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捌 『てるてる団地』 10/10

 ハッとした。


 手をいったん止めて、居間に戻るがどれだけ見回してもベランダなんてなかった。

 部屋の奥には大きめな窓があるだけだ。

 開けて外を見ると、厚い雲が立ちこめる灰色の空が広がっていた。


「ヤマーさん?」

「ごめん。まだ寝ぼけてるみたい。今日はまだ部屋でおとなしくしてるよ」


 不安そうにしていた璃々佳ちゃんだったが、その一言を聞いて少しはほっとしてくれたようだった。


 キッチンに戻ると、そこには三つのマグカップがあった。


 二つにはコーヒーが注がれ、一つにはジンジャーバターココア。


 少し考えてから、璃々佳ちゃんに尋ねた。


「コーヒーとココア、どっちが飲みたい?」

「うーん。ココアがいいですねー、あれ? コーヒー二杯も飲むんですか?」

「うん。もういいかげん、寝ぼけてもられないからね」


 そう言って、コーヒーを二杯とも飲み干してしまう。


 砂糖もミルクも入っていない黒い液体の苦みは、頭の中に残っていた夢魔の残滓を追い払っていく。


 知るだけで障るものがこの世にはあると、井上先輩は言っていた。

 ならばそれは逆に、知られるだけで障ってしまうということでもある。


 忘れてしまうべき、なんだろう。


 それがあの子のためにできる唯一のことなんだ。


「どうしたんです? 窓のほうばっかり見て」

「いや……なんでもない」







「今から一五年前、あの部屋に住んでいた男が首を吊っている。それがおそらく、てるてる団地での最初の首吊りになるだろう」


 三日後、井上先輩とトモちゃん先輩に大学前のバーへ集まってもらった。

 先輩にも声をかけてみたが、やっぱり返事はなくて今日は不在である。


 今回の件で二人には丁重にお礼をしてから、杯を傾ける。


 つまみが運ばれて徐々に酔いがまわり始める頃、井上先輩はてるてる団地の補足情報を訥々と語りだした。


 いつ切り出すべきか、ずっとタイミングを計っていたのだろう。


 でもそれは、井上先輩だけに限った話じゃない


「その人には子供がいませんでしたか? 小学校に上がる前くらいの小さな男の子が」


 予想外だったのだろう。井上先輩は目を丸くして驚いていた。


「よく知ってるな」

「事故死……あるいは、殺されてませんか?」


 井上先輩はどちらでもないと、首を横に振った。


「行方不明になっているんだ」

「行方不明?」

「男が働いているあいだはずっと留守番をしていたらしいんだが、ある日男が帰ってくると、どこにもいなくなっていたそうだ。捜索願いが出ている」

「……」

「男は子供が行方不明になったことがショックで首を吊ったという話だ。奥さんには逃げられ、子供もいなくなり、職も失い、酒ばかり飲んでいる人生が、すべてどうでもよくなったそうだ」

「なんかまるで誰かが聞いてきたような語り口ですねー」


 さっきからあった違和感の正体を、トモちゃん先輩がずばりと暴く。


「そりゃそうだ。実際に男から調書を取ってるんだからな」


 どういうことだ? だって男は首を吊ったんじゃなかったか。

 死人から調書なんてとれるはずもない。

 周辺住人からの証言だろうか?


