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漆 『チャーリーゲーム』 10/10

 彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。


 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。

「さぁ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」


 王はまた、その左にいる者たちに言います。

「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」







「……」

「うわ……わざわざ覚えてるなんてキモっ……」


 ちょっと思ったけど、決して口にしなかったセリフを璃々佳ちゃんが代弁してくれる。

 先輩は「ぐ……」と声を漏らして中ジョッキを掴む手に力を込めるが「はん。オカルト愛好家にとって聖書は一般教養だぞ。不勉強だな」と言い返していた。


 アルコールのせいなのかなんなのか、少し顔を赤くさせながら「こほん」と咳払いをして、先輩は話を戻す。


「キリスト教に限った話じゃないが、宗教ってやつはとにかく異端を嫌う。異端というのはつまるところ少数派だ。今じゃナンセンスにもほどがあるが、利き手にもそれは当てはまる。キリスト教の文化の中では、左より右が、常に重視されるんだ。右には神聖なる神が宿り、左には邪悪な悪魔が宿るのさ。そのことは景子さんも知ってたんじゃないかな」


 景子さんの学科は英米文学科だったことを思い出す。

 キリスト教についてそれなりに知っていてもおかしくはないだろう。


 でも、と璃々佳ちゃんは腕を組んで不思議そうにしている。


「河野先輩が言っている悪魔というのは、種を明かせば人間が持っている負の思念が形を成したものってことでしょう? 実際に魔界のような場所に悪魔がいて、そこから呼び出してるわけではないんですよね?」


 先輩はその問いに対して、「今回のケースに限ってはそうだね」という気になる前置きをしたものの、否定の言葉は述べない。


「だったら、二人とも死んでしまったところで、もう終わりになるのが自然でしょう。望みは叶ったんですから、憎悪も消えるんじゃないですか?」


 璃々佳ちゃんの言っていることももっともだ。


 アンドラスという皆殺しの悪魔だから、ということでウヤムヤにしていたが、言われてみれば理論上はその通りだ。

 それこそ初めから、自分も含めて皆殺しにすることが望みでもない限りは……。


「それは要するに、景子さんが根っからの悪人じゃなかったからさ。ごくごく一般的な、善悪の両方を兼ねそえた人間だったということだ。人の善性というものは信頼するには弱すぎるけれど、無視するには強すぎるものだから」

「いまいちピンときませんね。良心の呵責とかそういう話ですか?」

「それに近い、かな。人を呪わば穴二つって言うだろう? 憎悪や嫉妬や憤怒なんていうマイナスの感情はとにかく強力なんだ。ときに自分の身を焼くほどにね。殺すとか死ねとか、けっこう簡単に口にする世の中だけどさ。たいていの人間は他人を殺すことに、他人を不幸にすることに、耐えられないものなんだよ」


 君は猿の手様というジェイコブの短編を知ってるか? と先輩に尋ねられて璃々佳ちゃんは首を横に振った。


「ばーか」

「この……!」


 いきなり璃々佳ちゃんが先輩に殴りかかろうとしたのをとっさに止める。


 さっきの仕返しとはいえ、真面目な話の途中にちょくちょくふざける先輩のこの癖は本当に直したほうがいいと思うし、璃々佳ちゃんもすぐに手が出る癖を直して欲しい。


 二人とも一ヶ月前はもうちょっとちがったような気がするんだけど……。


 先輩は羽交い締めにされた璃々佳ちゃんに嘲笑をくれてから、特に猿の手様の内容を説明しようとはしなかった。


「ズルで幸福は手に入らない。手に入れてはいけないんだって、心のどこかでみんなそう思っている。猿の手様で叶えた願いはだから歪んでいく、幸福を幸福のまま受け入れず、釣り合いのとれた形となって願いは叶えられる。とても良くできた訓話だ。

 降霊術や召喚術なんていうのはね。つまるところ、形のないものに形を与える儀式なんだ。今回のソロモンの七二柱の悪魔しかり、陰陽道の式神しかり、世界各地に存在する神様しかり、みんな形のないものに名前や空想上の姿を与えられてこの世に顕現している」


「……一ヶ月前のアレも、そういうものってことですか」


 私の腕の中でおとなしく話を聞いていた璃々佳ちゃんは、先月のことを自分から切り出す。


「あのていどなら、なりかけというかできそこないがせいぜいだろう。あれがもし本当に形を成していたなら。君たちはただじゃすまなかった」

「「……」」

「形のないものが、形を作ることに成功した場合、それは非常に厄介だ。そいつは世界を歪めてしまう。釣り合いのとれた秤の一方に錘を次々と載せていくようなものだ。そこには何らかの不自然な偏りが出る。死人の一人や二人で済まないことがほとんどだ。だから」


 もう、君らや俺にできることはない。


 先輩はそこで言葉を切って、すっかり冷めてしまった唐揚げをモシャモシャと咀嚼する。


 こちらとしてはもう物を食べる気にはなれなかった。


「君らも俺の後輩なら、肝に銘じておくといい。

 亡霊と戯れなば、汝亡霊となりぬべし。

 ウェーバーの歌劇、『魔弾の射手』の一節だ。悪魔によってもたらされた七つの魔弾。六発は射手の意のままに的を射抜くが、一発だけは悪魔が望んだ人間に必ず死を届ける、呪いの弾丸だ。

