助けてくれて、オカルトのいろはを手取り足取り教えてくれた恩人なんです。私が困った目に遭うと必ず助けてくれるヒーローみたいな人で……」
「……」
「でもそのせいで、一度は消すことができた狐宮由花子を甦らせてしまったんです。だから、先輩の今の状態は私のせいで。なので私はどんな手を使ってでも先輩を助けてあげないといけないんです。目を覚ましてください」
「……」
「先輩、元に戻ってくれましたか?」
「……君は――」
康一はしばらく黙っていた。
そして口を開いたかと思うと大きな笑い声をあげた。
「あはははは。駄目だ。乗っかろうと思ったが、面白すぎだろ!」
「先輩?」
「おまえもたまには面白いこと言ったりするんだな」
康一は笑いすぎて溢れてきた涙を拭っていた。
「しかもギリギリなネタをぶっこんでくるな。由花子さんが聞いたら怒るかどうかかなり危ういラインだ」
「先輩、そうじゃなくてですね――」
「そういう面を俺だけじゃなくて、ちゃんと周りの奴らにも見せてやったほうがいいと思うぞ。いっつもムスっとしてるんじゃなくてさ」
「いや、だからちがくて……。そりゃあ、私は無愛想で可愛くないですけど、それとこれとは――」
笑っていた康一が急に真剣な口調に変わった。
「そうやって自分を卑下するな。悪い癖だぞ。ぶっちゃけるが、初めて君を見たときはあまりに可愛くてビビったくらいだからな」
「……可愛いですか?」
「可愛いだろ。ぶっちぎりで。見た目はどっちかっつーと綺麗って感じだけどな」
「そんなこと言われたことありませんし」
「まぁ、そういうこと言いづらい雰囲気はあるんだよな。なまじ物腰がカッコイイだけに」
「どうしたんですか先輩。いきなり……」
路希は困惑を隠せなかった。
これこそなにかの冗談で言っているのかと疑った。
しかし康一はまったく笑いもせずに真剣な物言いを続けていた。
「俺はな、真面目に君のことが心配で言ってやってるんだぞ。君が可愛いくないなら、たいていの女子はみんなブスだぞ。もう二十歳超えてんだからいい加減に、自分の容姿のレベルくらい正確に把握しとけ。敵を作るぞ」
「……でも見た目が整ってるってだけで、可愛くはないでしょう? 背ぇ高いし。女っぽくないし」
「いや可愛いし、おまえは女っぽいと思うよ。俺は」
「ちょ、そろそろ勘弁してください」
康一は路希の訴えを聞く素振りも見せなかった。
むしろまくしたてるように路希の魅力を語った。
「綺麗すぎてちょっと近寄りがたいけど話すとよく笑うし。賢そうだけどなんでもすぐ信じるし。冷たそうだけどすぐ情に流されるし。強そうだけどわりとよく泣くし。美人なのにやたらガード甘いし。あぶなっかしーし。お茶目だし。見た目は一匹狼って感じだだが、実際のところ中身は子犬みたいな奴だよ。君は」
「……」
「一番可愛いのは、こうやって褒めるとすぐ照れるところだよな」
「や、やめて……ください」
ついに路希は立っていることもできなくなった。
その場にしゃがみ込んで顔を隠すようにして膝を抱えて俯いた。
「どんだけ耐性ないんだよ。おまえ……」
「……ちょっと、本当に……すみません」
走ってもいないのに動悸が激しくなっていた。
自分の顔が紅潮していることが手に取るようにわかった。
だが問題なのは顔の赤さではなく緩みっぱなしの口元だった。
どんなことがあろうとこんな顔を見られるわけにはいかなかった。
ましてや康一にはなおさらのことだった。
一方で康一は大きなため息をついて呆れていた。
「自信を持てって。おまえに惚れられる奴が羨ましいぞ俺は」
「……本当ですか」
路希の顔は伏せたままだった。
「嘘じゃない」
「……」
「もし、由花子さんがいなかったら、絶対に俺は口説くだろう」
路希は立ち上がった。その表情に緩んだところはどこにもなかった。
「そうですか」
「ああ、まちがいない」
「嬉しいです。ありがとうございます先輩」
「ああ、俺なんかに口説かれてもまったく自慢にならんがな」
「そうかもしれませんね」
路希はくすくすと笑った。
それから二人は黙って廃ホテルを歩き続けた。
◆
合流場所に着くなり璃々佳が駆け寄ってきた。
「なにもされませんでしたか!? ヤマーさん!」
「おい、せめて俺に聞こえないような配慮くらいしろ」
璃々佳は無言であっちに行けと康一にハンドサインを送った。
康一は怒りを通り越して呆れているようだった。
「君のそういう一貫したふてぶてしい態度、俺は嫌いじゃないぜ」
捨てゼリフらしきものを吐きつつ喧嘩にならないうちに康一は璃々佳たちから離れた。
「どうしましたヤマーさん。ずっと黙ってますけど、やっぱりなにかされたんですか?」
「……ん。いや、なにもされなかったよ。なんにもなかった」
「良かったぁ」
「なんにもね……」
「あれ? やっぱり元気ありませんね」
「そんなことないって。それより――」
先に着いていた由花子を警戒しながら路希は璃々佳に耳打ちした。
「璃々佳ちゃんのほうこそ、もう目は覚めた?」
「はい?」
「狐宮由花子がみんなを化かしてるってこと」
璃々佳は路希の発言に驚いている様子だった。
「やっぱり、まだ目は覚めてないのかな?」
「え、ええ。そうですよね。みんなあいつに騙されてるんです」
「そうだよね! 良かった、やっとわかってくれる人がいて!」
「それで……その、ヤマーさんは由花子さんをどうするつもりなんですか」
「ちゃんと考えてあるよ」
路希は背中に手を伸ばして短剣を取り出した。
鞘に収まってはいるがそれがなんなのか、璃々佳にもすぐわかった。
「ちょっとヤマーさん! まずいですって」
「あ、そうだよね。こんなものを持っているのがバレたらまずいもんね」
由花子は少し離れた位置にいた。
そこから見えないように身体の陰へと路希は短剣を忍ばせた。
璃々佳はとにかく焦っていた。
短剣を握る路希の手を上から握りしめていた。
「絶対に私以外の人に見せちゃ駄目ですからね! これ!」
「もちろん。わかってるよ」
璃々佳に促される形で路希は短剣をしまった。
「ヤマーさんって、たまに冗談きついですよね」
「そうかな?」
いや、そうかもしれない。
だって狐宮由花子を退治できるのは私しかいないのだから。
璃々佳ちゃんが目を覚ましてくれていたことが嬉しくて舞い上がっていたのかもしれない。
璃々佳ちゃんは霊感に乏しい。
狐宮由花子に対処できるのは私だけだ。
なのに唯一の武器をひけらかすなんて冗談が過ぎる。
「ごめんね璃々佳ちゃん。ちょっとふざけすぎたよ」
路希が笑うと璃々佳もつられて笑った。
私が殺らなきゃいけないんだ。