漆 『チャーリーゲーム』 8/10
この人は嘘をついている。
だがあまり嬉しくはなく、むしろ気を引き締めなければいけない。
この仮説がもし、一から十まで当たってるということは……。
「……」
景子さんが折れて喋り出すまで、こちらから言葉を接ぐようなことはしない。
こちらも黙って睨み返すという根比べをするしかなかった。
「……ふぅ」と、一息ついてからやっと景子さんは嘘を認めてくれた。
「そうね。仰るとおり、私は一つだけ嘘をついた。でも嘘と言ったって、ささやかなものでしょう? 拓弥の彼女が、貴美子じゃなくて私だなんて」
「じゃあ、拓弥さんの彼女は貴美子さんでまちがいないですね」
「ええ」
璃々佳ちゃんが話してくれた夏合宿の中で、目立って不自然だった点がこの嘘の綻びだった。
拓弥さんが貴美子さんを抱きしめて慰めていたなんて、ただのゼミ仲間、友達にしては距離が近すぎる。
特別な関係にあると考えたほうが自然だ。
そして、だとするならば――。
「少なくとも、私はそう思ってたわけだしね。知らなかったのよ。貴美子と拓弥が前から付き合ってたことなんて。誰も教えてくれなかった。まぁ私も聞かなかったわけだけど。知ってたら告白なんてしないわ。しかも拓弥は告白を受け入れてくれたんだから、あながち嘘とも言えないわけじゃない?」
「二股をかけられていた、ということですか?」その問いに、景子さんは拓弥さんが言った――おまえも遊びだと思ってた――というセリフで答えてくれた。
「それが貴美子に浮気がばれた拓弥の弁解だった。みんな俺と貴美子が付き合っていることなんて知ってると思ってた。一年以上一緒にいるわけだし、知らないほうがおかしいだろって。あのときは怒りで頭がどうにかなるかと思ったけれど、不思議ね。死んじゃったら、憎さよりもいい思い出ばっかり浮かんでくるんだから。ずるいじゃない……こんなの」
「好きだったんですね。拓也さんのことが」
「当たり前でしょう。私は本当に好きだった。遊びのつもりなんてこれっぽっちもなかった。浮気がばれて、みんなに後ろ指差されたって拓弥がいてくれれば私は平気だった。でも拓弥は私を選ばなかった。いつも泣いてばかりの貴美子のそばにいることを選んだ。いいじゃない、ちょっとくらい、死んじゃった男の彼女のふりをしたって!」
心身ともに傷だらけの景子さんが、さめざめと涙をシーツで拭う姿は目を背けたくなるほどの痛々しさで、思わず躊躇したくなる。
しかし、ここからが本番だ。
下手につけこまれるわけにもいかない。
「景子さん、あと一つ。あるでしょう?」
「なにが?」
「嘘ですよ。まだ嘘をついてますよね」
「ついてなんかないわ! なにを言ってるの? 今さっき自分の馬鹿をこうして晒したばかりでしょう。この後に及んで嘘なんて……!」
「アンドラス」
「……」
「狼にまたがり、梟の頭と翼を持ち、手にはサーベルを携えた、七二柱の悪魔たちのうち序列六三番の大侯爵です」
「……」
「聞き覚えはありませんか?」
「あるわけないじゃない。いい? 私はオカルトなんてそもそも信じてないわけ。なのに知るわけないじゃない。今回のことだって三回目の事故まではただ運が悪いってことにしてて、さすがにちょっと怖くなってきたから――ていうかそんなのどこで調べるって……」
「図書館にあるんですよ。悪魔学の本が。うちの大学の学生なら簡単に調べられます」
「へぇ、知らなかったわ。なら調べてみようかしら、こんな出来すぎた不幸をわかりやすく解説してくれるかも」
景子さんの目は真っ赤で、涙も溢れている。
けれど口元にはどういうわけか笑みがこぼれており、このちぐはぐさが、そのまま彼女の現状を示しているかのようだった。
「図書館には悪魔を召喚する方法について書かれた本もあるんです。グリモアというんですけどね」
「へぇ」
「ここで言う悪魔を召喚するとは、悪魔に願いを叶えてもらうということです。グリモアにはその手順が書かれています」
「……そうなんだぁ」
「願いと言っても色々あります。勉学や運動がうまくいくようにだとか、健康祈願や縁結び、そして……呪いも」
「……」
「調べたんです。景子さん、あなたはチャーリーゲームをした日より一ヶ月以上も前に、グリモアを図書館から借りてますね?」
「……」
「アンドラスは七二柱の中でもとりわけ危険な悪魔です。叶えてくれる願いは……皆殺し。ときに召喚者の命すら奪うほどの殺戮を実現する悪魔、それがアンドラスです」
「……」
「あなたは拓弥さんと貴美子さんのことが許せなかった。だから……呼びましたね? アンドラスを」
「……」
「半分は冗談だったんでしょう。でももう半分は本気だった。あなたがこんなオカルトごときに身を寄せなければならないほど、彼らのことが憎かったんですから」
「知ったな?」
ことここに至って、景子さんはニッコリと微笑んだ。
「知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?知ったな?」
知ったな!!!!
