陸 『事故物件』 6/10
好きにしてくれとは言ったが、こうして自分の部屋を他人に滅茶苦茶にされるというのはけっこうショッキングだった。
どうしたって敷金のこととかを思い浮かべてしまう。
だが、先輩も無意味にそんなことをしたわけではない。
壁紙の下からは大量のお札が現れたからだ。
うわぁ……うわぁ……。
長方形の和紙に、黒ではなく朱色で図形と文字が記されている。
「うーん……変だな」
その変がなにを指して変なのか、こちらとしてはもはや判断がつかないのだが、先輩は眉間に皺を寄せながらロイヤルミルクティーを口に運ぶ。
一口飲んでから少し間があったが、ぐいっとすぐに飲み干してまた考えごとに移ってしまう。
味に関心なんてないのかと思ったが、空になったカップを片して、もう一杯持ってくると、すぐに手をつけてくれた。
どうやら気に入ってもらえたようだ。
「君はベッドの下のことには心当たりがあったりする?」
「ベッドの下、ですか?」
「うん。ほら、ちょっと向こうを持ってくれ」
二人でベッドの位置を少しずらす。
これでもこまめに掃除をしているつもりだったが、ベッドの下はうっすらとホコリが溜まって――。
「わぁ!」
思わず声が出た。
そこにはうっすらとホコリが溜まっている、部分もある。
だが溜まっていない部分もある。
ホコリで白っぽくなっている部分と、布で乾拭きしたかのようになっている濃い茶色のフローリングの部分。
問題は濃い茶色のフローリング部分が人の形に白く縁取られていることにある。
それはまるで、ベッドの下で誰かが寝そべっていたかのような……。
「なんなんですかこれ!?」
「誰かがいたんだろうな」
取り乱している自分とは対照的に、先輩は落ち着き払っていた。
幽霊が見えるとは言っても、いくらなんでもこんなことは産まれて初めてだ。
気持ちが悪い。
最悪だ。
なんでこんな目に遭わなければならないんだ!
だって、これじゃあまるで、自分が寝ているときにずっと誰かがここにいたってことじゃないか!
情けないとは思いつつも、ついに涙まで出てきた。
カッコ悪い……。
もういい歳なのに、怖くて泣くなんて……。
だが一度こぼれ出した涙はなかなか止まってはくれない。
部屋の隅でうずくまってさめざめと泣いていると、先輩が次の指示をくれた。
「これ、膨らませて」
「なんですこれ?」
「いいから膨らませろ」
うすだいだい色のビニールの固まりを手渡される。
プールや海で使うフロートマットかなにかだろうか?
どうしてこんなものをこのタイミングで膨らませるのか疑問だったが、もうだいぶ心が折れていたこともあって、言われるがまま、グスングスンとか情けない声を出しつつ息を吹き込んでいく。
先輩を見ると、先述のお札を一枚ずつ丁寧に剥がしては横に並べていた。
よくよく見てみると、お札には三種類ほどのパターンがあるのがわかった。
同じお札でも一枚一枚どこかが微妙にちがう。
初めて見るものなのでよくはわからないが、もしかするとこれも先輩の手作りなのかもしれない。
「膨らんだか?」
「くすん……ふぁい、もうちょっとれふ……」
まだ柔いものの空気がだいぶ行き渡ったようで、膨らましているフロートマットの全容が確認できた。
「ってこれ、ダッチワイフじゃん!」
くわえていた空気弁を吐き捨てて思い切りはたくと、膨らみかけのダッチワイフは、ぼぉんという音とともに壁に衝突した。
「おい! せっかくの形代に何をする!」
「ダッチワイフ! ダッチワイフ!」
「顔を赤くして泣いたり怒ったりぐずったりで君も忙しい奴だな」
「赤くなんかなってません!」
「なってるよ……わかった、睨むな。でもあれくらいで大袈裟な。処女か君は」
「ふざけないでください!」
「ふざけてないって、これは本当に必要なことなんだって」
そう言いながら先輩は転がっていたダッチワイフを再度こちらに寄越す。
「ほら、あとちょっとなんだからがんばろうな」
「また騙したりしてないですよね?」
「してないしてない。いいかこれはな、陰陽道の撫物と修験道の筒封じの応用なんだ。応用ではあるが、基になっているのは江戸中期からあるありがたーい呪術様式の一つなんだぞ」
「本当ですか?」
「本当だって。覚耀印日栄先生の『修験故事便覧』に記述がちゃんとある。だからほら、いい子だから。な?」
先輩は大きい手で頭を優しく撫でて宥めてくる。
完全に子供扱いだった。
だが思い返してみると先輩と出会ってからというもの、カッコ悪いところしか見せてないので、それも当たり前といえば当たり前だった。
自分ではもうちょっとデキるほうだと思っていたんだけどなぁ。
そんなことを考えながら半ばヤケクソ気味にダッチワイフを完成させる。
ちなみにこのときの先輩は部屋の中を不思議な足の運びで何度も往復していた。
準備運動だろうか?
