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玖 『トゥルパ』 3/10

 先輩がたは驚くこともなく、黙って頷いた。

 それもそのはずで、トゥルパについてネットで軽く調べれば、これくらいのことはすぐに出てくるからだ。


 けれど、そもそもの話。

 それができたら苦労はしないということでもある。


 もともとトゥルパは暴走しやすい。

 創造主の心理状態の影響を強く受けやすく、一度でもトゥルパに対して負のイメージをもってしまうと簡単に増幅してしまう。

 先輩ほどのケースは稀だと思うが、トゥルパは通常、その制作の過程で安全装置を設定する。


「ちゃんと設定はしてると思うんだよねー。変なところで真面目だし、そういうところで手を抜く奴じゃないからー」


 トモちゃん先輩の言うとおりだとは思う。

 先輩は人間的にはクソッタレだが、これと決めたことに関しては真剣になる人だ。

 もっともそれが良いところなのか悪いところなのか、判断が難しくもあるが。


「けど……消すなんてことをしますかね? だって、先輩はどんなにボロボロになっても狐宮由花子を消そうとはしなかったんでしょう?」

「望みは薄い。あいつは自分のトゥルパにぞっこんだからな」


 漠然と感じてはいても意識したくなかった事実を、井上先輩ははっきりと断言した。


「トゥルパを創造しようとするほとんどの奴がそうだろう。それはそいつにとっての一つの理想だ」

「恋は盲目とはよく言ったものだよねー。だからこの問題はさー。タチの悪い女に誑かされている友人の目を、いかに覚ますかって話でもあるんだよねー」


 トモちゃん先輩の発言で一気に陳腐化した気もするが、あながちまちがいでもないというか、本質をついているのが笑えない。


「先輩はなんであんなものを作ったんでしょうか?」

「目的なんてないと思うがな。さっきも言ったが作れるから作った、あいつは昔からそういうやつだ。大金を得たと言ったが、それもあいつからしてみれば落ちてたから拾ったみたいなもんだろう。手段のためなら目的なんてどうだっていいんだ」

「本当にそうですか?」

「なんか心当たりでもあるのー?」

「いや……なんとなく、そんな気がするというか。昔はそうだったのかもしれませんけど、今の先輩はちゃんと目的がありそうというか……」


 出会ったばかりの頃、先輩が口にしてくれた言葉がある。

 今から思えば、それが内心をほとんど明かそうとしない先輩が教えてくれた、唯一の目的というか、夢だったのかもしれない。


「幽闇の場所の話か?」

「知ってるんですね」


 井上先輩は首を縦に振りつつも、視線は記憶を探るように泳いでいる。

 かろうじて覚えているといったレベルのようだ。


「それを耳にしたこともあるにはあるが……あいつがおかしくなってた頃の話だからまともに聞いてなかったぞ俺は」

「どんなことを話してました?」


 井上先輩はそれが今回のことと関係があるのか困惑しているようだったが、昔のことを思い出してくれた。


「元の話が支離滅裂だったから詳細はわからんが……俺の解釈でまとめるなら、幽闇の場所っていうのは空間のトゥルパということになるだろう」

「空間のトゥルパ?」

「トゥルパってのは成長していくと、固有の空間を持つようになるんだ。トゥルパのテリトリーみたいなもんだな。仏教における仏様の世界を表した曼陀羅を考えてもらえればわかりやすい。結界や神域の上位概念みたいなものだと俺は捉えてるがな」

