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陸 『事故物件』 2/10

 隣にいるはずの璃々佳ちゃんの声が、薄い膜を隔てているかのように遠くに聞こえる。


“いや、なんでもないよ。悪いんだけどやっぱり一服させてもらってもいいかな?”と、自分の声のはずなのに、水の中で喋っているようにくぐもって響く。

 ちゃんと普段通りに伝わっているのか不安になるが、璃々佳ちゃんは微笑みながら頷いてくれた。


 平静を装って、なるべく相手にしないようそっぽを向く。

 そうすれば、たいていは一分ほどでいなくなる。


 一ヶ月ほど前から、こいつは通学中に突然現れた。


 それから毎日かかさず、必ず一回はその不気味な姿を見せる。


 夜になれば金縛りや黒い影が横切り、寝ればもれなくなにかに追いかけられるという悪夢だった。

 家の中の小物も気がつくと移動しており、先日は鍵を探し回るのに一苦労させられた。


 気のせいだと思いたかったが、どこの世界に電子レンジの中に鍵を置き忘れる人間がいるだろうか。


 はっきり言って、軽音楽部での喧嘩より、こちらのほうに気が滅入る。

 なにせ対処の仕方がわからないのだ。


 昔から幽霊が見えるタチではあるものの、ただそれだけだ。

 除霊や解呪などできるわけがない、幽霊が見えるだけの普通の人間だ。


 むしろ普通であるように努力してきた。


 小学生の頃、この体質のせいで嘘つきとイジメられ、庇護してくれた親ですら変な目で見てきてから、ずっとそうだ。


 幽霊のことを相談できる知人なんて一人もいない。


 なぜなら、それは異常だからだ。


 信じてもらえるはずなどないからだ。


“タバコ、危ないですよ”

“うわ!”


 タバコの火が燃え尽きて指に触れそうになっていた。

 慌てて灰皿へ投げ込む。

 璃々佳ちゃんは心配そうだったが、照れ笑いをすることで誤魔化しておいた。


 璃々佳ちゃんになら、相談してもいいんじゃないだろうか?

 ふと、そんなことが思い浮かぶが、すぐにそんな妄言を打ち消す。


 せっかく仲良くなれたのに、数少ない友達をあんなもののために棒に振りたくなかった。


 ……それにしても、今回は長い。

 いつもは一分ていどで終わるはずなのに。


 そう思って、あいつのほうへと、つい視線を送ってしまった。


 すると、わずかではあるが、確実にこちらへ一歩、あいつは足を踏み出した。


 近づいてくる!


 とっさに璃々佳ちゃんの手を握ってベンチから立ち上がる。


 逃げなくては!


 なぜかはわからないが、そう確信できた。


 だが、立ち上がったと同時に、氷をぶちこまれたかのようなゾクゾクとする悪寒が背筋に走る。

 直後に、目の前を亜麻色の髪をしたものすごい美人が目の前を横切った。


 それでおしまいだった。


「ヤマーさんって、意外と大胆なんですね」


 手を握られて頬を林檎のように赤くした璃々佳ちゃんにそう言われて、慌てて手を離した。


 もう幽霊はどこにもいない。

 あの転調した非現実から、いつのまにやら日常へと戻っていた。


「あ、ごめん。なれなれしかったよね……」

「いえ、私、嬉しいです」


 恥じらいながらも、上目遣いにこちらに微笑みかけてくれるカワジリエルにドギマギする。

 だがさっきのはなんだったのかとどうしても気になり、通り過ぎた美女の姿を探した。


(あんな人、大学にいたかな……。いたら絶対に目立つはずなのに)


