捌 『てるてる団地』 6/10
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トモちゃん先輩に連れられて大学前のバーへ入ると、井上先輩はすぐに見つかった。
「駅前に立っていたら待ち合わせ場所にされただけのことはありますねー」
「うるせー。久しぶりだな、結婚式のとき以来か」
「その説はお世話になりましたー」
「いえいえ、こちらこそ」
先輩方の二人は挨拶もそこそこに席に着き、軽く近況報告をかねた雑談を始めた。
当たり前だが、井上先輩は先日のてるてる団地での警察官の制服ではなく、私服姿だった。
Tシャツに弁才天の刺繍が施されたスカジャン、Gパンにスニーカー。
椅子の背もたれには大きな防寒用のダウンがかかっている。
漢らしさ溢れる坊主頭が無骨な顔立ちによく似合っていた。
……ここだけの話、出会ったとき警察の格好をしていたからまだ良かったが、コワモテなこともあってとてもではないがカタギとは思えない。
ヤクザか、あるいはプロレスラーにしか見えなかった。
巨大な体躯に、筋骨隆々な長い手足。
これほど恵まれた身体をしているのに、なぜオカルトサークルだったのか理解に苦しむ。
小柄なトモちゃん先輩と並んでいると、遠近感が狂ったような錯覚に陥る。
まるでホビットとネフィリムのようだ。
「なーんか失礼なこと想像してないかなー」
そんなことを考えていたら、トモちゃん先輩から睨まれた。
「いえそんな、濡れ衣ですよ」
「「ふーん」」
「ご、ごめんなさい」
トモちゃん先輩にくわえて井上先輩からも睨まれてしまった。
オカルトサークルの人たちって、みんな勘がいいんだろうか。
「今日、路希ちゃんに来てもらったのは――この呼び方でいいかな?」
「ええ、大丈夫です」
「路希ちゃんに来てもらったのは、他でもない。あのてるてる団地のことだ。まず最初に断っておくと、今の俺は警察官としてではなく、オカルトサークルのOBとして来ているから」
黙って首を縦に振って肯定する。つまりこれからの話は警察の職能を越えているということだろう。
「まず確認しておきたい。路希ちゃんは604号室に入ったということでいいんだよね? 正直に言ってくれ」
「はい。入りました。その後に死体を発見して、通報したという流れです」
「あの日には、ほかにも仲間がいただろう。その子たちは入ってないね?」
当日では深く突っ込まれなかった質問だった。
やっぱりばれていたようだ。
「他の子たちもいましたけど、604号室に入ったのは私だけです」
「本当だね?」
「本当です」
そこで井上先輩はしばらく沈黙し、ゆっくりと落ち着いた声で喋りだした。
「まず、その当日にいた他の子たちは大丈夫だろう。そこは安心していい」
それを聞いて、ほっとした。
璃々佳ちゃんたちを危ない目にあわせるわけにはいかないから。
「だが路希ちゃんは別だ。はっきり言って、非常にまずい」
「……」
「他の心霊スポットならいざ知らず、てるてる団地の604号室だけは洒落になってない。あそこに一人で入って夜を明かせるのは康一くらいのものだろう」
トモちゃん先輩がこくこくと相づちを打っている。
どうやら先輩はOB、OGのあいだでも、埒外な存在らしい。
「今から言うことは噂話じゃない。警察という現実の組織の内部情報だ。言うまでもなく、ここだけの話なんだが、いいかい――」
去年の一年間だけで、604号室では十人死んでいる。
……。
時間が凍ったように感じられた。
え?
そんなことがありうるのか?