「そこへ行きたいって先輩は言ってませんでしたか?」

「言ってたような気もするが……そんなところに行ってどうするんだって話だろ。誰かが待ってるわけでもなし……」

「それもそうですけど……」


 直接的に今回の件で役に立つことはないかもしれないが、先輩がトゥルパを作った真の理由というのはそこにあるような気がしてならない。

 それがわかれば、きっとトゥルパを消すヒントになるのではないだろうか。


 けれど、井上先輩の話しぶりでは結局それも先輩の中にしかなさそうだった。

 開けたい箱の鍵がその中にしまわれているようなもので、手の打ちようがない。


「とにかく、あいつを見かけたらどんなことをしてでも見失うな。ソッコーで俺に報告してくれ。普通の人間じゃもはや太刀打ちできないだろうからな」


 きっと井上先輩はもう一度、悪魔祓いならぬトゥルパ祓いをするつもりなのだろう。


 井上先輩のその提案で、今夜はお開きとなった。







 一月の下旬から行方不明だった先輩が発見されたのは、遠く北海道の函館駅、すべてを白さの中へと埋もれさせる吹雪のホームでのことだった。


 井上先輩が迎えに行ったのだが、それはそれは酷い有様だったらしい。


 久しぶりに先輩を見て、井上先輩の脳裏に浮かんできた言葉をそのまま伝えるならば、廃人というものになる。


 黒ずんでところどころほつれて破けている服、靴は片方だけしかなく、靴下とも言えないようなぼろきれをまとって生傷と凍傷にさらされた足。

 皮脂まみれの髪と髭は伸びっぱなしで、玉手箱でも開けたように二十年も老け込んでしまったように見える。

 どちらかと言えば色白だったはずなのに、肌は垢と日焼けですっかり黒ずんでいた。


 人相もすっかり変わってしまって、道ですれちがったとしても気づくことなんてできっこない。


 あの冷静でいて嫌味ったらしい微笑みなんてどこにもなくて、子供のような屈託のない笑顔を、いつまでも顔に張り付けている。

 ボサボサの髪の毛の奥で、両の瞳は水に浮かべたビー玉みたいにキラキラしていていた。


 そして、いつまでもぼそぼそと独り言をつぶやくのを止めない。

 なにを言っているのかなんて聞き取れないし、聞き取れても支離滅裂で意味が分からない。


 ただ一つ、意味不明な呪文の端々に、あいつの名前が繰り返されていく。


「由花子さん――由花子さん――由花子さん――」と。


 戻ってきた先輩は精神病院へと即入院が決まった。


 だが話はここで終わらない。


 先輩が入院してきてからというもの、病院内での怪現象――ポルターガイストやラップ現象――が爆発的に増えた。

 他の患者さんたちの挙動も変わってしまったと聞く。


 といっても暴れるようになったとかではなく、その逆でとても静かになったらしい。

 精神病院に足を運ぶことは今回が初めてだったので普段のことは知らないが、それは異様な光景だった。


 まるでライオンが過ぎ去るのを息を潜めて待つウサギたちのように、怯えているようにすら見えた。


 当の先輩はいつまでも眠ったままで、一日の内で起きている時間はトータルで三時間ていどしかない。


 寝言もつぶやかず、寝返りの一つも打たず、死んだように寝息を立てている。

 運良くお見舞い中に起床していたとしても、やっぱり起きてるんだか寝てるんだかよくわからない状態がほとんどだった。


 あんな状態の先輩が、ほぼ牢獄といえるあの病棟から脱走するなんて想像がつかなかった。

 脱走してからの生活なんてもってのほかだ。

 どう考えても野垂れ死ぬ未来しか思いつかない。


 居ても立ってもいられないというのが本音で、できることなら無闇やたらに走り回って先輩を捜したい。


 けれどそんなことをするよりも、先輩が最も気に入っていたこの部室で待ち続けるのがきっと一番なはずだった。


 一月に先輩が行方不明になってからというもの、先述の理由から部室で過ごすことが多くなった。

 授業以外の時間はほとんどこの部屋で過ごす。

 春休みに入ってからはほぼ一日中ここに入り浸っていた。


 これも諸先輩がたの薫陶の賜物と言える。


 曰く付きの骨董品ばかりが置いてあるこの部室だが、先輩と出会った頃には一時間といられないほどの霊障に悩まされたものだった。


 それはとあるマンガの言葉を借りれば、極寒の中に裸でいるのになぜ寒いのかわからない、という状態だったのだろう。


 今はちゃんとした霊的な防御方法を身につけている。


 自主練の甲斐もあって基礎力も上がっているのだろうし、なにより井上先輩や書籍から破邪や退魔の技術を学べたところが大きいのだろう。

 それなりに練習は必要なものの、呼吸や歩き方一つで悪いものからちゃんと身を守ることができるのだ。

 魔術の歴史は人類の文化の歴史でもあるが、その積み重ねは伊達ではない。


 部室には先輩が集めたオカルト関連の書籍が大量に蔵書されており、そういった技術や知識を習得するのにはうってつけだった。

 蔵書されている本は比較的新しいものから、丁重に扱わねば崩れてしまいそうな古書まで幅広くあり、おそらく資料的な価値はかなり高いのではないかと思われる。


 以前は入っただけで体調を崩すこの部室が苦手でしょうがなかったが、こうして古書の匂いに包まれつつ、ヒリついた刺激にさらされながら魔導書を読んでいると、自分の中に霊的な力が静かに満ちていくように感じられて心地が良い。

 こんな部室に入り浸る先輩を筋金入りの変態だと出会った当初は思ったものだが、最近は趣味のいい部屋だとすら思うのだった。


 書棚の中にトゥルパに関する書籍がまったく見あたらないのは井上先輩が捨ててしまったからだが、勉強するのに適した本を数冊貸してもらえたので、最近はそればかり読んでいた。


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