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捌 『てるてる団地』 3/10

 背後から璃々佳ちゃんが声をかけてくれる。


 てるてる団地へ行くことは賛成していた璃々佳ちゃんだが、先ほどの先輩の言もあり、604号室に 訪うことだけは反対していた。

 口調こそ慇懃だったが、振り返ると不安そうな璃々佳ちゃんの表情が見えた。

「もう帰りましょう」とアイコンタクトで伝えてくる。

 それもそのはずで、打ち合わせではここで引き返しておしまいという手はずになっているからだ。


 でも、ここで帰るわけにもいかない。


「問題ありませんよ。でも念のため、とりあえずみんなはここで待っていてくれますか」


「え……」と小声を出して戸惑いつつも、璃々佳ちゃんは渋々ながら頷く。

 魔女の提案に異を唱えることは、よほどのことでなければ難しい。

 それが参謀役である璃々佳ちゃんの足枷だった。


 だまし討ちをしたようで申し訳ないが、二人きりのときにちゃんと謝っておこう。


「私がいいと言うまで、絶対に入っては駄目ですからね」


 一緒についてきかねない璃々佳ちゃんに釘を刺してから、引き留められる前にさっさと中へ入ってしまう。


 中腰になって穴をくぐると、月明かりが届かない暗闇で目の前が覆われる。

 埃とカビのにおいがひときわ強くなり、腐った板の間はふやけて浮かび上がったっており、踏み心地はかなり不快だった。


 懐中電灯で部屋の周囲を照らしてみる。


 朽ちて朽ちて朽ちに朽ちて、朽ち果てた。


 そんな世界に取り囲まれていた。


 普段感じることはないが、時間というものはあらゆるものへと平等に、確実に、緩慢に降り積もり、すべてを押しつぶしてしまうということがよくわかる。


 そんな中にいて、どういうわけか電話や調理器具やオモチャなどがそこかしこに残されており、生活臭がほのかに残っているのが不気味さを引き立たせている。


 月光も届かない場所で唯一頼りにできる懐中電灯の明かりを、次から次へと移動させながら周囲を観察していく。


 と、一瞬だけ明かりが消えてすぐに戻った。


 なんだ今の?


 いや厳密に言えば、明かりが消えたのではなくて、なにかの影が横切ったのだ。

 一瞬なのでよくわからなかったが、人の横顔のような形をしていたような……。


 と思う間もなく、自分の世界がいつのまにか転調していることに気がつく。


 すぐ外には璃々佳ちゃんたちがいるはずなのに、この団地に一人で取り残されたような、そんな感覚。

 一昔前であればパニックになっていてもおかしくない状態だったが、心を落ち着けてくわえた煙草に火をつける。


 見られているのがわかる。

 それがなにかはわからないが、こちらと同じように、向こうもこちらの様子をうかがっている気配がする。


 一度起こった転調が終わる気配はなく。

 一枚の透明な膜で覆われたような感覚が部屋中に広がっている。

 この状態になったときは、すぐに幽霊が姿を現すのが通例となっているが、今回はなぜかどこにも姿がない。


 やっと向こうが動いたかと思えば、トトトットトトト――というラップ音だけで、やはりどこにも姿はなかった。


 トトトトトトトットトトットットットトトトットトトットトトットットットトト――


 部屋の中でラップ音だけが、大きくなっていく。


 懐中電灯を消して、煙をゆっくりと吐いた。


 暗い室内に、煙草の火だけが静かに赤く、灯っている。


 いつでも来いと構えていたが、部屋のそこかしこから響いていたラップ音は、しだいに遠のいていってしまう。


 こんなものか……。


 転調を起こした世界に見切りをつけて、懐中電灯のスイッチを入れようとする。


 そのときだった。


 顔のすぐ目の前、まさに鼻先という距離に、人の顔が現れた。


 それは、暗闇にいてさらに暗く、真っ黒な顔だった。

 なのではっきりとした細部や輪郭があやふやで、つかみどころがない。


 けれど、それが人の顔で、じっとこちらを見つめていることだけはなぜかはっきりとわかる。


 くわえていた煙草を床に落として、思わず叫び声をあげそうになるが、それをぐっとこらえた。

 逃げもせず、その顔から目をそらさずに幽霊とメンチを切りあう。


 幽霊が息をするのなら、その吐息が呼気に混ざりそうなほどの至近距離だった。


 めいいっぱい引き延ばされた十秒間だったように思う。


 不意に、顔が遠ざかっていくのがわかった。


 トトットトトトトトト――というラップ音とともに、部屋の奥へと移動していく。


 そして、部屋に広がった薄い膜がはじけるように、転調は終わってくれた。


 落とした煙草を踏みつけて、ゆっくりと一度だけ深呼吸をする。


 今までにないパターンでわけがわからなかったが、思っていたよりは大したことがなかったな。


 と、そんなことを思いながら、懐中電灯を改めてつける。


「ロキ様ー? 返事をしてくださーい」

「こっちは平気! 大丈夫ですよ!」

「もう戻ってきてくださーい!」


 という璃々佳ちゃんの声には背を向けて、部屋の最奥であるベランダに視線を向けた。


「――!」


 ベランダの柵を越えたすぐ向こう側で、男がのぞきこんでいる。

 念のために言っておくが、ここは六階だ。

 男がいる場所に足場なんてどこにもないはずだった。


 転調は終わったはずだろう!


