陸 『事故物件』 1/10
今日からまた始まります。基本は毎日更新。
河野康一先輩について、今ならうまく語れる気がする。
ざっくばらんに説明させてもらえば、先輩は変人だ。
変わった人と言ってしまってはまだ生ぬるい。
奇人のほうがふさわしいかもしれない。
なぜなら、先輩は見えてはいけないものが見えてしまう人間だからだ。
霊能力者で、オカルト趣味で、悪趣味で、だらしなくて……二〇も中盤を過ぎたいい大人なのに、まるで子供みたいな人だった。
霊能力者と言うと、あたかも他の人よりできることが多いみたいな物言いに聞こえるかもしれない。
第六感というくらいだし、五感しかない普通の人間よりもどこか凄みがなくはない。
だがはっきりと言っておく。
それは勘ちがいだ。
感じ取れないものを感じ取れてしまうということは、感じるはずのものを感じ取れないのと同等のハンデだ。
社会というのはそういう風にできていない。
五感が機能する普通の人間をベースにして作られているからだ。
先輩ほどではないにしても、同じく幽霊が見える自分の経験に照らし合わせても、そう断言できる。
幽霊が見えるなんて、基本的にはなんの役にも立たない。
「幽霊がいる!」と叫んでみたところで、周囲からは奇人変人として扱われ、誰とも共有することのできない経験ばかりが募っていく。
寂しくなるだけだ。
だからだろう。
こうして、先輩とのロクでもなくも恐ろしい思い出を振り返ってみたとき、苦笑まじりではあるが愉快な気持ちになるのは。
自分の見た光景や感じたことを話して、それが一から十まできちんと伝わるのが当時の自分には嬉しくてしょうがなかった。
もっとも、先輩は決して愉快ではなかっただろう。
あえてレベルを合わせてくれていただけで、あの寂しさをいつもいつも、あのときも、どのときも、抱えていたにちがいない。
そのことにやっと気がつくことができたのは、先輩がいなくなった後のことだった。
もう誰も先輩のことを覚えてはいない。
もはや先輩がいてくれるのは、今から語るこの瞬間においてだけだ。
さながら語られることで存在できる数多の怪談のように。
それが先輩へのささやかな仕返しなるんじゃないかと思う。
……。
前置きはこれくらいにして、そろそろ始めようか。
いるはずのない、幽霊たちの怪談を。
◆
『事故物件』
通学に片道二時間とかかかる→授業に出るだけで手一杯→部活もバイトもできない→ぼっち!
とかいうマザファッカーな一年目を過ごしたことでさすがに危機感を覚えたわけで、難色を示す両親をあの手この手で説き伏せてどうにかこうにか一人暮らしを勝ち取ったのが大学一年目の一月。
恥を忍んで新入生に混じり、サークルの歓迎会に顔を出して念願の軽音学部に入ることができたのが二年目の四月。
新入生からも同学年からも先輩からも微妙な距離を測られつつも、これで駄目なら後がないと必死に馴染もうとしていたのが六月。
夏合宿に参加し、やっと部内での立ち位置を確立できたのが七月。
大好きなエレキギターを心おきなく掻き鳴らしまくりーの、先輩たちに声かけられーの、夢だったオリジナルバンドを組みーの、騒ぎーの、楽しーの、という感じだったのが八月。
そして現在、二年目の十月。
部室棟から延びる並木道には、色づいた葉っぱたちによる豪勢な絨毯が敷かれる頃。
結成から二ヶ月に満たないオリジナルバンドは早くも暗礁に乗り上げていた。
「もういいよ! アタシ、帰るから!」と岸辺先輩(三年、Vo)が合同練習から飛び出すのは、すでに三度目を数える。
騒動の発端をかいつまんで話せば、同じバンドメンバーである岸辺先輩の彼氏こと杉本先輩(四年、Gt.Vo)との痴話喧嘩だった。
しかし、痴話喧嘩のそもそもの原因になっているのは、新入りである自分のギターの腕前が先輩方の足を引っ張っているからにほかならない。
杉本先輩は手取り足取り丁寧にギターを教えてくれるし、自分でもそれなりに弾けているつもりだが、どうも岸辺先輩に言わせれば「全っ然ダメ! あんなにゆーくん(杉本先輩)と練習したのにこれしかできないなんてありえない!」らしく、杉本先輩に言わせれば「ヤマーがどれくらいがんばってるのかわかってるのかよ! ていうかちゃんと弾けてるし! 言いがかりもいい加減にしろ!」ということで、「なんでヤマーのことばっかりかばうの! あり得ないんだけど!」「あり得ないのはどっちだよ!」ということになって練習そっちのけの口論の結果、岸辺先輩は飛び出してしまったのだった。
いたたまれなくなっている自分に、噴上先輩(四年、Dr)と宮本先輩(三年、 Ba)は「気にするな。ヤマーは悪くないよ。飲みにでも行って憂さを晴らそう。奢るからさ」と言ってくれるが、そうやって甘えるわけにもいかない。
音楽というのはみんなで作るものだ。
音楽は技術で鳴らすものじゃない、バンドメンバーとの絆で鳴らすものだ。
