伍 『ケンケン様』 5/7
温泉は屋敷から少し歩いたところにあり、村の景色が一望できる露天風呂だった。
浴槽はしっかりとした石造りであり、乳白色のお湯がそこからあふれるほど注がれている。
空には都会では見られないほどの星空が広がっていて、ちょっとした宿よりも風情を感じられる贅沢な浴場だった。
「しのぶさんって可愛いよなぁ」
一緒に入っている井上さんは、雲一つない夜空を見上げながらそんなことをのたまう。
「そうですねぇ。やっぱり女の人はああいう感じがいいですよね」
「まったくだ。しのぶさんの爪の垢を煎じてあいつに飲ませてやりたいよ」
あいつというのはもちろん由花子さんのことだ。
由花子さんはその外見だけは街を歩けば男がみな振り返るようなレベルだが、中身が完全にキチ○ガイなので、まともな思考の男なら彼女にしようとはまず思わない。
それでも今まで由花子さんに挑んだ勇者たちはたくさんいたが、どれも目も当てられないような悲惨な末路をたどっている。
「面白い人ではあるんですけどね」
「ものには限度ってもんがあるよね……」
井上さんは空の星よりさらに遠くの物を見ている。
おそらく今までの由花子さん珍プレー集を思い返しているのだろう。
しばらく黙ってそうしていた井上さんだったが、できれば聞きたくなかったこれからの予定を俺に教えてくれた。
「あぁそうだ。零時に由花子の部屋に集合だから」
「はぁ? なんでですか?」
「あの神社の土を掘り返して何が埋まってるのか確認しないと気がすまないんだとさ……」
これがあの人がキチ○ガイと呼ばれる所以だ。
まったくどうかしている。
もう言っても聞くような人ではないので俺たちはもうこういうときは素直に言うことを聞くことにしている。
「じゃあ俺もう上がるから。零時までにちょっとくらい寝ないと体力的にきついわ。じゃあまたあとでな」
井上さんが浴場から出て行ったあとも俺は一人で湯に浸かって空を眺めていた。
こと座の音色が流れる天の川を、悠然と飛んでいる白鳥座と鷲座に思いを馳せたりなどして現実からの逃避を俺はこころみる。
だが星座を見ても昔の人の豊かな想像力に驚かされるだけだった。
こんなものが白鳥だか鷲に見えるわけないだろう。ただの点だぞこれ。
そんなことばかりしていてもしょうがないので、俺も井上さんを見習って部屋に戻って仮眠でもとることにした。
ちょっとぬるめのお湯から上がろうとすると、そのとき、脱衣所の入り口から誰かが入ってくる気配がした。
少し様子をうかがっていると、その扉が開く。
それは胸からバスタオルを巻いているしのぶさんだった。
「一緒に入ってもよろしいですか?」
よろしいもなにもないだろう。
「すいません。今すぐ俺あがるんで」と言ってタオルで股間を押さえながら俺が浴場から出て行こうとすると、しのぶさんはそれを止める。
「そんなぁ。せっかくですから一緒に入りましょうよー。そうだ。それじゃあ私が背中を流してあげますよ」
「えぇ! いやいいですよ」
「遠慮なんてなさらなくていいですよ。……ほらここに座ってください」
断りきれなかった俺は、結局しのぶさんに背中を流してもらうことになった。
正直に言おう。
俺は勃起しているのをしのぶさんに悟られないようにすることで必死だった。
自分と同じような年齢の未亡人にこんなことをしてもらえるなんて、どう考えても官能小説の世界だとしか思えない。
しのぶさんはそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、鼻歌を歌いながらひじょうに楽しそうに俺の背中を流してくれる。
「それじゃあ次は康一さんが私の背中を流してくださいよ」
「えぇ!」
「私も流したんですからこれでおあいこです」
そういう問題ではもはやないのだが、やはり断りきれなかったので俺はしのぶさんの背中を洗う。
しのぶさんの背中は玉のようなキメの細かい肌をしていて、そのうなじから腰にかけての曲線が何ともいえず色っぽかった。
許せ井上さん。
あなたの運が悲劇的なほどに悪かったのがいけないのだ。
「いやー本当に楽しいです。私と同じ年代の人がここにはほとんどいませんからー、こんなに喋ったのはここに来てからひさしぶりかもしれませんね」
「俺もしのぶさんにあそこで出会えて良かったですよ」
「……それってどういう意味ですか?」
「だって俺たちはあそこでしのぶさんと会っていなかったら完全に遭難してましたから。美味しいご飯に温泉に、ゆっくりと部屋の布団で寝られるなんて、あのときからは想像もつきませんよ」
「そういう意味ですか……」
いきなり残念そうな声で返ってきたので俺は動揺してしまう。
「すいません。俺って今なにか変なこと言いました?」
「由花子さんは康一くんの彼女なんですか? すごい綺麗な人ですけど」
「いやいや違いますよ。あの人を彼女にするなんて命知らずのすることです」
「そうですか。良かった。あの……実は……康一さんってちょっと私の好みなんですよ」
背中を流す俺の手が止まる。
今なんて言った?
