漆 『チャーリーゲーム』 1/10
君は悪魔に魂を売ることができる人間か?
西洋の宗教観を語る上で、悪魔の存在を無視することはできないだろう。
キリスト教のような一神教において、神について語ることはすなわち悪魔について語ることでもあった。
なぜなら神の絶対的な善性や全知全能を確保するためには、世界の汚さや矛盾を一身に引き受ける存在がどうしても必要だからだ。
より明るい光がより暗い影を作り出すように、神の力が強大であればあるほど、悪魔の力は強大になっていく。
世界の釣り合いはそうやってとられているというわけだ。
悪魔は世界のバランサーだと言える。
現代社会をソドムやゴモラのように謗る人間もいるが、実のところこの世界は完璧なバランスで成り立っているのだ。
しかし、バランサーである悪魔の力を借りて、強引に世界の均衡を崩した人間たちが多くいる。
それは最初の人間――アダムから始まり、有名どころで言えばドクトル・ファウスト、音楽好きを自称する身としてはロバート・ジョンソンが挙げられるだろう。
アダムは知恵を、ファウストは享楽を、ロバートはギターの演奏技術を、それぞれ手に入れた。
結果、彼らはみな死ぬことになる。
悪魔は均衡を崩してはくれるが、同時にバランサーである彼らは均衡を戻すために代償を求める。
人間が自身の願いを叶えるためには――均衡を崩すためには――相応の代価が必要だ。
悪魔が騙る「願いを叶えてやる」ということは、その代価を無理矢理に徴収するということでもある。
人間に払える最大の代償は自身の魂だ。
つまり、悪魔と出会った彼らの願いは、自らの魂と吊りあうものだったということになる。
ここでもう一度、改めて聞こう。
君は悪魔に魂を売ることができる人間か?
悪魔が魂を要求するほどの願いを、君はもっているか?
死んでも叶えたい願いが君にはあるか?
悪魔と関わらない人生を否定はしない。
そういう生き方もありなはずだし、むしろそれは人生に対して真摯な姿勢で、少なくともキリスト教の教義的には望ましいものですらあるだろう。
それでも、私は悪魔を探してる。
敬愛すべき愚者である先輩が、そうだったように。
私も悪魔を探してる。
◆
『チャーリーゲーム』
二年目の十一月。
「ヤマーさん。あーん」
「……」
璃々佳ちゃんはスプーンによそった期間限定のキノコのリゾットを口元へと差し出してくる。
「まだ熱いですか? ふーふーふー。はい。あーん」
「……」
小さな口をすぼめて息を吹きかけ、粗熱を丁寧にとってから改めて口元へと運ぶ。
それでも食べないでいると、だんだん璃々佳ちゃんのほっぺがむくれてきた。
「あーん!」
「……あーん」
観念してリゾットを食べる。
マスターが友人から仕入れている天然ものの舞茸の香りと、しめじの味が口に広がる。
ベーコンの塩気が全体の風味をぐっと引き締めつつ、生クリームがすべてに調和をもたらしていた。
期間限定であることが惜しまれる一品である。
「美味しいですか?」
「おいひいけど……んぐ。一人で食べられるから大丈夫だよ」
「えー、ヤマーさんと食べさせっこしたいのにー」
「恥ずかしすぎるから勘弁して」
「ちぇー」
そんなこちらのやり取りを、マスターは微笑ましそうに眺めている。
目が合うとバツが悪そうに目を逸らされた。
オカルトサークルに入部してからというもの、部室代わりにこのバーに入り浸っていることが多い。
居心地は非常に良好なので気に入っているが、どうも璃々佳ちゃんとの関係性をマスター含む店員さんたちに誤解されているような気がしてならない。
黙々と早めの夕食を済ませていると、璃々佳ちゃんは肩に頭を乗せる形でこっちに寄りかかってきた。
邪険にすると悲しそうな顔をするので、基本的には璃々佳ちゃんにされるがままだ。
だいたい、四人掛けのボックス席に座っているのに、なんで璃々佳ちゃんは毎回毎回対面ではなく隣に座るんだ。
おかしいだろ!
と言いたいところだが、言ったところで「だって私はヤマーさんが好きなんですよ? なにもおかしくないじゃないですか」とか平然と言い返されるので、やっぱりされるがままになっている。
というかどうも一ヶ月前の出来事からこっち、璃々佳ちゃんの性格が変わった気がしてならない。
いや、むしろこれが素なのだろうか。
基本的には優しくて気だてのいいお嬢さんだが、あの日以来、目に見えて押しが強くなった。
こんなにグイグイくる女の子だったのか。
真面目な話、璃々佳ちゃんはかなり可愛いとは思う。
服装も女の子女の子していてオシャレだ。
白いワンピースに黒のベスト、茶色いロングブーツなガーリーファッションがよく似合う。
特筆すべきはワンピースで、フリルつきのふわふわな生地になっており、腰のあたりが絞った作りになっているので、璃々佳ちゃんの大きなお胸が強調されていた。
彼女と同じアパートに住み、同じ大学に通い、同じサークル活動を通して仲良くなれたという奇跡には感謝している。
でもそれは友人としてであって、恋愛関係じゃない。
恋愛関係じゃない。
大事なことなので二回言っておく!
