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陸 『事故物件』 7/10



「おい、いい加減に起きろって」

「ふぁい……あさー?」

「しっかりしろ。まだ夜だし、こんなところでいつまでも寝てたら風邪引くぞ」

「……は!」


 先輩の声に起こされて、上半身を跳ね起こす。

 家の中にいたはずなのに、気がつくとアパートの前にある公園のベンチで横になっていた。

 日中は暑いものの、夜ともなれば涼しい風が園内に流れ込んできている。

 不思議と寒くはなかったがそれもそのはずで、身体には先輩のカーディガンがかけられていた。

 うっすらと香水の匂いが香る。

 ちなみに枕にしていたのは、これも先輩のドラムバックである。


「今日は実家にでも帰れ。あそこには明日の昼まで戻っちゃいけない。たぶん、これでもう大丈夫なはずだ。俺は帰る」


 お礼を言わせる隙も与えずに、先輩はカーディガンとドラムバックを引ったくって身支度を整えた。


 時間を確認すると、あれから二時間も経過していることに驚いてしまう。

 そろそろ深夜に差し掛かろうかという時間だ。


「実家は遠くて、もう終電がありません」

「じゃあ、友達の家にでも泊めてもらえ」

「それが……その……」

「どうした? まさか友達がいないのか」


 図星だった。


 いや、友達がいないということもないのだけど、泊まるにはちょっと抵抗のある距離感というだけだ。

 変な空気になりそうで怖い。


 だが繰り返す、友達がいないというわけではない。

 断じて。


 考えていることが表情に出ていたのか、先輩は哀れみの目線をくれつつもそのことに触れてはこなかった。


「マンガ喫茶……はちょっと厳しいか。それなら駅前のビジネスホテルにでも泊まっておけ。じゃあ俺は帰る」

「ちょっ――待ってください!」

「なんだ?」

「先輩の家に泊めてください」

「……は?」

「お願いします! もう無理です! 今夜だけでいいんで! 今夜だけ、今夜だけは一人でいたくないです!」

「駄目だ」


 ストレスが限界を超えた人間に向けて、先輩は冷たく突き放す。

 なんて人なんだ……。


「いいじゃないですか、今夜だけなら! お金はちゃんと払いますし、家事でもなんでもしますから、どうかお願いします!」

「駄目だっつの! 我慢できるか! 子供じゃねえんだぞ!」

「自分は我慢できます!」

「俺ができねーんだよ! 俺が!」

「そんなに嫌わなくてもいいじゃないすか……」


 そう言って涙ぐんで恨めしそうに睨むと、「そういうんじゃなくてだな……」と先輩はたじろいでいる様子だった。


 押せばいける!


「お願いしますよぉーせんぱぁーい!」

「試しに周りに声かけてみろって。君にはわからないかもしれないが、他人というのは頼ってみると意外に応えてくれるものなんだぞ」


 なんだかんだで八つ年上の社会人らしい言辞を弄して、先輩はこちらを諭してきた。


「いや、そうかもしれませんが……正直言って怖いっていうか……こっちは友達だと思ってたのに実は嫌われてて、断られるんじゃないかと思うと辛くて……」

「俺も君のことが嫌いだし、断っているんだが?」

「先輩はなんか大丈夫です」

「このやろう……」


 我ながら出会って半日ていどの人間にけっこうな言いぐさだと思うが、なんとなく先輩と話しているとこういう言葉遣いになってしまう。


 強いて言えばこっちも先輩にやられてるので、まぁ五分五分だと感じられるところだろうか。


「せんぱぁい。お願いです。一生のお願いです。今夜だけは一緒にいてください。本っ当に、怖いんですぅ……」

「……」

「せんぱぁい……」

「チッ……わかった。よーくわかったから、その甘えた声を出すのをやめろ。気持ちわりぃ」


 聞こえよがしの舌打ちに、露骨に眉をひそめながらも先輩は「ついてこい」と言ってくれる。


「朝まで飲むぞ。君の奢りでな」

「はい!」







「ここに来るのも、ずいぶん久しぶりだ」


 先輩は大学の近くにあるショットバーに案内してくれた。

 お酒と言えばチェーン店の居酒屋でピッチャーばかりの大学生には新鮮な場所だった。

 それなりに広い店内に先客はいるものの、みな社会に出て働いている年上のかたたちばかりで、しっとりとお酒を飲んでいる。

 控えめにボリュームを絞られているウェス・モンゴメリのギターが心地よい。


 アルバムはたぶん「Full House」だ。


「なんか緊張します」

「緊張するくらいなら、ゲロでも吐いてればいい」


 バーテンに案内されるよりも前に、奥のほうにある四人掛けのボックス席に先輩は勝手に腰掛けてしまう。


「こんな場所でゲロはちょっと……」

「学生の頃は俺もマスターもよく朝まで飲んでゲロ吐いてたぞ」


 カウンターに立っているスキンヘッドがよく似合うナイスガイが、こちらに向けて満面の笑みでサムズアップをしている。

 あなたが酔いつぶれてどうする?