 だが、話はもっともっと単純だった。


「生きてたんだよ男は。首を吊ったはいいが、使った電源コードが体重に耐えられなかったらしい。下に落ちて大怪我してるところを通報されたってわけだ」

「……」


 やるせない気持ちになった。

 怒りといってもいい。

 爪が食い込んで痛むのをかまわず、拳を思い切り握り込んでいる自分に気づかされる。


「子供は、見つかったんですか」

「いいや。見つかっていない。たぶんこれからも」


 その物言いから、井上先輩もなんとなく察しているような気がした。

 けれど、この話はもうこれでおしまいだ。

 自分が経験したことを話すつもりにはなれなかった。


「今回は本当にご迷惑をおかけしてすいませんでした。助けてもらってありがとうございます」

「いいっていいって、昔を思い出してちょっと懐かしかったしな」


 井上先輩もやや強引に笑顔を繕う。

 そしてそれ以上、今回のことを詮索しようとはしない。


 それはトモちゃん先輩も同じだった。


「私もですー。社会人になってからは生ぬるい毎日を送ってますからねー」


 二人は改めて互いのジョッキをぶつけると、一気にビールを流し込んで早くも二杯目を注文した。


「それで、路希ちゃんはあいつのどこが好きなの?」


 マスターがすぐに二杯目を持ってきてくれたのを皮切りに、井上先輩は矛先をこちらに向けてきた。


「な、なんの話ですか」

「康一のことだよ。だって好きでしょ。あいつのことを話すときだけやたら楽しそうだし」


 トモちゃん先輩も足をぱたつかせて楽しそうに乗っかってくる。


「応援しちゃうよー私たちはー」

「あいつの変人ぶりを知ってもなお好きでいる女の子なんて超レアだからな。あいつにはオカルトより可愛い彼女が必要だ」

「うっ……だから」

「あれ、好きじゃないのー?」

「いや……そのですね――」


 と言葉を濁していると、井上先輩は机にドカっと頭をぶつけて頭を下げてきた。


「だったら俺と付き合ってください!」

「うわ! え……う、いや……ごめんなさい」


 気がつけば反射的にフっていた。


「引いてる引いてる! 路希ちゃん引いてますよー!」

「あー、結婚してーなー」

「まぁまぁ」

「結婚とか……実際どうすか、黛さん」

「マジ楽しーっす」


 トモちゃん先輩は満面の笑顔で左手の薬指を見せつける。

 手にはシルバーの結婚指輪が輝いていた。


「じゃあ離婚して俺と結婚しよ?」


 次の瞬間、トモちゃん先輩は笑顔のままで左手を握り込み、井上先輩の横っつらにグーパンをお見舞いした。


 とは言っても、もちろん本気ではない。


 井上先輩はそれでも大袈裟に頬をさすりながらも、まだ食い下がっていた。


「くっそー、本当に俺じゃ駄目? これでも公務員でそこそこ稼ぎはあるし、専業主婦でも全然オッケーです」

「井上さん、路希ちゃん引いてますって。応援するって言ったばかりじゃないすかー」

「そうだけどさー。なんつーかこう……あいつが妬ましい」

「そういうとこ相変わらず素直ですよねー」

「こんな可愛い子はあいつにはもったいないって! 世の中おかしいって!」

「だから本音がだだ漏れですって、今度また女の子紹介してあげますから」


 トモちゃん先輩は精一杯手を伸ばして、井上先輩の肩をぽんぽんと叩いて励ます。


「ありがとう、マイキューピッド」

「いえいえ」

「……」


 ここまでの一連の流れはまったくもってスムーズで、どんな言葉よりも二人の付き合いの長さがよくわかった。


 本当に仲いいんだなこの二人……。


「そっか、じゃあ私が路希ちゃんを呼ぶんで井上さんは康一を呼んでくださいよー。そんで無理矢理デートさせればいいのでわー」

「あー楽しそうでいいなそれ。俺たちで観戦できるところが特に」

「いやいやいやいや、観戦って!?」


 そう言うと、先輩方は愉快そうに笑ってくれた。けっこう学年は離れているけれど、こうして笑ってくれたことで私も二人の仲の良さに混じれた気がして嬉しい。


 思えば、最近は先輩ともお酒を飲んでいないので、こうした砕けた雰囲気の飲み会は久しぶりだった。


「それにデートなんてできませんよ」

「えーなんでよー」

「だって、先輩には狐宮さんというかたがいますから」

「「……」」


 水を打ったように二人は突然黙った。


「今、なんて言った?」

「狐宮って、狐宮由花子のことじゃないよねー?」


 口にするのも汚らわしいという感じで、トモちゃん先輩はその名を出す。


「は、はい。このサークルのOGだって聞きましたけど」

「もしかして、康一から聞いたのか?」

「ええ、まぁ。先輩方も狐宮さんのことは知ってるんですよね。オカサーの部長を務めていたと聞きましたけど……」

「「……」」


 二人は再度、黙って顔を見合わせる。


「正直に答えてねー、路希ちゃん。今回の件、ひょっとして康一も一枚噛んでたりする?」


 どれが夢だったのか、非常に曖昧で区別がつかないのが正直なところだったが、先輩のお世話にはなっているような気はする。


「ええ、あれは井上先輩とトモちゃん先輩が呼んでくれたんじゃなかったんですか?」

「ちがうねー。私たちはどんなに探しても捕まえられなかったんだよー。どうやって今回のことを知ったんだか……」

「あと、これは夢の中の話だとは思うんですけど……狐宮さんにもお世話になってます。たぶん……」


 自信のないふんわりとした夢の情報を喋っただけなのに、それでもう十分だと井上先輩は掌を見せて話を遮った。


 そして、一度息を呑んでから、あまりにも不可解な事実を口にした。


「狐宮由花子という人間が、オカサーにいたことはない」

「もう大丈夫だと思ってたのに……。いつから? いったいいつから康一はアレの名前を口に出してたのー?」

「えっと、二ヶ月くらい前から……かな」

「うー」


 トモちゃん先輩は眉間に人差し指を当てて、唸り声を上げる。


「いたことがないってどういうことですか?」

「そのままの意味だ。そんな人間は存在しない。康一の頭の中だけしか」

「それってどういう……でも、見たことだってありますよ。すらっとしてて手足が長くて、顔立ちも整っていて、亜麻色の髪をしていて――」

「本当に帰ってきたのか……」


 井上先輩も頭を抱えてうつむいている。


 いったい何だって言うんだ。

 そんなに問題があることなのか?

 ていうかいないってどういうことだ?


「そんな……いや、写真があったでしょう!?」

「これのことか」


 井上先輩は携帯をいじって一枚の写真を見せてくれた。


 それは以前、先輩に見せてもらった狐宮由花子が写っている卒業式の集合写真だった。それにまちがいはない。


 けれども、そこに狐宮由花子の姿はどこにもいなかった。


「うわ……」


 気味が悪くて、思わず携帯をテーブルの上に落としてしまった。

 由花子がいたはずの場所には誰もいなかった。


「なんなんですかこれ……? 狐宮由花子って、先輩のなんなんです?」


 井上先輩は一度大きく身震いしてから、その正体を口にした。


「アレは、幽霊なんかじゃない。もちろん人間でもない。河野康一が作り出した。最凶最悪の人工聖霊、いわゆる――トゥルパだ」


 先輩に捜索願が出されたのは、その翌日のことだった。




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