 周囲を見回してみても、そんな人影はどこにもない。

 亜麻色の髪の美女が歩いていた方向には、気だるげに歩く男の姿しかない。

 男は部室棟の階段を上がり、二階にある部屋の一つへと入っていく。


「ヤマーさん、さっきから様子がおかしいですよ? あの人が気になるんですか?」

「あ、ああ、知り合いに似てたからさ。でも別人だったよ」

「……あの人、怖いです」

「知ってるの?」

「文芸部の友達から聞いた話なんですけど、変人で気が触れてるとか、怖い人たちと付き合いがあるとか、薬を売ってるとか、人を殺したことがあるとか」

「え、ヤバすぎないそれ……」


 こんな平和な大学にそんなのがいるとは想像もつかない。


「噂ですから、多少誇張されてるとは思います。でも、どうもあそこの部屋に一人で寝泊りしてるみたいで……」


 それはありえない話じゃなかった。

 そういう学生はいくらかいる。

 だがそれは終電を逃した場合の緊急避難としてだ。


 基本的に部室棟には冷暖房もなければ、風呂もガスもないし、台所もない。

 不可能ではないが、限りなく不便なはずで、ましてや一人でこんな場所に住んでいるなど、通常考えられないことだった。


 もう一度顔を見上げて、2.0の視力をここぞとばかりに凝らし、団体名を確認する。


 オカルト研究会――かすれた文字で書いてあった言葉が、嫌に強く印象に残った。







 その後、ライブハウスのバイトへ出勤するために一度帰宅すると、改めて自分の置かれている状況に直面させられる。


「うーん」などと、部屋のド真ん中で一人うなり声をあげて部屋を見渡す。


 やっぱり、物の配置が変わってるような?

 部屋の雰囲気が今朝とどこかがちがう。


 ような気がする。


 電子レンジに鍵が入っていたときほど露骨ではないが、例えばベッドの布団の形や、玄関の靴の配置、スリッパの向き、流しに置いてある食器の位置、それらが家を出たときと比べて微妙にちがっている。


