陸 『事故物件』 9/10
おぼつかない足取りで靴を脱いで家の中に入ると、そこは闇に閉ざされていた。
暗くなければ眠れないので、遮光カーテンを使っていることが暗さの原因だった。
設置された蝋燭も燃え尽きている。
さすがにこれではスマフォを探すことはできないので、電気をつけようとスイッチに手を伸ばす。
だが急に着信音が部屋に鳴り響き、それとともにバックライトが点灯したために位置はすぐにわかった。
暗い室内をスマフォの明かりを目指して進む。
途中でなにかにつまづきながらも、スマフォを手にして着信を確認すると、見たことのない番号だった。
こんな時間に、いったい誰だろう?
出ようかどうか逡巡するが、しつこく鳴る着信音に根負けして、電話をとる。
「今どこにいる?」
誰かと思えば、バーで寝ているはずの先輩だった。ちなみに先輩にこの番号を教えてはいない。
「先輩ですかぁ。なんれこの番号知ってるんれす?」
呂律が回っていない脳天気な声で返事をすると、先輩は対照的に真剣な口調で同じ質問を繰り返した。
「今どこにいる!?」
どうも先輩の息づかいから察するに、走りながら電話をかけているらしい。
なにか、とても切羽詰まっているように感じられる。
自分がなにかとんでもないことをしでかしている気が……。
「えっと、家ですけど」
「バカヤロウ! 今すぐ外に出ろ!」
明日の昼まで家に帰ってはならない。
そう言っていた先輩の言葉を、ここにきてようやく思い出す。
そして、急速に酔いが醒めていく頭で、現状の異様さに気がついた。
ここに入るとき、鍵を開けたっけ?
鍵は閉めた、と先輩は言っていたはずだ。
思い出す数分前の自分は鍵を使わないで家の中に入っていた。
それはありえてはいけないはずだった。
なにより……部屋の入り口につまづくようなものなんてあったか?
ちょうど部屋の暗さに目が慣れてきた。
はっきりとはわからないが、なんとなく部屋の様子は視認することができる。
そこで部屋の入り口に頭を動かそうとする。
この時点でなにかがマズいとはわかっていた。
今すぐ部屋を飛び出したほうがいいことも。
だができなかった。
恐怖を確認せずにはいられない。
振り返ると、薄暗い部屋の中で、深く帽子を被った男が体育座りしているのが浮き上がって見えた。
視界のはしにあのダッチワイフがある。
一生懸命に膨らましたダッチワイフは一晩経って萎んでいる。
いやちがう。
帽子の男の右手にあるものが目に入る。
それは出刃包丁だった。
ダッチワイフはそれでメッタ刺しにされたんだ!
それがようやくわかったところで、ゆらりと男は立ち上がった。
殺される!
殺意に気圧され、一歩後ずさるが、そこでなんとか踏みとどまる。
ここで戦意を喪失したら、一方的にやられるだけだ!
そう直感してからは、自然と体が動いた。
「うおおお!」と雄叫びをあげ、幼少の頃より習っていた少林拳法の震脚を駆使して一気に間合いを詰め、その勢いのまま寸剄を相手の右肩に叩き込む。
無駄なく威力を伝えた寸剄は、帽子の男を一気に壁まで吹っ飛ばした。
右手を踏みつけて包丁を離させてから、そのまま腕の間接をキメてうつ伏せに組み伏せる。
よし! このまま腕の一本でも折ってしまえば!
とわずか十秒足らずの時間で相手を制圧したことで、いくらか心に余裕が産まれたのか、とある疑問が次から次へと溢れてきた。
腕を折る?
幽霊の骨って折れるのか?
待て、本当に幽霊なのかこれは?
本物の人間としか思えないっていうか……男のはずなのに、なんか……ずいぶん華奢だ……というよりも柔らかいというか……。
そこまで考えたところで、聞き覚えのある声が聞こえた。
「い、痛いです……ヤマーさん」
「え?」
「遅かったか……」
全速力で街を駆け抜けた先輩が、肩で息をしながら登場する。
部屋の電灯のスイッチが入る。
帽子が脱げている男の顔を見た。
しかし、それは男じゃなく、女の子だった。
しかも良く知っている、顔見知りで仲のいい女の子――大天使、カワジリエルだった。
◆
「けっこう話が込み入ってるんだけど、要するにさ、今回幽霊に取り憑かれていたのは山岸だけじゃなくて、川尻もなんだ」
後から駆けつけてきた先輩がひとまず間に立ち、落ち着かせてくれた。
「本当はまず俺がここへ来て、朝のうちに川尻を秘密裏に処置するつもりだったんだが……」
「忠告を破ってごめんなさい」
正座しながら平謝りするしかない。
どう考えてもこちらが悪かった。
隣にいる璃々佳ちゃんも正座をして先輩の話を聞いている。
璃々佳ちゃんの服装はあのビデオカメラに移っていたストーカーのものだった。
璃々佳ちゃんは半泣きになりつつも、どうにか涙を流さないようにこらえていた。
思い切り右肩を殴ってしまったので、おそらく内出血を起こしているだろう。
今でも痛みに耐えているにちがいない。
どれだけ猛省しても足りないくらいの罪悪感がある。
とりあえず、正気ではあるようで璃々佳ちゃんに取り乱したところはない。
大きくちがうのは先輩が用意したお札を、キョンシーのように額に張り付けていることだ。
「順を追って話そう。この部屋はストーカー殺人の被害者である女の子が殺された現場、いわゆる事故物件だ。被害者の女の子が幽霊となって、霊障が起きるようになってしまった。人が居着かなくなった物件に悩んだ大家は大金とともに、俺のところへ話を持ってきた。
結論を言えば、俺が施したお祓いには効果があった。
