捌 『てるてる団地』 9/10
◆
……。
…………。
「………………ん」
誰に起こされるでもなく、自然と目が覚めた。
時計を見ると、ちょうど陽が昇り始めたくらいの時間だった。
一人暮らしの真冬の朝は、あくびをすると呼気を白く染めあげていく。
先輩はもう帰ってしまったようだ。
わかってはいたが、一縷の望みを託して自分の着衣や身体になにかしら変化がないか入念に確認してみる。
でもって、そこにはなんの変化もないわけで……。
あれでもがんばって誘惑したつもりだったわけで……。
眠りに落ちる直前のことを思い出して、今さらのことながら恥ずかしくなってきた。
「うーあー」と言いながら枕に顔を埋めて足をばたつかせる。
据え膳食わぬは武士の恥と男子のあいだでは言うらしいが、これは要するに、私は据え膳に見えないということか。
なんか調子に乗って一人で盛り上がってしまったバツの悪さが、私を激しく責め立ててくる。
しばし悶絶ののち、気を取り直して起床した。
カーテンを開けると朝陽が差し込み、次の瞬間に目に入ってきたのは一面の銀世界だった。
窓を開けると、寒いと思っていた室内がまだ温く感じられるほどの刺すような冷気が吹き込んできた。
足跡がしっかり残るほど積もっていて、街が一晩で砂糖菓子に支配されたような、そんな光景が広がっている。
街の白さとは対照的に、もうすっかり晴れていた。
空は果てしなく青く、雲の一つも見あたらない。
伸びをしながら冷たい空気を胸一杯に吸い込むと、自分が身体の内から生まれ変わっていくような清々しい気持ちになる。
どれくらいの時間が経ったのか、詳しくはわからなかったが、しばらくぶりにゆっくりと眠ることができた。
とは言っても、まだ眠気は残っているが、あの吐き気や頭痛はもうどこにもない。
「ふへあー」と、大きなあくびが出る。
寒さにかまけて二度寝をしてしまおうと窓を閉める。
と、窓を閉める直前にベランダに見慣れないものがあることに気がついた。
不自然に雪が降り積もっている箇所が足下にある。
手で雪を払って、その下にあるものを見た。
そこには、純白の雪よりも冷たくなっている諒くんがいた。
飴細工のように華奢な身体をベランダに横たわらせ、すっかり砂糖漬けになっている。
唇や頬の赤みはどこにもなく、降りしきる砂糖に埋もれて真っ白になっていた。
うっすらと瞼を開けてはいるものの、あのくりくりとした瞳はなにも映してはいない。
心臓が大きく跳ねた。
胸には心が圧壊してしまうような罪悪感と、焼き殺されてしまいそうな焦燥感。
ふと、空の青さが視界に入る。
空はどこまでも青いままで、赤みや黒さなんてどこにも見あたらない。
突然、その青さが滲む。
涙のせいだ。
どうしてこんなことをしているんだ。
なんでこうなってしまったんだ。
おかしいじゃないか、だって……処理したはずじゃないか。
いつのまにか両手は鮮烈な赤ではなくギュッルルルッッッッッルッルルルッルルルルルッルルギュルルルルル鈍く光を返す黒ずんだ赤に染められているギュルギュルルルギュグッグワアアアアアアアドロドロドロドロフワフワボトボトトボト……ギュッルル鼻腔には鉄のにおいだけがありルッッッッッルッルルルッルルルルルッルルギュルルルルルギュルギュルルルギュグッグワアアアアアアアドロドロドロドロそれ以外のにおいなんてこの世界にはなかったフワフワボトボトトボト……ギュ繰り返しッルルルッッッッッルッルルルッルルル繰り返しルルッルルギュルルルルルギュルギュルルルギュグッグワアアアアア巻き戻しては再生される光景と音声にアアドロドロドロドロフワフワボトボトトボト……目が眩む。
おかしい。
こんなこと、あっていいはずがない。
なんで諒がここにいる。
だって、俺がすべて消したはずだろう……。
「あああああああ……」
わかってる。
本当はここに諒なんていない。
これはただの幻、自分のなけなしの良心がこれを見せているんだということは。
わかってたことだ。
こんなこと、許されていいわけがないんだから。
ここまでやって、なにを今さら。
もうなにをしたって取り返しなんてつかないんだ。
もう駄目だ……耐えられるわけがない。
ベランダに積もった雪の上に一歩踏み出ると、素足には画鋲を踏み抜いたような冷たさが走る。
手すりにはロープが結わえられていて、その先には丸い輪があった。
このロープの太さならば、切れることもないだろう。
輪を首に通して、ベランダの向こう側へ、澄み切った青空の世界へ。
「ごめん……諒」
最期の最期、無意識に謝罪の言葉がついて出た。
今まで一度も頭をよぎらなかった言葉だ。
どこまでも愚かで自分勝手だった一生に思わず笑ってから、果てしない青空へ向かって、飛ぶ。
「ちょい待ち」
手すりに足をかけたところで、いきなり襟首を捕まれて、そのまま後方へ引き倒される。
誰だ。
駄目なんだ。
もうこの部屋にいたくなんてない。
この世界に居場所はない。
だから行かせてくれ。
向こうの世界に!