 ギョロリと見開かれた目は焦点がどこにもあっておらず、口からは異生物のように大きな舌が飛び出している。

 懐中電灯の円形の明かりの中にあって、こちらを気にかける様子はない。


 歳は三十代にも四十代にも見え、痩せ形で、服装はスーツだった。かなりのなで肩をしていて、そのせいか異様に首が長い。


 今まで見たどんな幽霊よりも存在感があって、本当に細部までしっかり見え――。


 いや、ちがう。


 これは…………本物だ。


 それは本物の、首吊り死体だった。







 警察とのやりとりで、帰宅した頃には空もすっかり知らんでいた。


 疲れきって倒れこむように眠ってしまう。


 死体なんてものを見たせいだろう。

 これまでに見たことがないほどの、とびっきりの悪夢が始まった。


 とは言っても、オバケが出てきて追いかけられるようなそういうわかりやすい夢じゃない。


 とにかく嫌な気持ちになる夢。

 正体不明の罪悪感に押しつぶされる夢だ。


 やたらに現実感のある夢で、とあるマンションの一室らしき場所で一人立ち尽くしていた。

 視界の隅にはテレビがついているが、それが意識に入ってくることはない。


 それどころではなかった。


 取り返しのつかない、致命的なことをしでかしてしまったという気持ちで、頭がいっぱいだった。


 後悔しても後悔しても後悔しても、し足りない。


 いったい自分がなにをしてしまったのか、それはわからない。


 そんなことを考えるには、人間の脳ではあまりに容量が足りなすぎる。


 無力感と焦燥感がないまぜになったどうしようもない後悔しか、頭にはない。


 窓の向こうには青空が広がっていて、一筋だけ伸びた飛行機雲が本当に美しい。


 その美しさと自らのうちに広がる後悔の念があまりに不釣り合いで、そのアンバランスさが一つの閃きを与えてくれる。


 自分は、もうとっくにこの世界から見捨てられている。


 涙が一粒、頬をつたっていく。


 そこでようやく、目が覚めた。







 コンコンコン――と、ベランダの窓が叩かれる音で目が覚めた。


 時計に目をやると、もう昼の十二時を過ぎている。

 一三時過ぎには大学で講義が始まる予定だが、もはや出席する気にはなれなかった。


 てるてる団地の件から五日が経つが、今日でこの悪夢を見るのは三度目になる。

 どうも自分はそこまで打たれ強くはないようだった。


 夢見が最悪だったために、ほとんど眠った気がしない。

 くわえてここ数日はバイトが忙しく、風邪を引いてしまいそうなほど、疲労が溜まっている。


 二度ほど頭をぶんぶんと振って、先ほどの夢の内容を追いやろうとしてみる。

 しかし、これで三度目となる悪夢の感触は生々しく残っており、世界に見捨てられたという、あの激しい後悔は脳裏にこびりついて剥がれない。

 むしろ繰り返されることで、悪夢の輪郭はよりクリアになっていくばかりだった。


「お姉ちゃん、いない?」


 疲れは残っていたが、夢見のことを考えると二度寝する気にもなれず、呼びかけに応えてカーテンを開ける。

 ガラス一枚に隔てられた真冬のベランダに、パジャマ姿の諒くんが立っていた。


 あと十年も経てばきっとイケメンになるであろう色白で整った顔立ちに、子供特有の肉付きの薄いほっそりとした手足。

 目が合うとクリクリした黒目がちな瞳をにぱーっと咲かせて、こちらに手を振ってくる。


「おはよう、諒くん」

「おはようじゃないよ。こんにちはだよ、魔女のお姉ちゃん」

「魔女は夜が長くて朝は短いんだよ」

「ふうん、なるほどー」


 諒くんは得心がいったようで、顎に手を当ててふむふむと頷く。


 なんでも素直に信じる子供というのは、可愛いものだ。


 それから諒くんを部屋に上げて、遅めの朝食をとることにした。


 諒くんは隣の部屋に住んでいる子供で、たまーにこうしてベランダ伝いに遊びにやってくる。

 というのも、このアパートのベランダにはそれぞれ仕切りがあるのだが、非常時に備えてその仕切りはそれほど頑丈にはできていない。

 殴れば簡単に破ることができる。


 そこまではまぁわかる話なのだが、家賃が安いぶん管理はかなり適当なため、最初からその仕切りの一部が壊れているのだった。


 がんばればちょうど子供が一人通り抜けられるていどの小さな穴が開いており、それを使って諒くんはベランダからやってくるのだった。


 サニーサイドアップにした目玉焼きにベーコンとトーストという簡単な朝食だったが、やっぱりコーヒーは欠かせない。


 諒くんには、少しだけ手間をかけてジンジャーバターココアを作ることにした。

 小鍋で牛乳を暖めているあいだに、手早くショウガをすりおろす。

 牛乳にココアの素を溶かし、ショウガとバターを加えてゆっくりとかき混ぜていく。


「これはコーヒー?」

「そ、子供用の特別製。苦くないから大丈夫だよ」


 マグカップを渡そうとすると、諒くんの冷たい指が手に触れた。

 もしかして、この子はけっこう長いあいだ、あのベランダで呼びかけていたんじゃないだろうか。


 諒くんはココアを飲むのは初めてなようで、茶色い液体を不思議そうに眺めている。

 おずおずと、小さい唇をマグカップの縁につけて、少しだけ口に含む。


 途端に、諒くんの瞳がキラキラと輝きだした。

 特になにも言わないが、舌を火傷しないようにちょびちょびと世話しなく、何度も口に含む。


 どうやら気に入ってくれたみたいだ。


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