「よしよし。よくやったぞ」
「頭撫でるのやめてください。セクハラで訴えますよ」
「そうむずかるなよ。綺麗な顔が台無しだぞ」
「別に……イケメンじゃないんでしょ」
「拗ねるなって」
次に先輩はダッチワイフの……その……股間の中へ煎った豆を、「この煎り豆に花の咲くまでこの封じゆるすまじ」となんだかそれっぽいことを唱えながら一つずつ入れていく。
めっちゃシュールだった。
「この紙に自分の名前と生年月日と性別を書け」
渡されたA4のコピー用紙にそれらの情報を書くと、先輩は達筆な文字で『悪霊封じ 喼急如律令』と記してから折り紙を始めだした。
当時は分からなかったが、これは折り符というものらしい。
作った折り符はまたダッチワイフの股間の中に入れ、新しく取り出したお札を接着剤でしっかりと封をする。
さらに方位磁針で調べつつ、そのダッチワイフを奉る形で祭壇のようなものを作り出した。
これはお寺でよく見かける護摩というやつだろうか。
簡易な組み立て式なので若干ちゃちに思えるが、三角形の炉がしっかりと組みあがっていた。
ダッチワイフの周囲には取り囲むようにして蝋燭が立てられている。
「できたぞ」
なにがだ。
率直にそう思う。
やっぱりこの人を頼りにしたのはまちがいだったのかもしれない。
溺れて死ぬかもしれないというとき、本当に藁にすがりついた人間の気持ちってたぶんこういう感じなんだと思う。
部屋にセッティングされた装置は本格的だったが、安っぽいダッチワイフがどうしても悪目立ちしていて信憑性を著しく下げている。
大口を開けた姿が目に焼き付いて離れない。
頭がどうにかなりそうだ。
「それじゃあ、ちょっとここにかがんでもらえる?」
「……」
もはや乗りかかった船、毒を食らわば皿までの精神で、この胡散臭い男の指示に従って跪く。
もしこれで騙されていたら絶対にぶっ飛ばしてやるという決意とともに。
だが、ふざけた舞台装置とは裏腹に、先輩の表情からは笑みが完全に消えていた。
「できるだけ何も考えずにいろよ。あと顔は絶対に上げるな」
「はい」
部屋の明かりを消すと、蝋燭のゆらゆらとした明かりだけになる。炉に火が入れられると、かなりの高さの火柱が上がった。
火事にならないか不安にさせられるほどの火の勢いの向こうで、ダッチワイフが照らされている。
不謹慎にも笑ってしまいそうになるが、先輩は本当に真剣な態度で臨んでいるため、必死で笑いを噛み殺し、瞳を閉じて先輩と向き合う。
先輩の手は触れるか触れないかのところで、頭にかざされているのがなんとなくわかった。
「ナウボマケイジンバラヤオンキマボウシキャヤソワカナウボマケイジンバラヤオンキマボウシキャヤソワカナウボマケイジンバラヤオンキマボウシキャヤソワカ――」と繰り返し繰り返し、陀羅尼を唱えることで先輩は諸尊を召請する。
先輩の声だけが頭に反響していく。
だんだんぼーっと意識の焦点が合わなくなっていくのを感じた。
自分というものが遠のき、俯瞰して部屋の様子を見るような感覚。
ひざまづいていた足下がぐにゃりと歪み、転びそうになるのをぐっとこらえる。
感覚的に、それがあの幽霊を見るとき特有の状態――転調――が起こっているのだと気づかされる。
これまでに何度となく味わってきた感覚ではあったが、まさかこうして他人の手によって意図的に転調するなんて想像もしていなかった。
少し怖くなって、うっすらとまぶたを持ち上げてみる。
そこには先輩が履いているベージュのチノパンが蝋燭の明かりに照らされているのが見えた。
ん?
先輩のナナメ後ろに、もう一組の足がある……。
形の良い膝頭から、ふくらはぎが踝まですらっと伸び、きゅっと足首を形作っている。
それらを包む薄手の黒いタイツからは白い肌が透けて見えた。
その足は明らかに女性のものだ。
誰だ?
と疑問を感じるよりも前に、決して顔を上げてはいけない、上げたくないという思いがのしかかってくる。
反射的に降ろした瞼がまちがっても上がったりしないように、強く目をつぶって時が過ぎ去るのを待った。
瞳を閉じてから数瞬遅れて、それが生きている人間のものではないと理解する。
理由や証拠はないが、直感で分かる。
あれはまちがいなくマズイものだ。
嫌な予感というよりも、嫌な確信とでも言うべきか。
あのストーカーの幽霊なんて、これに比べればまだ可愛いほうだった。
絶対に関わりたくない。
なにかの弾みでアレと目が合ってしまうことを考えると手足が震える。
一言で表せば「畏怖」というものになるだろうか。
いったいいつから?
どうして?
こんなものがこの部屋にいるのかわからない。
だがそれがわかってもわからなくても、そんなことはもはやどちらでも良かった。
とにかく一秒でも早く、あれがいなくなって欲しい。
それだけが頭にぐるぐるとまわる。
そこへ先輩が唱える陀羅尼が流れ込んできて、自分の意識と混ざり合っていく。
(これ、本当にちょっとヤバいんじゃ――)と遅蒔きながら気がついたときには、ふっつりと意識を失っていた。