捌 『てるてる団地』 8/10
「え?」
驚いて振り向くと、そこにはいつのまにか先輩が立っていた。
いや、ちがう。
今さっき尋ねてきてくれたんだった。
こんな状況ではあるものの、一ヶ月以上ぶりの先輩との対面は素直に嬉しい。
「まったく、人がデートをすっぽかして来てやってるんだから、しっかりしろよ」
「……先輩もデートとかするんですね」
「馬鹿にするな。これでもお年頃の男の子だぞ俺は」
「知ってますよ。ごめんなさい、先輩」
お相手はどこの誰ですかと聞きたくなるが、寸前でそれを飲み込む。
藪蛇になってしまうかもしれない。
今のこのコンディションで下手に駆け引きなどしては地雷を踏んでしまいそうだった。
「まぁいいさ。気にするな。由花子さんならすぐに会えるしな」
埋まっていた地雷を掘り返されて投げつけられた。
「……」
「おい……どうした! なんで泣いてるんだ君は」
「へあ、ふぐぅ――すいません、なんだかやっぱり調子が悪くて情緒不安定なんです。せ、生理のときの、一〇〇倍くらい」
「一〇〇倍もか!」
すぐに駆け寄ってきてくれた先輩は、大きな骨ばった手でゆっくりと頭や背中を撫でてくれた。
暖かくて優しくて嬉しかった。
けれど、暖かくて優しくて嬉しいほど、涙は止まってくれそうになかった。
この人を独り占めにしたい。
暖かさも優しさも、心を満たしてくれる嬉しさも。
でも、それが叶わないことだと無言で諭されているようで、余計に悲しくなる。
「大丈夫。大丈夫ですから、ちょっと放っておいてください」
「いや、そういうわけにもいかないだろ」
「大丈夫ですからっ!!」
先輩はさっと手を引っ込める。
「あ、ごめんなさい……大声を出して。でも、大丈夫ですから、私のことは気にしないで、準備を進めてください」
「そうか……わかった。待ってろ。すぐに終わらせてやるから」
「よろしく、お願いします」
「その代わり、静かにおとなしくしていろ。いいな」
私がこくりと頷くと、先輩は準備を再開した。
ダッチワイフこそないものの、三ヶ月前のときと同じく、護摩に使う組み立て式の炉が用意され、炊かれたお香のにおいが部屋に満ちていく。
「面白いにおいだね。お姉ちゃん」
諒くんはベッドの上で寝転がりながらニコニコして面白がっていた。
「そうだね」
「お姉ちゃんはあの人のことが好きなんだよね」
「ちょ、なに言ってるのかな諒くん」
私は慌てて諒くんの口を塞いだ。
そっと先輩の様子をうかがうが、どうやらぶつぶつと陀羅尼を唱えている最中で聞こえていないようだった。
いつも大人しい諒くんだったが、イタズラっぽく笑っている。
「いいなぁ。お姉ちゃんは好きな人がいて」
「諒くんもそのうちきっとできるよ」
先輩の邪魔をしないように、ひそひそと声を顰める。
「僕は無理だよ」
「どうして?」
「だって、できないから」
「そんなことないよ。大きくなれば、きっとできるから」
「無理だよ。だって神さまがそう決めたんだもん」
「神様?」
「神さまがね。そういうのは駄目だって」
「そういうのってどういうの?」
「黙れよ」
聞いたことがないような声色に驚かされる。
先輩を見ると、キッと私を睨んでいた。
こんなに怒っている先輩は初めて見る。
「もう一度言う。静かにおとなしくしてろ。喋るな。いいな?」
「はい……」
メチャクチャ怒られた……。
また泣きたくなってくるが、静かにおとなしくしてろとのことなので、それもこらえる他ない。
「お姉ちゃんは好きな人がいていいなぁ」
「……」
「いいなぁ、いいなぁ、お姉ちゃんはいいなぁ」
「……」
「じゃあ僕はお姉ちゃんを好きになるね。いいでしょ? いいでしょ?」
「……」
それにも懲りず諒くんは小声で話しかけてくる。
唇に人差し指を当てて「静かに」とジェスチャーしてみるが、効果はない。
致しかたない。
ちょっと冷たい気もするが、諒くんをベッドの上から引っ張り起こして、ベランダから外に出す。
外気は凍てつくように寒く、空は灰色の分厚い雲が覆っていた。
よくよく目を凝らすと、うっすらと白い切片が空から降りてきている。
「なんで僕だけ――なの?」
だいぶ良心が痛んだが、諒くんを外に出して窓を施錠する。
こうすれば、少なくとも今日はおとなしく自分の部屋に帰ってくれるだろう。