景子さんが声を張り上げたのと、世界が転調を起こしたのはほぼ同時だった。
看護士が来る様子は、やはりない。
いや、たまたま気づかれなかったわけではないのかもしれない。
ここに足を踏み入れたときから、悪魔はずっとそばにいたにちがいない。
下腹部に力を入れて景子さんと対峙する。
恐怖で支配されたら、もうそれこそ終わりだ。
「もう後戻りなんてできない! ええそうよ私が悪魔を呼んだの! 冗談だったのに……ただの気晴らしだったのに!」
「やけにならないで! 落ち着いて! まだ間に合います!」
「なにに間に合うっていうの!? もう二人も死んじゃったんだから! 二人も死んだ! 貴美子も拓弥も私のせいで! ざまーみろ!」
景子さんはシクシクと泣きながら、ゲラゲラと笑う。
転調の激しさはとどまるところを知らず、世界が裏返ったかのようにすら感じる。
そして、私は見た。
景子さんの左側に控える、床から天井まで覆い尽くす巨大な暗黒を。
それは息づくかのように、真っ黒な影全体がわずかに膨み、しぼむのを繰り返している。
「そんなにできるっていうなら、助けて見せてよ! 人殺しの悪人をさぁ! 本当はもうとっくに遅いんだよ! 誰かを呪い殺してただですむわけなんてないんだから。それを教えにきたんでしょう!」
影の暗さが見る見るうちに深まっていき、黒の固まりは昼の最中にあって切り取られた夜の海のようだった。
「痛い! 痛い痛いああ! つぶれちゃう潰れちゃう!」
苦しみだした景子さんの左手には、暗黒がまとわりついている。
存在しないはずの左手を必死になって振り回す景子さんは、血が出るほど唇を噛んで痛みに耐えていた。
転調したままの世界でいて、どうにか助けを呼ばなければと景子さんに背中を向ける。
だが背後から聞こえてきた呪詛は、もはや景子さんのものとは思えなかった。
グチャグチャグチャグチャ――という異音とともに、無理矢理引き延ばされて不格好な低音と化した声が、いまわしく鼓膜に響く。
みんな道連れにしてやる。
そう聞こえた瞬間、左手になにかが触れたのがわかった。
どうしようもない不浄さが左手から伝わってきたのがわかって、あまりの不快さに総毛立ってしまう。
だが、それは一瞬のことだった。
眼の前を亜麻色の髪をした誰かが立ちはだかったのを合図にして、激しくなっていく転調はスイッチを切ったように終わり、誰かに背中を思い切り押された。
転ぶようにしてカーテンの外へと出る。
そこは先ほどまで過ごしていた平和な病院で、外からは陽光が差し込み、遠くでは人の話す声も聞こえる。
振り返って景子さんがいるはずの場所を見ると、変わらずカーテンに囲われているだけで、中は見えないものの暴れている物音はなかった。
あの巨大な暗黒も消え、あれだけ取り乱していた景子さんの声も聞こえない。
まるで誰もいないんじゃないかと思うほどの静寂さだけがある。
カーテンからわずかに透かして見える景子さんの姿は、落ち着き払っていて、身じろぎ一つもしない。
今から思えば看護士を呼ぶべきだったかもしれないが、そんなことを思いつく余裕なんてなかった。
逃げるようにして帰宅した後、何度も何度も、アレに触られた左手がガサガサになるまで、洗い続けていたことをよく覚えている。
◆
「なんで一人で行っちゃうんですかぁ!?」
病院での顛末を話すと璃々佳ちゃんはプンプンだった。
平日の夕方だというのに、居酒屋はわんさと酔客でひしめいているが、璃々佳ちゃんは人目もはばからず両手でポカポカと叩いて怒りを表現していた。
「ご、ごめんって」
「なんでそんなことするんです? 私たちはもはや運命共同体でしょう。ヤマーさんが大変なときは私にも大変さを分けてくれなきゃ駄目ですからね!」
いつから運命共同体になったのかは不明だが、おこな璃々佳ちゃんを激おこプンプン丸にするわけにもいかないので、そこはスルーで。
「いやでも、璃々佳ちゃんを危ない目に遭わせたくなかったから」
「いいんです! 私なんかいくらだって危険な目に遭わせても! そんなことより、ヤマーさんと苦労を共にできないことのほうが悲しいです」
「そうは言ってもさ。璃々佳ちゃんみたいな可愛い子を泣かせたくないんだよ」
「……!」
璃々佳ちゃんはまたポカリポカリと叩いてくる。
しかも今度はけっこう強めに。
「もー。ヤマーさんは本っ当に……もー!」
「あの……イチャつくのはそろそろその辺にしていただけませんかね?」




