漆 『チャーリーゲーム』 9/10
璃々佳ちゃんとのやり取りを黙って眺めていた先輩は、ビール片手に枝豆を半分以上、消費していた。
つい一時間ほど前に旅行から帰ってきたばかりで、横の座席には大きめのボストンバックが置かれている。
「心配だから話を聞きに来てみればこれだよ。君たち本当に仲いいよね。なんだろう? 状況的に今の俺は両手に花なんだけど、すごい疎外感……」
「そんなことないですって。ほら先輩、ビールですよ」
やさぐれている先輩にお酌をして少しでもご機嫌をとっておく。
「マジな話。川尻は俺に冷たすぎると思うんだよね。俺が可愛いって言ったときと、山岸が言ったときとで露骨に反応がちがうし」
璃々佳ちゃんはあっけらかんとしていて悪びれる様子はない。
「それはあれですよ。あなたは郵便ポストにいきなりカッコイイって、話しかけられたらどう思います?」
「どうって言われても、わけわかんねーよそんなの」
「そんな感じです」
「……」
どんな感じだ……。
先輩は不可解そうというか、もういっそ不快そうに顔をしかめてビールを呷っていた。
直前に先輩は璃々佳ちゃんに赤なまこ石鹸をお土産として渡しているだけに、さすがに同情させられる。
いちおう言っておくと、これでも璃々佳ちゃんは心を開いているほうだ。
短い付き合いではあるが、璃々佳ちゃんに男性嫌悪の気があるのは否めない。
それはむしろ嫌悪というよりは憎悪に近いものがあって、そもそも璃々佳ちゃんは男の人と会話をしようとはしない。
険悪ではあるものの、こうして璃々佳ちゃんがお酒を飲んで喋ることができる男性というのは先輩くらいしか存在しないのだ。
軽音楽部でもそうだったし、恵比寿顔で人当たりが最高値をマークしているバーのマスターとですら、璃々佳ちゃんはかたくなに喋ろうとしないのだった。
それらを鑑みると、今の状況はもしかすると、彼女なりに照れていることの表れなのかもしれない。
そういうことにしておこう……。
とは言うものの、先輩と璃々佳ちゃんのバーリトゥード形式の会話をこれ以上観戦したくなかったので、無言で睨み合う二人に新しい話題を振っておくことにした。
「あ、これありがとうございました」
懐からお守りを取り出して見せてから、先輩にお礼を言う。
たぶんこれがなかったら、あの病院での出来事はただではすまなかったはずだ。
「ああ――ほら、君もちょっと出してごらん」
「え、いや、私は別にヤマーさんほどの目には遭ってませんし」
「いいから出しなって」
先輩はお守りを受け取ると、その袋をおもむろに開けてしまう。
すると、中から出てきたのはバラバラに引きちぎられた和紙だった。
なにか文字らしきものや模様が描かれているが、正確に判別するのが不可能なほどバラバラになってしまっている。
先輩はそれを灰皿に集めると、さっさと燃やしてしまった。
璃々佳ちゃんはどうなのか知らないが、袋を開けたことはないし、中身がバラバラになるようなこともしていない。
璃々佳ちゃんも神妙にお守りの燃えカスを見つめている。
「山岸には強い霊感がある。あるとは言ったが、それはむしろ欠損とでも言うべきもので、感受性が高いということはこの世界ではむしろマイナスだ。危険を察知することには長けるが、外からの影響を非常に受けやすい」
先輩は視線を灰皿から璃々佳ちゃんに移す。
いつものおちゃらけた雰囲気はまったくなかった。
「対して、川尻の鈍感さは、君の身を危険にさらすようでいて、実は身を守ってくれる安全なもの……と見せかけてやっぱり危険なんだ」
「わかりやすく言ってもらえます?」
「君は鈍感だ。けれどオカルト的なものの影響をまったく受けないってわけじゃない」
璃々佳ちゃんは眉をひそめながらも先輩の話に耳を傾けている。
一ヶ月前の出来事が、まだ尾を引いているのだろう。
「普通に暮らしている分には安全なはずだ。不必要に怯えることはないし、つまらないことで神経質になることもない。結果的にはそういうものの影響は少なくて済むはずだ。だが今回のように、自分から心霊関係に顔を突っ込むのなら話は別だ」
「……」
「気がついたら爆心地ってことにならないよう、気をつけるんだ。今回はたまたま運が良かった。それだけのことだ」
「……」
「そもそも君は今一度、冷静に考えるべきなんだよ。俺や山岸みたいなのに関わることは、君の人生にとって賢明では――ぶへっ!」
真剣に話していた先輩に向けて、超高速でビンタが放たれた。
スパァン、という快音が周囲に響き、注目をいやがおうにも集めてしまう。
「うっさい! 幽霊が怖くてヤマーさんといられないなんて馬鹿なこと言わないでください。バァーカ!」
「まぁまぁ、璃々佳ちゃん落ち着いて……」
後ろから羽交い締めにすると、璃々佳ちゃんはあっさりと大人しくなってくれた。
問題は公衆の面前でいきなりビンタされた先輩だ。
さぞやお怒りだろうと、様子をうかがってみると、何事もなかったように店員さんにビールの追加を注文していた。
「ほら、璃々佳ちゃん。先輩に謝って」
「……ごめんなさい」
「まぁ……それだけ覚悟してるんならいいんだ」
「ええ、覚悟はできてます」
「覚えておけよ。言質はとったからな」
「「……」」
やっぱり怒ってるっぽい!