「ヤマーさん」
「うん?」
いつのまにか、恋人繋ぎで右手の指を絡めとられていた。
「ヤマーさんの指、あったかくて、長くて、とっても固いです……」
「ギター弾いてるからだよ。ていうかなんか言い方が――」
「その、考えてくれましたか。私とのこと……」
「……」
「あの日から一ヵ月が経ちました。そろそろ変化があってもいいんじゃないでしょうか」
「ん、んーと……なにが?」
「もうっ! わかってるくせに。私の恋人になってくださいって話です」
「う、うん」
「あんなことをしでかした私を許してもらえたこと、とっても感謝してます。あんなことをしたのに、こうしてそばにいてもらえるなんて――」
「取り憑かれてたんだからそれはしょうがないんじゃない?」
「でも……私、ヤマーさんのこと包丁で――!」
「声が大きいよ」
とっさに璃々佳ちゃんの口元を手で塞ぐ。
幸いマスターたちの耳には入らなかったようだ。
だが璃々佳ちゃんは口を塞いだ手をとると、それに頬ずりを始めた。
ふにふにとした璃々佳ちゃんのほっぺたの感触が手のひらに伝わる。
「好きです。ヤマーさん」
「……だからね。それは無理なんだよ」
「なんでです?」
「なんでもなにも、だって私……女だし」
「?」
「いや「?」じゃなくて。なんで可愛く小首を傾げるのかな」
「……!」
可愛いと言われて、璃々佳ちゃんは急にうつむいてしまう。
耳まで真っ赤っかだ。
ああもう!
可愛いなぁ!
いやちがくて! そうじゃなくて!
とか自分にツッコミを入れつつ、相対化して距離を置きつつ、冷静に璃々佳ちゃんを諭すモードへと移行する。
「璃々佳ちゃんのことは好きだし、とっても大事に思ってる。けど、恋人だとかそういう風には考えられないっていうかさ。親友として付き合っていきたいなって――」
「いいですよ、それでも。私は恋人として付き合っていきますから」
んん? 日本語が伝わらないですぞ?
「友達以上、恋人未満って一ヶ月前も言ってましたし。ヤマーさんはそれでいいですよ。私は友達以上、恋人以上、夫婦ニアリーイコール、倦怠期未満くらいの気持ちでいきますから」
「……」
「つまり、プラトニックラブということで、一つ」
プラトニックラブの意味おかしいって!
とは思うが、とりあえず貞操は守ることができそうなのでひとまずこの辺で手を打つことにしよう。
「うん。まぁ、とりあえず恋人はちょっと無理ってことが伝わってればそれでいいんだ」
「プラトニックなのは今だけですけどね……」
おおう……。
ぼそぼそ言ってる璃々佳ちゃんのセリフがはっきり聞こえてしまったが、これは聞こえなかったふりをしておく。
「ところで、そろそろ次のお客さんのことを聞かせてもらえないかな!」
「はい! えっと……今日は次のかたでおしまいですね」
オカルトサークルの部員兼マネジメントを担当している璃々佳ちゃんは、手帳を取り出してスケジュールをチェックし始める。
一ヶ月前の出来事をきっかけにして、先輩にオカルトサークルに入れてもらったのだが、後日、璃々佳ちゃんも入部することとなり現在に至っている。
オカルトサークルは、その名に恥じないゴーストサークルであり、現部員は先輩がツテを使って名前だけ借りている幽霊部員のみで構成されている。
先輩はすでにOBなので、部員は実質この二人のみだ。
さらに先輩にまつわる悪評が大学内には蔓延しており、オカルトサークルのイメージはお世辞にも良くない。
おかげで軽音楽部の人たちには距離を置かれてしまって、ほとんど顔を出せなくなってしまった。
まぁ、そっちのほうは人間関係でだいぶうんざりしていたし、バイト先で別のバンドを組むことになったのでかまわないと言えばかまわない。
しかし、いかんせんあの変人、河野康一が率いるオカルトサークルに所属しているというだけで、なにかと一歩引かれてしまうことが想像以上に多いのだった。
具体的に言うと、ただでさえ少ない友達がさらに減り、大学で一緒に過ごすのは璃々佳ちゃんだけというのが現状だ。
自ら望んで入部したとはいえ、これにはけっこうくるものがある。
結局、自分はそういう薄っぺらい人付き合いしかできていなかったというわけだ。
これでも自覚はあるので、彼ら彼女らのことを悪しざまに言うつもりはないが、凹むものは凹む。
それを見かねたのか、璃々佳ちゃんから「イメージアップです。私たちでこのオカサーを立て直すんです! 私に任せてください!」という提案があった。