聞き間違いかと思ったが、たしかにしのぶさんは今俺のことを好みだと言っていた。
しのぶさんの顔色からその事実を裏付けたいが、しのぶさんは前を向いたまま振り返ろうとしない。
「冗談ですか?」
「冗談なんかじゃありませんよ」
こちらを振り向いたしのぶさんは俺の手をとって自分の左の胸に当てる。
大きな乳房が俺の手に触れる。
「どうです? 私の心臓が脈打っているのがわかりますか?」
「ちょっちょっとしのぶさん? 駄目ですよ。こんなとこ人に見られたら誤解されますよ」
「これほど胸がドキドキするのもずいぶんひさしぶりです」
そのぱちりとした瞳でしのぶさんは俺の顔をのぞきこむ。
「正直に言ってみてください。あなたは私を見てどう思いますか?」
「とても、魅力的だと、思いますよ」
とは言うものの目のやり場に困る状況だ。
しのぶさんはそんな俺にはかまわずに話を続ける。
「……こんなことを言えば自惚れていると言われてもしかたありませんが、私は自分のことをどちらかといえば美しいほうだと思っています。……でもそれは私にとってなんの意味もない、無意味な美しさです」
しのぶさんはその体を俺のほうへと近づける。
しのぶさんの腕や胸は俺と同じ人間とは思えないほど柔らかい。
「この何もない村を見たでしょう? 私はこれからの長い人生をえんえんとここで過ごすのです。柘榴のように熟れてその実をはじけさせることもなく、ただただここで、ゆっくりと確実に枯れていくだけの女。それが私は何よりも耐えられないんです」
押しつけるようにしたしのぶさんの体からは、さっき飲んだ柘榴酒の香りがほのかにしていた。
俺の顔のすぐそばにあるその黒目がちな瞳からは、今にも涙がこぼれてしまいそうだった。
「だから、せめてあなたの中にだけでも、今の私を覚えていて欲しいのです」
しのぶさんの唇が俺のと触れようとしたとき、脱衣所のほうでなにか物音がした。
俺たちは磁石が反発したときのように、すぐにお互いから離れる。
「あれれー? 二人とも何してるのー?」
ほどなくして由花子さんが浴場へと入ってきた。
この口ぶりと態度から、どうやら一部始終を観察されていたことを俺は漠然と感じた。
くそ。
だったらもう最後までおとなしく見ていてくれればいいものを。
真っ赤になってしまったしのぶさんは俺に小声で「今夜お部屋で待っていてください」と言い残すなり、さっさとその場から立ち去ってしまった。
由花子さんは下卑た笑いを浮かべながら俺にこんなことを言う。
「こっちに来なよ康一くん。背中流してあげるからさ」
「あんたって人は……」
「あはは。ごめんごめん。つい我慢できなくなっちゃってね。しのぶさんも意外に大胆な人だね」
「あーもう。台無しじゃないですか!」
「だからごめんって。そのかわり今日はもう部屋でゆっくりしてていいからさー。許してよ」
あれだけ小声で話していたのに聞こえていたのか。
なんていう地獄耳だ。
さっき井上さんと話していた悪口まで聞こえていないことを俺は祈る。
「形兆には体調が悪いとかなんとかいってごまかしとくからさ。ちゃんと楽しませてあげるんだよ?」
余計なお世話だ。
そのおっさんみたいな表情を今すぐやめて欲しい。
だが一方で、というか下方では、もう今夜のことで頭がいっぱいだった。