 いや、本当は気のせいなのかもしれない。

 わけのわからないものにつきまとわれて、神経質になっているだけのような気もする。


 荷物を置いて、ベッドへ横になる。

 心なしか最近は風邪気味で調子も悪い。

 熱こそ出てはいないが、喉が少し痛いし身体もダルい。

 目をつぶってゆっくりと息を吐くと、まどろみの中へ沈み込んでしまいそうだった。


 疲れてるな……。


 あいつが現れてからというもの、神経質になっているのはもはや否定できなかった。

 気がつくと、周囲を見回して視線がないか探してしまう。

 そして、そういうときはなにも見つからないのだ。


 ……だんだんムカついてきた。


 あんなわけのわからないものに神経をすり減らして、生活に影響が出るなんてバカバカしいにもほどがある。

 これじゃあまるで、あいつに自分の人生を右に左にされているのと変わらないじゃないか。


 それもこれも、受け身の姿勢でいるのが良くないんだ。

 いつまでも守ってばかりではダメだ。

 攻めの姿勢であいつと向かいあわなければ。


 なにかいい手はないものかと、押入からビデオカメラを引っ張り出してみる。

 夏合宿のときに親から借りてそのままになっている一品だ。

 型遅れではあるものの、使用に関してはまったく問題はない。


 それを部屋の全容をほぼ見渡せるように調節して設置する。


 こうしておけば、部屋の物の配置に変化がないと確信できるはずだ。

 よくよく考えてみればこれまで幽霊を見たことはあっても、なにかされたことなど一度もなかった。

 なのに、ポルターガイストのように物が動くなんて考えすぎに思える。

 レンジの中にあった鍵だって、うっかりなにかのまちがいでそこにあったのかもしれない。


 そもそもの話、幽霊なんて普通の人は知覚できないのだから。


 そんなもの、この世にはない。


 ただの幻だ。


 脳の具合が少しおかしいというだけのこと。


 ……。


 そろそろバイトに行かなければいけない時間が迫ってきている。

 体調はお世辞にもいいとは言えないが、かといって動けないほどでもない。

 欲しいと思っていたエフェクターを買う資金はまだ足りていないのだ。

 バンドのためにも気合いを入れて働かなければ。


 今一度、ビデオカメラで録画できているかどうかを確認してから、バイトへと出かけた。







 部屋の戸締まりを何度も確認し、玄関のドアをしっかりかけて家から出ていく自分の姿を、ビデオカメラはしっかり映してくれていた。


 夕食をちゃぶ台の上に置きつつ、ビデオカメラをテレビに繋いで再生してみる。


 特に何事もなく、もちろんなにか物が動くわけでもなく、ビデオカメラは淡々と部屋の様子を撮影し続けていた。


 変化らしい変化と言えば、陽が落ちることによって部屋の明るさがどんどん失われていくことくらいだ。


 これは計算外だった。

 少し考えればわかることじゃないかと自分の察しの悪さを恨むが、幸いなことにいくらか不明瞭ではあるものの部屋の様子が視認できるていどには撮影できている。


 どうやら問題はなさそうだと夕飯を食べながら視聴を続けることにした。

 普通に見ていては時間がかかりすぎるので、とりあえず八倍速ていどにして流し見ることにする。


 一倍でも八倍でも特に変化のない薄暗い室内だけが映り続けている。


 幽霊の正体見たり、枯れ尾花ってとこか。


 だが、じゃがいもの味噌汁に手をつけたところで、カメラに変化が起こった。


 玄関のドアが開いたのだ。


 もう終わりかとも思ったが、そうじゃない。

 だって、再生時間を見るに、この時間に帰ってきていないことは明白だからだ。

 慌てて再生速度を元に戻す。


 部屋に現れたのは、あの幽霊だった。


 姿はいくらかちがっているがまちがいない。

 肌の色は青黒くなく、服もボロボロではないが、上下のスウェットにTシャツ、そして目深に被ったキャップ。

 斜め上から撮影しているのと、室内でもキャップを脱がないために顔こそ視認できないものの、その陰鬱な雰囲気を見まちがえるはずもない。


 思わず味噌汁を口に含んだまま固まる。


 どうやって入ってきたんだ?

 だって鍵は必ず閉めたはずじゃないか。


 少し巻き戻して確認するが、しなけりゃ良かったと後悔する。


 そいつは、カチャカチャと音をさせて閉まっていた鍵を開けて入ってきているのだ。


 少なくとも施錠することに意味はまったくないことが判明した。


 そいつは、何をするでもなく決して広くない部屋の中をウロウロし、無意味に部屋の物を持ち上げては元に戻したりしていた。

 かと思えば、部屋の中央に棒立ちし、前後左右に身体を揺さぶっている。

 しばらくすると、またうろつき始め、また身体を揺さぶる。

 それの繰り返しだった。


 何がしたいのか、まったく意図がつかめない。


 たまたま空き巣に入られたところを撮影してしまったのかと、希望というにはみすぼらしすぎる希望にすがってみるが、そいつは何も盗る気配がなかった。

 部屋の物の配置は頭に入っているようで、室内を物色する手つきも慣れたものだった。

 そのことがわかって、今食べたばかりのものを吐きそうになる。


 さらに見ていると、どうやらそいつがこの部屋で過ごすことを気に入っているらしいことまでがわかってくる。

 これを説明するのは難しいが、何度も何度も部屋で物色を繰り返すそいつを見ているとそうとしか思えない。

 心なしか、前後左右に身体を揺さぶる動作もより早く、大きくなっているように思う。


 何度目かのその不気味な体操から目を離せずにいると、その動作がいきなりピタリと止まった。

 そのまましばらく静止してから、いそいそと部屋の奥の方にある押入を開けて、その中へ入ってしまう。


 一部始終を見ていてもなにがしたいのかさっぱりわからない。

 その意図のなさがまた不気味で、得体の知れなさを醸し出している。


 だが押入の中に入った意図だけは、それからほどなくして理解できた。理解できてしまった。


 部屋の電気が点くと、そこに現れたのは自分自身だった。


 今日は古いアンプを新しいものと入れ替えるための力仕事だったこともあり、荷物を抱えたまま、疲労困憊状態でベッドへ倒れ込んでしまう。


 そのままゴロゴロしてから、思い出したようにこちらを――ビデオカメラに視線を送り、そして録画を停止させた。


(……え?)


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