顔を上げると、そこには女の後ろ姿があった。
亜麻色の長い髪をした女だ。
「どうやら優しすぎるようだね。山岸路希さんは」
名前が呼ばれると暗闇の中に火が灯ったかのように、罪悪感と焦燥感に覆われていた私の意識がふっと軽くなった。
「人間一人が背負えるものは、ごくごくわずかしかないって学校で教わらなかった?」
「……」
亜麻色の髪の女はこちらへ振り返るが、こちらからでは逆光になっていて顔がわからない。
「君にその子は救えない。でもそれは君が非力で貧弱だからというわけじゃない。そもそも人は人を救えないから」
「魔女のお姉ちゃん」と、部屋の真ん中で座り込んでいたところへ、諒くんが抱きついてきた。
諒くんの小さな身体は凍えるようにガタガタと震えており、その尋常でない怯えはすぐにわかった。
「山岸路希さん」
「はい」
「山岸路希さんだよね。あなたは」
「そうですけど……」
「そうだよね山岸路希さん。自分の名前を覚えるのは苦手かもしれないけど、忘れないようにしなきゃ」
なにを言っているんだこの人は?
自分の名前を覚えるのが苦手な人間なんているわけがないじゃないか。
怯えきっている諒くんを抱き寄せて、突如現れた正体不明の女の視線から庇う。
「なんで僕だけがこんな目に会うの?」
諒くんの問いがなにを指してのことなのかわからなかったが、もしかすると、この女のことを知っているのかもしれない。
とにかく励まさなければと口を開く前に、亜麻色の髪の女の声がした。
「君の人生はハズレだったんだよ。理由なんてない。運が悪かった。それだけのこと」
「神さまがそう決めたってこと?」
「神さまなんてどこにもいないよ。仮にいたとしても、神さまは私たち一人一人のことなんて見てないと思うし」
「そんなわけない……」
「そんなもんなんだよ。人生ほどくだらないものなんてない。人間一人の一生なんて、神さまにとってはあってもなくてもいいようなものなんだ」
「ちょっと、あなた――」と大人げなく諒くんを責め立てているこの女に食ってかかろうとするが、よほど悔しかったのだろう。
あれほど怯えていた諒くんは私の腕から離れて、一人で立ち向かっていった。
「ちがうもん! そんなわけないもん!」
亜麻色の髪の女はいつのまにか、部屋の中に入ってきていた。
その顔を見て、私は短く悲鳴をあげる。
女には顔がなかった。
逆光で見えなかったわけではなくて、顔の部分が黒く塗りつぶされていて、目や鼻や口はどこにもない。
けれど、声だけははっきりと聞こえた。
「君はいい子なんだね、名前は……諒くんだっけ?」
「うん……」
「諒くん。君はもう、そんな真面目に苦しまなくてもいいんだよ」
諒くんは逃げずに女とにらみ合っている。
「人生なんて、なにも貴重じゃないし、素晴らしくもない。ただ退屈なだけだから。だから、そんなに嘆くことはないんだよ」
「そんなこと言われても、納得できない! ずるいよ! どうして僕ばっかり! ずるいよ!」
癇癪と言ってもいいほどの大声で、諒くんは叫んでいた。
地団太を踏みながら、目には涙すら浮かべている。
女はしばらく黙ったままだったが、騒いでいる諒くんの頭部に手を伸ばす。
殴られると思ったのか、諒くんはビクッと身体を硬直させた。
「終わってるんだよ、とっくに。だから……もう苦しいのも終わり」
女は伸ばした手で、優しくぽんぽんと諒くんの頭頂部を叩いて言った。
「おやすみなさい、諒くん」