ごめんよ、諒くん。
そうして、またしばらくおとなしくしていると、先輩が手のひらにすっぽりと収まる小さな瓶子を持ってきた。
お猪口を渡され、そこに御神酒を注がれる。
言われるまでもなく、飲めということだろう。
御神酒にしてはちょっと量が多い気もしたが、おとなしく指示通りにぐっと一気に飲み干す。
芳醇な風味が口いっぱいに広がり、空っぽの消化器に御神酒が隅々まで染み渡っていく。
体調が悪いせいもあるのだろう、酔いは素早く、そして深く回り、意識を保つのがすぐに難しくなってきた。
瞼が重い。
頭が重い。
身体が重い。
上半身を起こしているだけでも難しく、支柱を失ったように上半身がふらついて姿勢を保てない。
姿勢の制御ができず、右に左にと揺れがどんどん大きくなっていくのが自分でもわかる。
ついに倒れそうになると、先輩が抱き止めて床に頭がぶつかるのを防いでくれた。
先輩は私を抱き止めたまま、寄り添うようにしてお祓いを続ける。
先輩が陀羅尼を口にするたび、耳に息がかかってこそばゆい。
全身はだるくて、ほとんど動かすことができなかった。
でももう怖くはなかったし、気持ちが悪いということもない。
むしろとても穏やかで、リラックスしていたように思う。
眠っているのか起きているのか、わからない時間がそのまましばらく続いた。
「おい、起きろ。起きろって」
「……」
「チッ……世話のかかるやつだな……」
ふわりと身体が浮かび上がるのを感じた。
目を開けると、すぐそばに先輩の顔があった。
「ふぇ!?」
変な声が出た。
恥ずかしくて顔が赤くなるのが自分でもわかるが、先輩はお姫様抱っこで私をベッドへ運ぶのに忙しい。
「ずいぶん軽いな。もう少し食べたほうがいいぞ」
そんなに筋肉質には見えないというか、むしろ先輩は痩せているほうなのだが、そこはやっぱり男性なのだろう。
けっこう軽々と私をベッドまで運んで寝かしつけ、肩まで布団を掛けてくれた。
「とりあえず終わったが――」と先輩はなにか喋ろうとしたが、そこで言葉を区切って「いやいいか。もう安心して寝るといい。がんばったな」と言いながら私の額に手を置いて、瞼を閉じさせる。
先輩の手は暖かで、それが瞼の上に置かれると、今まで緊張していたこわばりが溶けていくようだった。
一気に眠りの底へ沈み込みそうになるが、重い瞼を無理矢理に開けると、不思議そうにしている先輩の顔が見えた。
「先輩……玄関の鍵がテーブルの上に、ありますよね」
「ん? ああ、あるな」
「外から鍵を閉めて、ドアの郵便受けに入れてもらえれば大丈夫ですから」
「……?」
「……ですから、私が眠るまで、そばに……居てもらっていいですか?」
「そういうのはあんまり男に言うもんじゃないぞ」
「知ってます。でも……その、せ、先輩なら……平気、です」
「みくびられたもんだ」
先輩は自嘲しながら肩をすくめる。
そうじゃないのに。
「あ? なにがそうじゃないんだ」
いつのまにか、口に出してしまっていたらしい。
ああ、まずいな。
こんな状況じゃなにを口走ってしまうかわかったもんじゃない。
早く、口を閉ざして眠ってしまおう。
そう頭ではわかっていたのに、私の口は止まってはくれなかった。
「好きです……先輩」
小さな声ではあるけれど、そう発音したと思う。
声帯を動かして、空気を震わせて、先輩にそう伝えたように思う。
けれど、思っているだけで、実際はちゃんと喋れていないようだった。
「ああ、わかったよ。そばに居てやるから、早く寝ろ」と、先輩は駄々をこねている後輩を適当にあやして寝かしつけるだけで、まともに相手をしてはくれない。
意識が朦朧としているとはいえ、もう一度告白をするつもりにはなれなかった。
私は手をどうにか動かして布団の外へ出し、先輩に触れる。
「握ってて欲しい……です」
はっきりとゆっくりと、そう喋ると、先輩は無言で私の手を握ってくれた。
指と指を絡めて、しっかりと。
「先輩……」
好きです。
大好きです。
そう言えたなら、どんなに楽だろう。
そんなことを考えながらも、先輩の手の感触に包まれて、私は安心して眠りの底へと意識を沈めていく。
完全に沈みきる直前、眠りの水面の向こう側で、先輩が私に囁いたのがわかった。
「心配するな。君のことは、俺がなんとかしてやるから」