「言うまでもないが、これは異常だ。毎月約一人のペースで、しかもみんな首を吊って死んでいる」
先日目撃した首吊り死体のことがいやがおうにもフラッシュバックしてくる。
ぶらぶらと力なく宙に浮かび上がり、舌を出して死んでいる、あのおぞましい姿のことを。
「特定の場所で、何人もの人間が死んでいるんだ。さすがに事件性があるんじゃないかと、こっちでも動いている。けれど、出てくる事実は不可解な符号ばかりだ」
「符号していることがあるのに、事件になりそうにないって……」
「順を追って話すが、まず自殺者は過去にあの604号室に入ったことがある者が多かった。ただ時間にバラつきがあって三ヶ月前に入った者もいれば最長で四年前という者もいる。
もう一つの符号も同じようなもんだ。
全員の確認がとれたわけじゃないが、死んだ十人のうち四人が同じ内容の夢を見ていたこともわかっている。
同じ夢を見ていた人間が何人も自殺した。これで警察が動けるわけがないことはわかるよな。
でも俺は確信している。あそこにはよくないものがいて、そいつが引き寄せているんだと」
「……」
「その夢っていうのは、こういうのじゃないですよねー?」
言葉を失っていたのを見て取ってくれたトモちゃん先輩は、部室でしたのと同じように夢の内容を子細に説明してくれる。
井上先輩は肯定も否定もせずに、黙って聞いていた。
話が終わると、ボディーバックの中から一枚の紙切れを取り出す。
「ここに俺が作った霊符がある」
それは、どこかで見たことがある細かい図案と朱色の文字が和紙に記されたものだった。
「これ、先輩が作ってくれたのと似てますね」
「そりゃそうだ。あいつに霊符の作り方や占いなんかを教えたのは俺なんだから。もっとも、もはやあいつのほうが腕前は上だけれどな」
心づかいは嬉しかったが、これを渡されたということが何を意味しているのか、理解できないわけがない。
「とりあえず持っていてくれ、これでも霊符作りには自信がある。無駄にはならないだろう。あとこれから路希ちゃんにはお祓いに行ってもらう。インチキじゃない、本物の霊媒士にだ」
「井上先輩の親父さんのところにねー」
「もし、俺の親父に祓ってもらってもその夢を見続けるようだったら……そのときこそ、康一にどうにかしてもらうしかない」
「え? 先輩ですか?」
「駄目ですよーそれは――」
「わかってる。これは本当に最後の手段だ。俺だって使いたくない」
なぜ本物の霊媒士よりもあの先輩が最後の手段になるのだろう?
しかもなにか事情があるようで、今日の話の中で一番真剣な表情を二人はしていた。
いや、それは真剣というより、むしろ……恐怖だった。
「先輩がどうしたんです?」
トモちゃん先輩と井上先輩は黙って目配せをしただけで、話してはくれなかった。
「詳しく教えてあげたいところなんだが、それはできないんだ」
「ごめんねー。でもいじわるで言ってるわけじゃないんだよー。それが康一のためだし、なによりあなたのためなんだー」
「先輩のため?」
「幽霊や怪異譚全般に言えることだが、ただ知るだけで障るってものが世の中にはあるんだ」
「ようやく忘れてもらったのに、またぶり返させるわけにはいかないんだよー。ごめんねー」
「いえ、よくわかりませんが、先輩方がそうおっしゃるのなら大丈夫です」
聞き分けよく、あっさりと引き下がってしまった。
全然大丈夫じゃなかったのに。
このとき例え迷惑がられようとも、嫌われようとも、先輩のことならなんでも知りたいと泣きわめいてでも、食い下がるべきだった。
けれど、後からどんなに悔やんでも、そうできなかった事実は変わらない。
致命的なミスを犯したことにも気づかず、事態は最悪の結末に向かって転がりだしていた。
◆
結果から言うと、お祓いは根本的な解決にはならなかった。
霊媒士と聞かされていたので山伏のような風貌を想像していたのだが、井上先輩のお父さんは身体が大きなことを除いて、どこにでもいる普通の中年男性だった。
話を聞いてみると霊媒士は副業とのことで、本業は誰でも知っている一流企業の技術職である。
疑っていたわけではないが、腕は確かなようだった。
副業といえど雑誌に連載を持っていたり、テレビ番組に出ていたり、占いアプリを作ってけっこう儲けているらしい。
お祓いは滞りなく進んでくれたが、終わりに近づけば近づくほど、お父さんの顔がどんどん曇っていった。
「これは、私には無理だ。申し訳ない。おそらく時間稼ぎにしかならないだろう」
終わった直後のセリフがこれだった。
お父さんは頭を深々と下げてくれたが、こちらの自覚症状が乏しいこともあって、なんだか自分のこととは思えない。
だが、それはたまたまそばにいてくれた井上先輩とトモちゃん先輩が人並み外れて敏感で、先回りして手を打ってくれたからだ。
もし、二人に助けてもらえなかったら、おそらく死んでいただろう。
それから、すぐに家へと帰された。
「脅しじゃないけどー、命が惜しかったらおとなしくしててねー」
「康一はこっちでも探しておく。こうなったらできる限りのことをするしかない」
「あの馬鹿。本当にどこにいるのかなー」
「あいつ、いったん消息不明になるとなかなか見つからないからな……」
そんな会話を残して、二人は去っていった。
怖くないと言えば嘘になるし、先輩方を疑っているわけでもないが、妙な夢を見たこと以外はこれといってなにも起こっていない。
どうも当事者であるはずの自分だけが取り残されたような心持ちだった。
だがそれも就寝するときまでの、束の間の平和だった。