だが片手落ちだった。
俺は見落としていたんだ。加害者の男のほうをね。
この事件の加害者である男も、事件の直後、警察に捕まる前に部屋で自殺しているんだ。
その部屋は被害者と同じアパート。
すなわち川尻の住んでいる部屋だ」
巻き込んでしまって申し訳ないと、先輩は頭を下げて、璃々佳ちゃんに謝罪をした。
ダッチワイフを取り出したときはふざけているのだとしか思えなかったが、どうやら本当に責任を感じてはいるらしい。
「幽霊というのはつまるところ想いの塊だ。蟻地獄のように周囲を巻き込んでいく。そこに落ちてしまった君は、幽霊に引っ張られる形でこんなことをしでかしてしまった。君は悪くないよ。これまでのことは忘れるんだ。君が抱いていた気持ちは、想いは、ストーカー男の幽霊によって刷り込まれたものだから」
「……」
璃々佳ちゃんはそれを聞いても返事をせずに、なにかをずっと考えているようだった。
それはこっちも同じで、どうしても腑に落ちないことが残っている。
「でも、じゃあ……あのときのカメラの映像はなんだったんですか? だって押入には誰もいなかったんですよ?」
「たぶんだけど……本当はいたんだと思うよ」
「え?」
「だって、君も取り憑かれてたんだから。被害者の女の子の幽霊に」
「でもさっき先輩は成功したって……」
「効果があったと言ったんだ。成功か失敗で言えば、失敗だった」
悔しそうに先輩は顔を歪ませていた。
「男の幽霊の影響を受けて、一度散らせた彼女の霊がまた形を成してしまった。それが君に取り憑いていたものの正体だ。もっとも、今はもう平気だから安心して欲しい。山岸のほうはちゃんとこっちに移しておいたから」
先輩はくしゃくしゃに丸められたダッチワイフを持ち上げて見せてくれた。
アレにそんな意味があったなんて、いったい誰が想像できようか?
「わかりやすく言えば、君たちは被害者と加害者の幽霊に取り憑かれて、過去の事件の焼き直しを演じさせられていたんだ。もっとも、山岸のほうは耐性があったから、感情や精神面まで引っ張られなかったようだが」
ん?
さっきから先輩の発言になにか引っかかる部分があるが、それがなんなのかがわからない。
「川尻も、もう大丈夫なはずだ。おでこにあるお札は部屋のどこかに貼っておけば十分だから」
先輩はドラムバックに荷物をまとめ終えて部屋から立ち去ろうとする。
「君たちには悪いことをした。これは俺の不始末で起きたことだ。この償いはちゃんとするから、なにか困ったことがあったら頼ってくれてかまわない。できる範囲内でなんでも一つ、お願いを聞こう」
本当に、すまなかった。
そう言って、再度先輩は頭を下げた。
まだ理解は追いつかなかったが、どうやらこれで今回の件は解決らしい。
「嘘をつかないでください!」
今まで黙っていた璃々佳ちゃんが、いきなり立ち上がって、先輩に大声で噛みつく。
「私の気持ちが刷り込まれたものだなんて、そんなことあるわけない!」
いつもの穏やかさはどこにもなく、常軌を逸した喧嘩腰だったが、正気を失っているとかそういうわけではないようだった。
「刷り込まれていない気持ちが、この世にどれくらいあるんだろうね」
「は? なに言ってるんですかあなた?」
「俺からしてみれば人間に自由意思なんてほとんどないんだよ。みんな自分の頭で考えた気になって、自分でなにかを選びとった気になっているだけだ。別のなにかに考えさせられて、選ばされているってことを考えもしない。俺も君もね」
「……そんなこと、そんなこと――」
「でも、それがどうしたって君は言いたいんだろう?」
「……」
「俺は君が自分の行いを思い出すと辛いだろうから、忘れることを推奨したわけだけど、その痛みに耐えられるなら、それを君の本当にすればいい。誰かに選ばされたとか、そんなことがどうでもいいと本気で思えるならね」
「……」
「少なくとも俺は、それを笑ったりなんてしない」
璃々佳ちゃんはしばらく逡巡してからこっちに振り向いた。
目には涙が溜まっているが、その表情に弱さはなくて、きっと結んだ唇と瞳にはしっかりとした力強さが宿っていた。
可愛いくて、気が利いて、心優しくて、守ってあげたくなるような彼女はそこにいない。
でも、初めて彼女のことを綺麗だなと、そう思った。
「私、ヤマーさんが好きです! 愛してます!」
だが、璃々佳ちゃんの大声のカミングアウトで、一気に脳が処理落ちした。
「え?」
「幽霊なんかどうでもいいです! 私はヤマーさんを愛してます! この気持ちに嘘なんてない!」
「ええ?」
「私と付き合ってください!」
「えええ!?」
「おめでたう」
先輩はそうつぶやいて、一人で拍手をしている。
なにが起きているのか、完全にわからなかったが、先輩が今の状況を面白がっていることだけはわかった。
「いや、好かれてるのは嬉しいけど、付き合う? 本気で言ってるの?」
「私は本気です!」
「いやでもちょっと落ち着きなってもう少し考えてみなよ。やっぱり気のせいかもしれないよ?」
「気のせいなんかじゃないです。せんぱ……ヤマーさんはじゃあ私のことが嫌いですか!?」
「嫌いじゃないし、好きだけどさ」
「じゃあいいじゃないですか!」
「良くはないよ!」
「なんでですか!?」
「なんでもなにも、だって――」
色んなことが起こりすぎて、もうわけがわからなかったが、とりあえず何があっても変わりようがない、厳然たる事実を叫ぶことにした。
「私、女だし!」