伍 『ケンケン様』 7/7
森を抜けてあの川に出てからもしばらく俺たちは走った。
山の天気は変わりやすいとはよくいうもので、もう空にはどこにも雲はなく。
俺たちは月明かりに照らされながら川辺を走る。
静寂だけが周囲に存在するようになってから、やっと俺たちはその足を止めた。
ずいぶん走ったような気がする。
俺たちはもうヘトヘトだった。
「なんだったんですかね。あれは?」
俺は当然の疑問を口にする。
「こっちが聞きてぇよ……」
井上さんは川辺に寝そべって体を休めながら俺に返事をした。
由花子さんはハンドタオルを川で濡らしてから、大きな石の上に座り、顔や首筋をふいていた。
「ふぅ……証拠とか根拠はないけれど、私がたてた仮説がここに一つあるよ」
俺と井上さんは由花子さんの話に耳を傾ける。
「昔、よく飢饉があったって言ってたよね?」
「言ってましたね」
「じゃあここで問題です。食料がなくなったとき、一番簡単に手に入る食料ってなんだと思う?」
いきなりそんなことを聞かれても俺には皆目見当もつかなかった。
由花子さんはもったいぶって話を続ける。
「わかんない? それじゃあ一つ話をしてあげよう。『海亀のスープ』っていう話を君は知っているかな?」
◆
一ヶ月ものあいだ漂流していた船が発見され、二人の男が救助された。
船の食料は完全に尽きており、二人とも餓死寸前だったがなんとか一命をとりとめることができた。
しばらくしてから元気を取り戻した二人の男のうち、Aという男がテレビのインタビューにこう答えた。
「Bが海亀を捕まえてスープを作ってくれなかったら、まず助からなかった」
それからまたしばらくして、Aにもう一度海亀のスープを食べてもらおうという企画がテレビ局で持ち上がった。
Aも快く了解し、当日の撮影も滞りなく進んだ。
しかし、海亀のスープをAが食べると、その顔色が変わった。
唇を震えさせながら「俺が食べたスープはこれじゃない」と言うなりAはその現場から飛び出していってしまった。
それから数日してAは自殺してしまった。
Aの死がどうしても気になったその番組のスタッフは独自に調査をすることにした。
そこでAに海亀のスープを作ったというBに会うことができた。
Bはそのことについて話すことを拒否していたが、Aが自殺した話をすると、観念したかのように一つの事実を話した。
「あの船に乗っていたのは……三人だったんだ」
◆
そのあまりに黒すぎる話に俺は絶句した。
「あの神社に埋められていたのはね。大量の人骨だったんだよ。あれには驚いたなー」
「驚いたじゃすまねーよ。ヤバイヤバイとしか俺はもう思えなかったよ」
「ケンケン様は村の守り神でも祟り神でもない。村の人たちが生き残るための生贄だったんだよ」
「まさか……」
「これは勘なんだけど、ケンケン様の話で普段は普通の人間だったっていうのが気になっててね。それだと村の長がそいつはケンケン様だって言えばもう誰も何も言えないでしょう? 現にヨーロッパでは有名な魔女裁判があるけど、同じように狼男狩りがあったんだよ」
「村の長が食料にする人間を決めていたってことですか?」
「えぇ。ケンケンっていう化け物だったってことにしておけばカニバリズムのタブーにも触れないですむしね」
「でもおかしいですよ。たしかにそれは誰にも言えないような恐ろしい習慣ですけど、今でもそんなことをしますかね? さっきのあれはそれとはまた違った、なにか得体の知れないものでしたよ」
由花子さんは「そうなんだよね」と言って俺と同じ不可解そうな顔をしていた。
◆
そこで三十分ほど休んでから、俺たちはその川に沿って朝まで歩いた。
空が白み始め、鶏の声が聞こえて俺たちはやっとのことで民家にたどりつくことができた。
そこにいたおじいさんも訛りがあったが、意味がわからないほどではなかったので普通に会話することができた。
朝食をご馳走になり、町までの道のりをたずねると地図を持ってきてくれた。
さらに少し話していると、今日は町まで用事があるので昼ごろに車に乗せて連れて行ってやるとのことで、田舎の人の温もりに俺たちは感謝感激雨あられ状態だった。
だが気になることが一つあった。
その見せてもらった地図の中に俺たちがいたはずの「犬沢村」がないのだ。
「あれ? この辺に犬沢村ってありませんでしたか?」
おじいさんの訛りまでは覚えていないのでそのおおまか意味だけをここに書き記そう。
「この辺には村なんて一つもないね。けっこう前に絹沢村っていうのがあったんだけど、今はもう廃村で地図にも載ってないよ」
俺たち三人はみな黙る。
それじゃあ俺たちはどこの村にいたっていうんだ?
三人そろって同じ夢でも見ていたのか。
それでも由花子さんは村が本当にあったかどうかもう一回調べてみようと主張したが、さすがに俺も井上さんも反対し、あえなく却下となった。
これ以上このことに触れてはいけないのだ。
なぜならその村があるにしろないにしろ、いったん確認してしまえば俺は異形の現実と向きあわなければいけなくなる。
闇の中にあるものをわざわざ光の下に引っぱり出すことはない。
闇にむやみに光を照らしてはいけないのだ。
だがそれでも闇の中をのぞきたいという好奇心がそれほど簡単に抑えられたら苦労しない。
よって俺はこの闇の断片を最後に記しておこうと思う。
あるいはここから一つの真実にたどりつくことができるかもしれない。
けれども、それが正解だということは誰にもわからない。
そんな正解に価値を見出せるのなら、光を照らしてみるのも面白いかもしれない。
◆
「その絹沢村っていうのがねぇ、よく行方不明者が出る村だったんだよ。しかも決まってお年寄りや幼い子供ばっかりでね。当時は不景気だったから、悪い噂がよくされてたよ。そうそう。そこの地主のお母さんも行方不明になっちゃってね。その数年後かに今度は奥さんと使用人も行方不明になっちゃったんだよ。テレビにもちょっとだけ出たんだけどさ。これにも噂があってね。なんでもそこの当主はとても嫉妬深い人だったらしいんだわ。これの奥さんがまた美人でね。そこのお嬢ちゃんにも負けないくらいだよ。でそんな娘を嫁にもらったはいいんだけど、当主が嫉妬深いもんだから色々トラブルが絶えなかったらしいんだ。まぁ今となっちゃぁどれもこれも調べようがないんだけどねぇ……」
(了)
ここまでで既存の全五話はすべて終了です。
本来ならこのままぶん投げておしまいだったのですが、読み直しているうちに、彼らの物語に決着をつけさせたいと思うようになりました。
ですが、それには今しばらくの時間をください。
明日からは別の長編を投稿しますので、それが全部終わるまで四ヶ月くらいかかります。
その間に幽闇のほうの続きを執筆する予定です。
幽闇は今年の十一月~十二月のあいだには完結させられるといいなー。
大学時代に書いていた「幽闇の刻」ですが、あれから僕もけっこう量だけは書いているつもりです。そこで培った技術を後半に当たる第二部でちゃんと発揮できればなと思います。
このシリーズを楽しみにしているかたがいるのかどうかはわかりませんが、もしいるのだとしたら、尻切れトンボのような形で「幽闇の刻」の更新を止めることになってしまって申し訳ありません。
彼らの話は必ず完結させますので、しばらく待っていてください。
約束します。
そして、明日からは新人賞に送ってまったく相手にされなかった長編が始まるので、もしお口にあえば、そちらもよろしくお願いします(でも少なくとも僕は最高に面白いと思う……)。