かといって、先輩は怒っていても引きずるようなタイプではないので、すぐにいつものニヤニヤ笑いを取り戻していた。
「とは言うものの、霊感を上げる方法がないわけでもないんだがな」
「ええ!? そんなのあるんですか? 教えてください!」
直前にビンタをかました人間とは思えない早さの変わり身で、璃々佳ちゃんは頭を下げる。
なんでここまで必死になれるのか疑問だ。
幽霊なんて、見えたところで百害あって一利ないはずで、それは璃々佳ちゃんもわかっているはずなのに……。
「要するに意識をいかに変性させるかということが肝要なんだ。シャーマンや巫女は儀式の際には神を降ろすためにトランスするだろう? それと一緒で、普段の理性重視の意識から、無意識のトランス側へ意識をずらすんだ」
「それが簡単にできたら苦労は……って、それってつまり……」
「覚悟ができてるなら、そういう外法もあるってことだ。だが俺はオススメしない。一歩まちがえると、こういう風になっちまうぞ」
先輩はいつものようにテーブルの脇に並べた向精神薬を一つ口に含み、ガリガリと噛み砕いてから、キンキンに冷えたビールで流し込んでいく。
「亡霊と戯れなば、汝亡霊となりぬべし。ってな」
あはははは、と先輩は楽しそうに笑っているが、こちらとしてはとてもじゃないが笑えない。
オカルトは自己責任だと先輩は宣うが、もし璃々佳ちゃんがそんな方法を選ぶとしたら、殴ってでも止めなくてはならないだろう。
オカルトには人を狂わせる力がある、あるいは狂っているからこそなのか。
景子さんはいったいどちらだったのか。
「今回のことで、私にできることって――」
「なにもないよ」
先輩はそんなことはとんでもないとでも言いたげだった。
「その人はもうなるようにしかならない。俺や君たちにできることは、一つもない」
「それでも……」
「やめておきな。神様じゃあるまいし、助かろうとしない人を助けることなんてできないよ。もっと前なら手の打ちようもあったけど――投薬とかそういう心の治療とかね――でも、ここまで悪魔が実体を持ち始めてたらもう無理だ」
病院で見た。
あの暗黒が脳裏に浮かぶ。
「あれは、本当に悪魔だったんでしょうか」
「実際に見てないから、はっきりとは言えないけど、状況的にまちがいないだろうね。普通は素人が悪魔召喚なんてできっこないんだけど」
「じゃあ、どうしてあんなことに」
「致命的に運が悪かったとしか言いようがない」
先輩はまた一つ薬を口の中にぽーんと放り込んで、ゴリゴリと噛み砕いてから、話を続ける。
「景子さんも本気で悪魔を呼ぼうとしたわけじゃないと思うよ。本人も言ってただろう。ただの気休めだって。じゃなけりゃ、アンドラスを選ぼうとは思わない。本気でやっていたのなら、もっと他のアスモダイとかマルコシアスを選ぶはずだ。アンドラスなんて、専門家でも普通は選ばない」
「でもヤマーさんの話もちょっとおかしいですよ? そのアンドラスとかいう悪魔を呼び出してからずいぶんタイムラグがあるっていうか。よくは知らないですが、悪魔ってそういうものなんですか?」
璃々佳ちゃんはメモ帳に時系列をまとめてこちらに見せてくれた。
詳細な日時はわからないが、景子さんが悪魔を召喚してからあの大事故が起きるまでに約一ヶ月もの時間が経っている。
そういうものと言われればそれまでだが、悪魔というのはけっこう気が長いように思えなくもない。
「もしかして、チャーリーゲームがなにか関係してるんじゃ……」
憶測を口にすると「そうじゃない」と、先輩がすぐにそれを否定する。
「チャーリーゲームまでで、本当は終わったはずなんだ。景子さんの呪いは二人をちょっと怖がらせただけ。あとはせいぜい二人に偶然起こったちょっとした不運を悪魔の仕業――つまり自分の仕業だと――解釈して溜飲を下げる。
それでおしまい。
のはずだった。
思うに、最初の事故は本当に偶然だったんだろう。その偶然が悪魔を召喚する必然になってしまった。景子さんが想像していた以上の形で願いが実現した、これが今回の発端だ。具体的に言えば、彼女が左手を掴まれたとき、それが悪魔を本物にしてしまった瞬間だろうね。右手ならばまだ言い訳もできただろうに……」
「右手とか左手とか関係あるんですか?」
「悪魔と呼ばれるような存在は世界中にいるが、ここでいうアンドラスなんかの悪魔っていうのは西欧のキリスト文化の中で育まれたものだ。当然、悪魔たちのイメージはキリスト教が大きく関わっている。マタイの福音書にもあるようにね」
そして、先輩はスラスラと聖書を暗唱してみせた。