そういう意味で言えば、部内の各パートの優秀者を寄せ集めてできたこのバンドの絆は元から弱い。
けれども、そこであきらめちゃいけない。
というわけなので先輩たちからの飲みの誘いを断って、余ってしまった練習時間ギリギリまで、孤独にギターを練習する。
しかし、やっとの思いでサークルに入ったものの、結局また一人でギターを弾いているという現実に、けっこうなやるせなさは感じてしまう。
……ちょっと涙目になったりなど、していない。
孤独な練習の合間に一服しようと、喫煙所でピースを口にくわえたところで、天使に話しかけられた。
「山岸先輩、どうしたんです?」
彼女の名前は大天使カワジリエル――もとい、一年生の川尻璃々佳〈かわじりりりか〉ちゃんという。
小柄な身体に、大きなお胸を兼ね添え、素直で、少し気弱な喋りかたをする、男子憧れの女の子である。
同じ軽音楽部に所属している璃々佳ちゃんは大学に入ってからギターを始めた初心者だ。
くわえて下宿先のアパートが同じという奇跡にも恵まれ、けっこう親しくしてもらっている。
具体的に言うと、お互いに作った料理をお裾分けしあう仲だ。
「なんでもない。それより先輩はやめてよ。同じ年に軽音に入った同期じゃん。ヤマーでいいって」
学年は璃々佳ちゃんよりも一つ上だが、敬語を使われるのはこそばゆい。
それなりに仲良くなってきたことだし、少しずつ脱敬語を目指しているのだが、璃々佳ちゃんは元の育ちが良いのかなかなかうまくいかない。
そういうところも可愛いんだけど。
「ご、ごめんなさい。つい癖で……。あれ? 他の先輩たちは? 合同練習じゃありませんでしたっけ」
「……」
尋ねて欲しくなかった質問をダイレクトにされて返答に窮する。
とりあえず場を繋ぐためにタバコに火をつけようとした。
「――あ、ごめん。璃々佳ちゃんタバコ苦手だったよね」
「いえ、大丈夫ですよ」
「あれ? でも出会った頃、あんまり好きじゃないって言ってたような」
「馴れちゃいました。ヤ、ヤマーさんの……においだと思えば、平気ですから」
「そんなにタバコくさいかな……」
「そ、そういうことじゃなくて……と、とにかく大丈夫です……」
璃々佳ちゃんはいい子だから、気を使ってそんなことを言ってくれる。
なかなか不満や文句を言ってくれないから、自然と甘えてしまっているのかもしれない。
これからは少しタバコを控えることにしよう。
なんとなく会話が途切れたところで、璃々佳ちゃんはベンチの隣へちょこんと座る。
ツーサイドアップにまとめた髪が風でふわりと揺れる。それにあわせて、大きな胸の二つの膨らみもたゆたう。
「もしかして、また喧嘩ですか?」
「……そんなとこ、もっとギターが上手だったら良かったのにね」
「そんなことないですよ!」
ささやくような声量で喋ることの多い璃々佳ちゃんが珍しく声を張り上げた。
「ヤマーさんのギターはとっても上手です。杉本先輩よりも、ヤマーさんのほうが上手だと思ってますし! ヤマーさん背が高いからギターを構えるとすっごくカッコイイし、弾いてるときだって、その、すっごく――」
「そ、そうかな?」
「そうです!」
下手の横好きでやってるだけなので、そんなに絶賛されるものでもないのだが、凹んでいただけにその言葉は心に染みた。
やっぱり今日も璃々佳ちゃんは大天使カワジリエルだった。
「……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい、かな。良かったら、これから一緒に練習する?」
璃々佳ちゃんの横には、購入してから数ヶ月のフェンダーが立てかけてある。
「いいんですか? ヤマーさんの練習の邪魔になりません?」
「ならないならない。一人でやるより二人で練習したほうが楽しいし。それじゃあ休憩もこれくらいにしてそろそろ――」
火をつけることなく指先で弄んでいたピースをしまって、ベンチから立ち上がろうとする。
と、そこで世界は転調する。
足下のアスファルトが空気の抜けたボールのようにぐにゃりと沈み込む感覚、遠のいていく現実感と、白んでいく視界。
同時に浮かび上がってくるのは、明らかにこの世のものではない、青黒い肌の色をした男の姿だった。
そいつは自転車置き場の真ん中にいる。
キャップを目深に被り、下にはボロボロのスウェットを履き、Tシャツは垢で黒ずんでいる。
服の下にある皮膚は壊死しているかのようで、こちらまで死臭が漂ってきそうだった。
瞳に光はなく、眼球があるべき場所には暗い空洞がぽっかりと二つ空いているばかり。
一目で死んでいるとわかる外見だが、直立している姿にははっきりとした意思が感じられる。
またか……。
こいつのストーキングが始まってから、かれこれ一ヶ月が経つ。これまでにも幽霊は幾度となく見てきたし、今回のように憑かれたこともあるが、たいていは一日もしないうちにいなくなってしまう。
長くても三日ていどだ。
“どうしました?”