 これは俺の先輩であり、君たちの先輩でもある由花子さんからの受け売りでもある」


 また由花子さんか……。

 いい加減その名前を聞きたくないんだけど。

 そんなことを思いながらビールを呷ると、璃々佳ちゃんがいきなりぶっこんだ。


「河野先輩はその由花子さんというかたと付き合ってるんですか?」


 ビールが気管支に入り込んで反射的にむせてしまう。

 ゲホゴホと咳を繰り返すが、それでも先輩の表情からは視線を切らなかった。


 先輩はきょとんとした顔をしているだけだ。


「どうしたいきなり?」

「だって、よく話に出てくるので。今でも会ってるような口振りじゃないですか」

「ないない。あの人は俺の手に負えるような女じゃないしなぁ」

「チッ……!」

「え、今なんで舌打ちされたの?」

「べっつにー。ちょっと面白くなかっただけですー」

「山岸もニヤニヤしてどうした? 君、そんなにお酒弱くないだろ。なんで顔赤いんだ?」

「い、いえ大丈夫です! 私はなにも問題ありませんよ!」

「熱でもあるんじゃないか」


 先輩はおもむろに私の額に手を当ててきた!


「…………!」

「……ちょっと熱いな。飲み始めたばかりだが、もう帰るか」

「大丈夫ですって! 大丈夫大丈夫! ほーら!」


 中ジョッキを一気に飲み干して、健康さをアピールしてみる。


 なんでもない。

 なんでもないんだ。

 なんか本当に頭がクラクラしてきたような気がするけれど、問題ない!


「いや、なんかテンションおかしいし。やっぱり帰ったほうが――」

「いやだから大丈夫ですって! その! 前からお聞きしたかったんですけど! その由花子さんというかた、今はなにをしてるんです?」

「……」

「先輩?」

「…………、」


 先輩は急に黙り込んで、ぼうっと視点を宙にさまよわせた。

 そこに表情はなく、虚空に向けられた瞳だけがわずかに、かすかに、動いている。


 その様は電池が切れたオモチャのようで、いくら呼びかけても反応がない。

 またいつものおふざけかと思ったが、それにしては脈絡がなさすぎるし、唐突すぎる。


 さすがに何かがおかしいと璃々佳ちゃんも気がつき、「こ、河野、先輩……?」と、肩に触れようとする。


 その手が触れる直前に、これまたいきなり先輩は楽しそうに喋りだした。


「由花子さんは本当にどうしようもない人でな。すごい美人なんだが酒は強いわ男好きだわ悪趣味だわでとにかく滅茶苦茶なんだよ。俺が入部したときにはオカルトサークルの部長をしててさ。でたらめな霊能力の持ち主にも関わらず、危機管理なんてことを一切しないイカレた人だったんだよ当時は色々な場所に連れ回されてはそれはそれは怖い目に巻き込まれたものだいやー本当にあの人には振り回されっぱなしだったなぁ――」

「いえ、ですから、そのかたは今どこで――」

「なんだよ。なにが聞きたいんだ? 由花子さんとの思い出話ならいくらだってあるぞ? 俺が学生だった頃はこうして居酒屋でよくバカ話をしてたもんだよ。そうそう、あの人は油揚げが大の好物でな。由花子さんが来ると店員はなにも言わずに油揚げをもってきたもんだ」

「いや、えっと……」

「なんだよ変な奴だな」


 先輩の笑顔にはどこか人を小馬鹿にしたようなニュアンスが入っていることがほとんどだが、このときだけはなにも含むところのない笑顔が張り付いていた。


 ことこの局面において、その笑顔は先輩の常軌を逸した躁状態に拍車をかけるだけだった。


 そこにタイミング良く、店員が料理を持ってきた。


 注文ミスだろうか?


 食べ物を頼んだ覚えはないが、気まずい雰囲気を切り替えるためにはありがたかった。


 だが、その料理を見て、顔から血の気が引いていく。


 たまたまなのかもしれない。


 偶然が重なっただけなのかもしれない。


 もっと言えば、だからなんだという話なのかもしれない。


 けれど、テーブルに置かれた油揚げをただの偶然として無視することは、どうしてもできなかった。


 このとき、もっと私は思慮深く考えるべきだった。


 これがあいつから先輩を守る最後のチャンスだったと知るのは、ずいぶん先のことになる。


 気がついたとき、もう先輩は手遅れだった。







 それから一週間が経った頃、景子さんが亡くなったことを璃々佳ちゃんが教えてくれた。


 景子さんは白昼のうちに階段から真っ逆様に落ちて死んでしまったらしい。


 死の直前、たまたま廊下ですれちがった看護士の話では、まるで誰かに手を引かれるようにして階段のほうへと歩いて行ったそうだ。


 その引かれた手が左右のどちらだったのか、璃々佳ちゃんは看護士に尋ねなかった。


「景子さんには悪いですけど、これ以上関わりたくありません。もうあの病院にも二度と行かないと思います」

「どうして?」

「だって、景子さんが死んでしまったら、悪魔がいなくなるなんて保証はどこにもないじゃないですか」

「そうだね……」


 それが賢明だ。

 先輩の忠告通り、もうできることなんてなにもない。


 だから、これは誰にも言わずに心に秘めておこうと思う。


 あの夜、璃々佳ちゃんの部屋にかかってきた電話の件を。


 それが、まるで誰かが階段から転げ落ちていく音に思えたなんてことは。



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