 というツッコミが野暮になるくらいの心意気を感じる。


「そんな調子じゃカクテルもわからないだろ。マスター、アースクエイク二つ。チェイサーはなしで。あと乾きものをこいつに一つと、いつものやつ」


 いつものとか通ぶった頼み方をするのでなにかと身構えるが、出てきたものは油揚げを軽くあぶって鰹節とネギと醤油で味付けをしたつまみだった。

 完全に居酒屋のメニューだったが、先輩はそれに手をつけようとはしない。


「なんで食べないんですか?」

「お供え物だからね」

「は?」

「いや、俺にはこいつがあるしさ」


 先輩がドラムバックをひっくり返すようにして取り出したのは、大量の薬だった。

 マスターが華麗にカクテルを作っているあいだ、先輩は両手ではきかない数の錠剤をテーブルの上に並べている。

 淡い白色の円盤が次々と飛来しては、目の前に着陸していく。

 名前をチラ見すると「ソラナックス」「レボトミン」「デパケンR」「ソメリン」「インヴェガ」「フルメジン」「ヒベルナ」などなど聞いたこともない名前が並んでいる。


「なんすかそれ?」

「向精神薬」

「……」


 それって酒のつまみとしてありうるのか? ていうか駄目なんじゃない?


 どん引きしながら見ていると、先輩は「ちゃんと俺に処方されたやつで裏で買ったわけじゃないぞ。なんなら障害者手帳も見せて証明してやってもいい」とか言ってきた。


 全っ然、フォローになってないし、問題はそこじゃない。


 運ばれてきた地震という名のカクテルは、緑とも黄色とも言えない微妙な色合いをしていた。


「乾杯」とグラスを傾けてから、おそるおそる舐めてみると思いの外、口当たりは悪くない。

 もっとアルコール丸出しかと予想していたがそこはカクテル、香りもハーブ系である。


 美味しいかどうかはわからないが、飲めなくはない。


 先輩はテーブルに並べた小さな円盤たちを一つつまんで口に含んでからグラスに口をつける。

 飲みっぷりがサマになってはいるものの、やっぱり引く。


 けどこれはこれでロックなような気がしないでも……。


「おい、なにか話せ」

「いきなりですね」

「君が無理に誘ってきたんだ。盛り上げるのは君の仕事だろう。明日の朝まで俺を楽しませるんだ。いいね」


 言われてみればその通りである。

 だが、喋るのはそんなに得意ではないので、構えてしまうと余計に何を話せばいいのかわからない。


「大学生にもなって鉄板話の一つもできないのか? 顔でちやほやされるやつはこれだから……」


 早くも二つ目の薬を飲み下しながら、わかりやすく先輩は挑発してくる。

 そりゃ存在自体が面白い先輩に披露できる話なんてありませんよ、という売り言葉が浮かぶが、真面目に買われてしまいそうなのでぐっとこらえる。


「しょうがない……じゃあ、君が見てきた幽霊の話をしてくれ」

「ゆ、幽霊の話ですか?」

「ああ、一つや二つじゃないんだろう? どんなものでもいい。思い出せる限り全部話すんだ」

「でも……」

「どうした?」

「そんなこと話したことがなくて……、ちゃんと話せるかわからないし……それに……引きません?」


 先輩は一瞬きょとんとしてから、大声で笑い出した。


「あっはははは! 俺が引くくらいの話を君ができるって言うのか? あーははっは! できるじゃないか面白い話! ひーははは! ここまで笑えるなんて久しぶりだ!」


 くそう……ここまでやられると、あんな心配をしたのがただの馬鹿みたいじゃないか。


「わかりました! それじゃあ話してあげますよ。今まで見てきた幽霊たちを全部!」

「ああ、頼むよ。俺がションベン漏らすくらいの奴をやってくれ」

「くぅ、むかつく……」


 というわけで、百物語よろしく夜通しの怪談話はこうして始まった。







 これまで、幽霊なんて見ても見えないふりをしてきたものだから、自発的に思い出すなんてほとんどしたことはなかった。


 なのに一度振り返ってみると、次から次へと、驚くほど詳細に記憶が蘇ってくる。

 最初のうちだけはヘラヘラと馬鹿にした様子の先輩だったが、話が始まるととても真剣に聞いていた。


 先輩はやたら聞き上手で(精神科医のカウンセリングを何度も受けていたら身に付いたらしい)、話し下手なこちらの話を相槌や質問を挟むことでスムーズに誘導してくれる。


 高校のとき、中学のとき、小学校のとき、幼稚園のとき。


 記憶の底の底にいた幽霊は、まだ口も聞けない乳幼児の頃のものだった。


 それは家の中にたまに姿を現す、二人の初老の白人の姿だった。


「それ、君のお爺さまとお婆さまだったんだろう?」

「よくわかりましたね。ロシアにいるはずの、おじいちゃんとおばあちゃんが家の中にいるんですよ。無言でしたけどだいたい笑ってたんで、当時は幽霊だってわからなかったですけど」

「だろうねぇ。子供は幽霊を見ることが多いから」


 先輩はまた一つ、薬を肴にしてアルコールを飲み干していく。

 気がつくと時刻は深夜の二時を回っており、もう店内にいる人間はまばらだった。

 けれど、眠気はほとんどなかった。


「なんだよニヤニヤして、気持ちわりーな」

「いや、こういうことを他人に話したことが初めてで。ちゃんと聞いてもらえることが、意外と嬉しくて……」

「すりゃあいいじゃねえか。別に」

「しませんよ。信じてくれませんから。嘘つき扱いされるだけです」

「そういうもんかね。退屈な本当の話されるより、面白いホラ話する奴のほうが俺は好きだけどな」


 くああ――と、また大口を開けて先輩はあくびをする。


「幽霊ってなんなんですかね? 先輩は天国とか地獄とかどう思います?」

「そんなものはない」


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