壱 『ホテルの亡霊』 4/5
四話目! 明日で『ホテルの亡霊』編は終了です。
途中、由花子さんの携帯に誰かから連絡が入った。
はっきりと誰かは分からなかったが、たぶん井上さんだろう。
待ち始めて十分ぐらいたったころ、ついにホテルの奥の方から光が現れた。
光はゆっくりとあの喫煙所の方へと入っていった。
おれは由花子さんにそのことを教え、急いで喫煙所の方に向かった。
やっぱり人を驚かすのは面白い、移動しながら数分後の絶叫を思い浮かべると自然と頬がゆるんでしまう。
喫煙所に入るすぐそばの壁に隠れ、黒電話のうしろに仕掛けてある携帯電話を鳴らす。
ぢりりりりりりりりりりん――ぢりりりりりりりりりりん
またあの音が鳴り出した。
おれ自身が鳴らしているのはわかっているのだが、廃墟に似合わないその音はひどく異質なもののように感じた。
ぢりりりりりりりりりりん――ぢりりりりりりりりりりん
このとき、おれは異質なのはベルの音ではないということに気付いた。
おかしい、聞こえるべき音が聞こえない。
もしかしたらそういうこともあるかもしれない。
けれどやはり少しおかしい。
……いくら耳を澄ましてもベルの音しか聞こえないのは。
というのも、何か悲鳴が聞こえてもいいはずじゃないか?
急に鳴るはずのない電話が鳴っても身動きひとつせず、棒立ちするということがありえるだろうか?
と不意に、その電話が繋がった。
「――――――」
携帯からは何も聞こえてこなかった。
やはり何かおかしい。携帯電話は黒電話の台と壁の隙間に隠してある。
あの暗闇のなか、まして鳴るはずのない電話が鳴るという異常事態にもかかわらず、そんなものに気がつく人間がはたして何人いるだろう。
仮にいたとして、この仕組みに気付いたとしても、「誰だ」くらいは言うものじゃないか?
もうわけがわからない。
何か決定的な異変が起こっていることに、そのときおれは少しずつ気付き始めていた。
携帯電話からは沈黙だけが流れている。
後ろにいる由花子さんが異変に気付くと、固まっているおれを尻目に一人で喫煙所の方へと入っていった。
一呼吸おいておれもその後についていく。
そこには誰もいなかった。
おれのまわりには暗闇だけが広がっていた。
由花子さんは隠してあった携帯電話をつかむとそれを耳に当てた。
「もしもーし。聞こえますかー」
さっきから鳥肌が立ちまくっているおれと、この異常な雰囲気とは対照的に、やたらと能天気な声が携帯から聞こえてきた。
由花子さんはその携帯がおれのものに繋がっていることを確認すると、そそくさと喫煙所から出て行った。
取り残されそうになったおれは急いでその後についていく。
◆
ホテルの廊下には二つの足音が響いていた。
「ちょっと由花子さん。あれ何なんですか? なんで誰もいないんですか?」
「ここのオーナーが殺されたのは知ってる?」
何を言っているんだこの人。
それは井上さんの作り話なんじゃなかったっけ。
「八年前にこのホテルで、オーナー夫婦が殺されたのよ。男は夜に忍び込んで夫婦が住んでいる家のブレーカーを全て落としてしまった。
だからオーナーは暗闇のどこから人殺しが襲いかかってくるか分からない恐怖と戦いながら、懐中電灯の灯りだけを頼りに、ブレーカーが生きているホテルの電話までたどり着かないといけなかった。
けれども助けを呼ぼうと受話器を手にしたところで殺されてしまったらしいよ。無念だったと思うな」
それとこれと何が関係しているとこの人は言いたいんだ?
