陸 『事故物件』 3/10
押入はちょうどテレビの真向かいにある。
つまり現在、背後に押入があるということになる。
録画された映像にはあいつが押入から出てくる場面は映ってなかった。
バイトから帰ってきてから今に至るまで、外出は一度もしていない。
このアパートは1LDKしかない、決して広くはない家だ。
侵入者がいれば絶対にわかる。
気がつかないはずがない。
気がつかないはずがない気がつかないはずがない!
なにより重要なのは、帰宅してからというもの、一度も押入を開けていないということだ。
つまり――、あいつは今、背後の押入の中にいるということ――。
ビデオカメラの出力を終えたテレビは黒一色を映すだけで、そこには現在の部屋の様子と、凍り付いている自分の顔と、そして奥にはあの押入があった。
――!
衝動的に叫びだしてしまいそうになるのを、必死に堪えた。
……落ち着け、相手はたかが幽霊だ。
いったい何ができるって言うんだ?
と自分に言い聞かせるものの、ビデオカメラの映像が目の前にちらついて離れない。
そいつは今まで見てきたものとはちがっていて、やたらと存在感があった。
まるで、人間にとり憑いて本当にやってきたかのような……。
――考えすぎだ!
恐怖からくる妄想を頭から追いやって、押入の戸に手をかける。
早鐘のように鳴る心臓の鼓動を感じる。
ゴクリと唾を飲み込む。
そして、押入を勢いよく開けると、そこには――。
◆
一度、扉の前で深呼吸をしてから、オカルト研究会のドアノブをゆっくりと回してみる。
どうやら鍵はかかっていないようで、ドアはすんなりと開いてくれた。
ビデオカメラの一件があった翌日の夕方、五限が終わってから急いで教室を出た。
普段であれば、サークルの友人たちと教室で一通りダベり、居酒屋にでも繰り出すところだが、今日に限ってそんな暇はない。
やたらお酒を奢ってくれる先輩たちの誘いを断って、目的の場所へと向かう。
その人は、この時間であればほぼ部室にいるらしい。
なんとしてでも今日中に会って、問題解決の糸口を見つけなければならない。
もう限界だ。
いくら幽霊が見える体質だとは言っても、ただそれだけなのだ。
自分にはなにもできない。
だってそのことを他人に知られないように、隠して生きてきたのだから当たり前だ。
そのツケが今、巡り巡って溜まりに溜まっている。
本当にこのツケが払うべきものなのか、落ち度もないのに理不尽すぎやしないか、と思う気持ちもなくはない。
しかし、そんなことを言っている場合ではもはやないのだ。
誰かが助けてくれるのを期待したり、厄介事が過ぎ去っていくのを待っている場合でもない。
河野康一、それがあのオカルトサークルに出入りしていた男の名前らしい。
ダメでもともとくらいの気持ちで、今日一日を聞き込みなどの情報収集に費やしてみたところ、わりとあっさりと情報は集まってくれた。
どうも自分が無知なだけで、校内ではかなりの有名人らしい。
有名とは言っても、悪い評判ばかりだったが。
そもそもオカルトサークルに所属しているのは現在あの人だけで、あとは名前だけの部員のみ。
しかも噂では金品で買収して名前を借りているらしい。
そんなことを学生課が許すのかと驚くが、どうやらなにかしらの弱みを握られているらしく、黙認されているとのことだった。
他にも合法・非合法を問わない薬の売買に関わっているだとか、頼めば呪いをかけてくれるだとか、前科があるだとか、人を殺しているだとか、実は人間じゃないだとか、そういう明らかに嘘としか思えない話が、各方面からわんさと出てくるのだった。
どれもこれも噂の域は出ないのだが、そのあまりの悪評の多さを知るにつれ、火のないところに煙は立たないということわざを彷彿とさせる。
ただし一つだけ、オカルト関係の知識量においては比類がないという点においては共通している。
悪名高きオカルトサークルの部室の中に入ると、冷蔵庫の扉を開けたときのような冷気に、身体を包みこまれる。
外はまだ残暑が厳しく、寒暖差から思わず身震いしてしまった。
普通の部室にはエアコンなどないのだが、どうやらここだけは特別なようだった。
中は目を凝らさなければいけないほど薄暗く、八畳ほどの空間にところ狭しと様々な物品が並べられている。
明らかにそれとわかる日本人形などから始まって、掛け軸や壷などの骨董品、家具などがあり、ちょっとしたアンティークショップに見えなくもない。
部屋の両脇にそびえ立つ本棚には、触れば崩れてしまいそうな書物が犇めいており、古書店に入ったときのようなあの独特なにおいが鼻腔に広がる。
破天荒で凶暴な人物像を想像して身構えていたが、部屋は物が多くとも決して乱雑というわけではなく、しっかりとした秩序が与えられていた。
その部屋の一隅に置いてある安楽椅子に、その人はいた。
足をちゃぶ台に乗せてゆったりと腰をかけ、一冊の本――ジェームズ・フレイザー著『金枝篇』国書刊行会発行――をアイマスク代わりに眠っている。
どうしようかと迷っていると「誰だ?」と、声をかけられた。
「あの……山岸路希と言います。英米文学科の二年生です。軽音楽部に所属していて、一人暮らしで……えっと、そ……相談に乗って欲しいことがあるんです」
男は安楽椅子からゆらりと立ち上がる。