諒くんは身をよじってこちらへ振り向こうとするが、もう間に合わなかった。
「――!」
最期になにか大声で叫んだように見えたが、声はこちらへ届く前に掻き消えてしまった。
同時に諒くんの姿が半透明になったかと思うと、ふっといなくなってしまう。
「こんにちは」
呆然と座り込んでいると、すぐ目の前までそいつはやってきていた。
「こうして話すのは初めてかな、山岸路希さん」
女は立っているために私を見下ろす形になっていた。
なので、こいつの足しか視界には入っていない。
「自己紹介をしてあげよう。私は君の先輩である河野康一の奴隷であり――飼い主」
覚悟を決めて、顔を上げる。
「名前を、狐宮由花子という」
黒く塗りつぶされていたはずの場所に、顔があった。
その顔は三日月のように口を歪ませて愉快そうに、不吉に笑う。
けらけらげらげらけらげらけらげらけらけらげらげらけらげらけらげらけらけらげらげらけらげらけらげら――鼓膜を突き抜けて頭の奥へと、どこまでも反響していく笑い声に耐えられず、自ら大声を張り上げる。
そこで、私はようやく目が覚めた。
「わああああ!」
「きゃあああ! びっくりしたー!」
布団をはねのけて飛び起きると、そばに璃々佳ちゃんがいた。
「どうしました? すっごいうなされてましたけど……」
自分でも顔から血の気が引いているのがわかった。寝汗で服がびっしょりと濡れており、しつこく残る悪夢の恐怖とともに全身にまとわりついてくる。
部屋を見回してみても、璃々佳ちゃん以外に人影はないが、なかなか気持ちを落ち着けることができなかった。
「あいつがもう大丈夫と言ってたので見に来たんですけど……やっぱりまだ調子が悪いんですか?」
璃々佳ちゃんの言うあいつというのは先輩のことだろう。
自分でもいったいどこからどこまでが夢なのか判然としない。
「でも、どうやって入ったの?」
「やだなぁ忘れたんですか? いざというときは私やあいつが中に入れるように合い鍵を渡してくれてたじゃないですか」
「そうだっけ?」
まったく思い出せない。
「そうですよ。ほらこれがその鍵です」
璃々佳ちゃんは私に合い鍵を見せてくれると、それを枕元に置いてくれた。
「でも良かった、だいぶしっかりしてきたみたいで」
「ほとんど覚えてないんだけど……、そんなに酷かったの?」
「すごかったですよ。話しかけてもほとんど反応がなくて、起きてるんだか眠ってるんだかわからないし、起きたかと思えば支離滅裂だしで」
どうやら、璃々佳ちゃんや先輩にはまたもや多大な迷惑をかけてしまったようだ。
「ごめんね。たくさん迷惑をかけちゃって……」
「いいんですよヤマーさん! もっともーっと私を頼ってください。そのかわり――」
ベッドの上に腰掛けていると、璃々佳ちゃんは膝の上に頭を置いてきた。
「いっぱい誉めてくださいね!」
いつも通りの明るくて元気な璃々佳ちゃんと話すことで、ようやく自分が日常に戻ってこれたと実感できた。
リクエスト通り、たくさん璃々佳ちゃんを撫でくりまわしてからやっと起床する。
ひとまずは朝食だ。
気を利かせて璃々佳ちゃんがサンドイッチを買ってきてくれたので、飲み物を用意しにキッチンへ入る。
「そうだ。鍵は開いてるー?」
飲み物を作りながら、居間でテレビを見ている璃々佳ちゃんに呼びかける。
「鍵ってどこのです?」
「ベランダの鍵だよ」
「ベランダ? なに言ってるんです? このアパートにベランダなんてないですよ」