「ところで、さっきの灯りだけどあれは五番目のペアのものじゃないよ。さっき形兆から電話があってね。五番目のペアは出発してないんだ。新入生の女の子が泣いちゃってね。それどころじゃなかったみたい」
「じゃあ、おれが見たのは何だったんですか?」
「そりゃあ、幽霊でしょう」
由花子さんはそう言いながらも淡々と歩き続けている。
幽霊なんてありえない。
おれはそう思った。
また井上さんあたりがおれのことを騙しているに違いない。
そうだきっとそうだ。
おれは後ろに井上さんがいないかどうか確認しようとした。
「振り向かないで、真っ直ぐ前を見て歩いて」
「なんでですか?」
「君には聞こえない? さっきから足音が一つ多いでしょ」
そう言われて、おれは歩きながら耳を澄ましてみる。
おれの足音と、それより軽い感じの由花子さんの足音。
それと、もうひとつヒタヒタという足音がたしかに聞こえる。
不思議なことに歩調は明らかにこっちの方が早いのに、そのヒタヒタという足音は決して離れずに、一定の距離を保ったまま、ゆっくりとおれたちのあとをつけて来ている。
おれはもう泣きそうになっていた。
「どうして私たちのあとをつけているのかはわからないけど、かかわらない方がいいに決まってる。だから、気付いてないふりをしながら歩いてロビーまで行くよ。走っても駄目だよ」
そう言われて、努めて意識しないようにしていたが、意識すまいとすればするほど、そのヒタヒタという足音ははっきりと聞こえてくる。
おれはロビーまで一気に走り抜けたい衝動を必死に我慢し続けた。
◆
ようやくロビーにたどり着いたとき、おれは物凄い冷や汗をかいていた。
確認してみたが、ロビーにはおれたち二人以外の全員が揃っていた。
あの喫煙所までは基本的には一本道ということを考えると、誰かがおれたちを驚かしていたわけではないということになる。
ということはやはりさっきの足音は幽霊のものなのだろうか。
そうとしか説明ができないということに気付いてはいたが、そう考えるのはあまりに怖いので、何も考えないことにする。
由花子さんはさっきと変わらず元気だったが、おれはぐったりと壁に寄りかかって座りこんでいた。
皆から一人で離れてうなだれていると、井上さんがきておれの肩に手を置いた。
「な」
井上さんの目には哀れみの情が浮かんでいた。
「おれあんなに怖い思いしたの初めてです」
井上さんは黙っておれにミネラルウォーターを渡してくれた。
そこには友情とはまた違った絆が出来上がっていた。
同じ苦労をしたものだけが分かる絆が確かにそこにはあったと思う。
そうだな、戦友のようなものかもしれない。
「傾注ー」という由花子さんの声とともに集合した。
由花子さんは全員が集合し十分自分に目線が集まったことを確認すると、そこが舞台であるかのように大げさにお辞儀をした。
「今日はどうもお疲れ様でした。私はこのサークルの副部長を務めます、狐宮由花子というものです。
私たちのサークルによる肝試しは気に入っていただけたでしょうか?
悪質なイタズラに気分を害されたかたは申し訳ありません。
ですが今日の肝試しでは、今まで体験したことがないほどの恐怖を味わうことができたと思います。
私は恐怖というものは脳内で作り出される最高の麻薬であり、それを味わうことができる唯一の存在が人間であると考えています。
人間以外の動物が自ら恐怖を味わおうと考えることができるでしょうか?
この麻薬は人を選びますが、その分、素晴らしい効き目を私たちに与えてくれます。
手足は笑うように震え、舌はカラカラに乾き、眼球は燃えるように熱くなり、自分の速くなり過ぎた心音が鼓膜をつらぬき、脳はその恐怖から逃れようと壊れんばかりに回転し続け、そして、私たちの精神は自身の生命の脈動を吐き気がするほど感じることができる。
ですが困ったことにこの麻薬は一度脳を焼いてしまうと、病み付きになってしまいます。
私の脳はもう完全に焼かれてしまい。
さらに強い刺激を常に求めています。
全てがどうでもよくなるほどの恐怖を味わいたい方、もうすでにこの麻薬により、脳が焼かれてしまった方はぜひとも我がサークルへ。
私たちは喜んであなたたちを迎えます。
私と一緒に廃人になろうじゃありませんか。
長くなりましたが、これで今夜の肝試しは全て終了です。
今日は本当にお疲れ様でした」
演説が終わり、由花子さんがまた大げさにお辞儀をすると、長い拍手が起こった。
おれもいつのまにか拍手をしていた。
どうやらこの人は完全な恐怖ジャンキーのようだった。