背はそれほど高くなく、一七〇に届くかどうかといったところ。
痩せ型で、本を持つ骨ばった大きな手が印象的だった。
ちゃんと睡眠をとっているのか不安になるほど目のクマがひどく、顔色も青い。
鋭い目尻の眼光には強さがあり、薄暗い部屋の中にいて爛々としていた。
一言で表すと、文化系アウトローといった感じの男がそこにはいた。
見るからに不健康で不健全で退廃的だったが、ぶっちゃけると、少しスタイリッシュに見える。
タイプはちがうが、雰囲気としてはパンクロッカーのシド・ビシャスに近い。
ような気がする。
「ずいぶん難しそうな本を読んでるんですね」
とりあえず、世間話でもと率直に思ったことを口に出す。
すると先輩は、くぁぁとあくびを一つしてから「ああ、数ページ読むだけですぐに眠ることができる良著だよ」と言いながら書棚に金枝篇を納めた。
一瞬意味がわからなかったが、どうやら言葉通りの意味らしい。
「俺はさ」
「はい」
「ヤンキーが嫌いなんだ」
「は?」
「特にベリーショートの髪を金に染めて、青色のカラコンを入れて、耳にはピアス、俺より背が高くて、イケメンで、よその部室に勝手に上がり込んで他人の昼寝の邪魔をする調子にのったヤンキーが、大嫌いなんだ」
「すいません。話を聞いてください」
「まだわからないのか? つまり俺は、おまえが、嫌いだ」
「……いや先輩、よく誤解されますが、自分はヤンキーじゃないです。この金髪と目は自前で……母がロシア人なんです」
大学ならばそれほど気にしなくとも大丈夫だろうと思っていたのに、久方ぶりにヤンキーと言われて凹む。
この見た目のおかげで周りからは不良と見なされ、半ばヤケクソ気味にグレていた学生時代を思い出す。
もっとも、それは友達がいないことをグレてるからだと言い訳にしていただけなのだが……。
「先輩の昼寝の邪魔をしてしまったことは謝りますし、ピアスも言い訳はできませんが……背が高いのは自分にとってコンプレックスですし、それにイケメンでもないです」
「うん?」
先輩は部室の照明をつけて正面からのぞき込んでくる。
「ああ……よく見りゃイケメンではないな。まぎらわしい……」
「……」
なんかデリカシーがないっていうか、露骨に追い返そうとしている。
想像していたよりも普通に会話が成立するのでそこは良かったが、お世辞にも友好的とは言えない。
「ここから消えろ」という態度を隠す気がまったくないどころか、わかりやすく直接的に教えてくれる。
だがめげている場合でもない。
「とにかく、お願いです。話を聞いて欲しいんですけど」
「嫌だね」
「……そこをどうにか」
「どうせ、くだらない罰ゲームだとか興味本位でここに来ただけだろう? 気が向けば相手してやってもいいけど、今はそんな気分じゃないんだ」
くああ、と先輩は再び大きなあくびをする。
もしかすると日を改めればチャンスがあるのかもしれないが、もうことは一刻を争う。
今日中に片をつけなければこちらの身がもたない。
こうなったら多少強引な手を使わざるをえないか……。
「――いいんですか? ここに住んでるってこと、騒ぎ立ててもいいんですよ? 後輩を買収して部員の数を水増ししているのだって、大事になれば隠しきれないはずです」
当時は我ながらエグいセリフだと自分で引いていたのをよく覚えている。
こうして振り返ってみれば、あの人はなによりこの場所を大切にしていたのでそれなりに効果のある脅しのはずなのだが、そこはさすがに先輩だ。
表情一つ変えずに、ノータイムで「したけりゃしなよ。そろそろ潮時だとも思ってた頃合いだしね。くああ……」とあくびつきでうそぶかれた。
駄目だ……交渉の余地が見あたらない――。
認めたくはなかったが、どうやら力にはなってもらえないようだ。
もうあのアパートには一晩だっていられないし、一人で夜を過ごすのが恐怖でしかたなかった。
せっかく手に入れた一人暮らしだったが、また実家から片道二時間の通学生活に戻らなければならない。
親にどう説明したものかわからないし、もう一度一人暮らしをするにしてもかなり時間がかかるだろう。
せっかく始めたバイトやサークルを、今まで通りに続けるのは難しい。
どうして自分ばっかりこんな目に遭わなければならないんだ……。
そう考えると涙が出てくるが、こんなところで泣いていても致しかたない。
勝手に部室に上がり込まれて昼寝の邪魔をされ、トドメに泣かれるなんてあまりにも迷惑すぎる。
「いきなり来て、不躾なことを言ってすいませんでした。帰ります」
頭を下げて、部室から出ることにした。
ぶるる――とあまりの寒さに身を震わせる。
両腕にはトリハダが立つほどだった。
「寒いのかい?」
踵を返したところで、そう先輩に話しかけられた。
「ええ、こんなに冷房を利かせて昼寝なんて、風邪引きますよ」
「冷房なんてここにはないよ」
「え?」
驚いて振り向くと、先輩はこちらを見てニヤニヤと笑っていた。ゴミの山の中から面白そうな玩具を見つけて、ご満悦といった感じだ。
そして、笑ったまま言い放った。
「君は、幽霊が見えるのか」
訳が分からず、ぞっとして黙っていると、先輩の表情は爽やかな営業スマイルになる。
「気が変わったよ。今日は調子もいいし、話を聞いてあげようじゃないか」