伍 『ケンケン様』 1/7
居酒屋のアルバイトをしている男がいた。
男は夜遅くまで働いており、仕事が終わるころにはもう深夜になっていた。
ある日、仕事が終わって帰る途中の路地で、男は捨て猫を見つけた。
そのダンボールの中には、まだ生後間もないぶちの子猫が眠っていた。
男は子猫をかわいそうに思ったが、あいにく男のアパートはペットを飼うことができなかった。
かといって放っておくこともできない。
男は近くのコンビニでミルクを買い、子猫に与えた。
そのうち誰かが拾うことを祈り、男はその場をあとにした。
翌日も、その翌日も子猫はダンボールの中にいた。
通るたびに男は食べ物を与えていたが子猫は目に見えて衰弱していった。
痩せていく猫を見て、男はその猫を秘密で飼う決意をした。
その日、いつものようにアルバイトが終わると、猫が捨てられている場所へと男は走った。
しかし、男がそこに着くと、猫は野良犬に襲われていた。
ダンボールの上にかぶさっている野良犬を追っ払い、中をのぞいてみるとそこには無残な子猫の死骸があった。
男はその箱を抱きかかえながら、もっと早く自分が決意していればと後悔した。
野良犬は逃げずに少し遠くから男の様子をうかがっていた。
そして、男に話しかけた。
「少し遅かったな」
男が見ると、その犬の顔はたしかに人間の顔をしていた。
◆
人面犬を知らない人間はまずいないだろう。
口裂け女と同じように、誰でも一度は聞いたことがある都市伝説の一つだ。
一九八〇年代後半から一九九〇年代前半に大流行したこの生物にはほかにも数々の逸話がある。
いわく、助走なしで垂直に六メートルジャンプできるだの、時速百キロで走り、追い抜かれた車は交通事故を起こすだの、事故で死んだ人の霊であるだの、その数には枚挙にいとまがない。
だが結局のところ人面犬は、龍や鵺や件と同じように架空の生物にしか過ぎない。
都市伝説はある出来事に尾ひれがつき、途方もなく肥大したただの影なのだ。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
この格言どおり、ほとんどのものは闇に光を当ててしまえば、またもとどおり非日常からいつもの日常の中へと戻っていく。
けれども非日常から日常へ戻っていくはずのそれらは、ほとんど、であり、すべて、ではない。
一部の影は闇の中でたしかに存在している。
俺はそれをたしかに見てきた。
やつらは今も闇の中で光を拒みながら息づいているだろう。
だが気をつけて欲しいのはこれらだけではない。
異形の影に光を当てたとき、そこに現れたものが影を越えた、さらなる異形である可能性もないわけではないのだ。
これは俺こと河野康一が学生時代に体験した非日常の記録である。
◆
『ケンケン様』
八月。
大学は当然、夏休みである。
大多数の人間にとって『夏休み』という言葉にはいくらかのロマンが含まれているだろう。
プールに山に花火大会に肝だめしに海に昆虫採集にスイカ割りに、そのレジャーの数は枚挙にいとまがない。
この一事から見ても夏休みに人々がどれだけの期待をもって一年を過ごしているかがわかるだろう。
まして俺は人生の夏休みとも言われる大学生だ。
人生の夏休みであるところの夏休み、いわば夏休みオブ夏休みがそこで俺を待っていた。
前期のテストで軽快に単位を超越した俺は、そんなこんなで酒とギャンブルと日雇い労働を謳歌する毎日を送っていた。
「このままではやばい……」
と朝から一人布団の上で頭を抱えながら身悶えていると、大学の先輩である由花子さんから連絡が入った。
「温泉に行くぜ!」
そんな経緯で、俺と由花子さんと井上さんの三人(黛は風邪のためにお休み)は今山の中を歩いている。
なぜ山の中を歩いているのかと言えば、由花子さんが「普通の温泉はあきちゃったから、秘湯に行ってみたーい(はぁと)」とか言い出したからだ。
始めは「めんどくせぇなぁ」としか思わなかったが、いざ実行してみればこれはこれでいいものだ。
車のボンネットでお好み焼きが作れそうな都会にある夏と、木や草や川に囲まれた山の中にある夏はまったく別種のものだろう。
大量の室外機によって凶悪に育まれた夏はときとして俺たちに牙をむけて襲ってくるが、大自然によってのびのびと育まれた夏は俺たちのことを優しく迎えてくれる。
新品の絵の具で塗りつぶしたかのようなまっ白な入道雲と青空。
青々と繁った山の木々。
さらさらと流れる川の音に木々のあいだをそよぐ風。
都会ではただ暑さに拍車をかけるだけのうるさいセミの声も、ここではあくまで夏らしさを演出するにとどまっている。
そしてきわめつけは、こんなところでしか会えないであろう大きな森の熊さんだ。
「……死ぬかと思った」
野生のサルでもかくやという勢いで山を駆けぬけた俺は木の根に座りながら、ゼェゼェと不恰好に呼吸する。
胸は張り裂けんばかりに膨んではしぼむ。
あとちょっとで本当に張り裂けるかもしれなかったので、俺は自分が生きているということを呼吸することで噛み締める。
「……自分よりでかい生き物を久しぶりに見た」
四つん這いになりながら、俺同様に肩を大きく上下させながら息をしているこの坊主頭の大男の名前は井上形兆。
俺が大学で所属するオカルト研究部の部長を務めている。
「……スタンガンがきいて良かったよね。ちょっと動きがひるんだもん」
服が汚れることもかまわず地面に大の字になりながら荒く呼吸をしているこの綺麗な女の先輩の名前は狐宮由花子。
同じくオカルト研究部で副部長を務めている。
このオカルト研究部が普段なにをしているのかと説明を求められるとかなり困る。
由花子さんに言わせればエンジョイ&エキサイティングかつ人生の深淵にふれることができる大学一崇高な部活らしいが、俺から言わせてみればただ一年中悪ノリしている大学内でも屈指の珍妙さとカオスさを誇る部活である。
その由花子さんは現在、山の中で動きやすいようにと長い亜麻色の髪をポニーテールにして俺の目の前に横たわっている。
その姿は普段とは違ったラフな格好もあいまってとても魅力的だった。
白い頬を紅潮させ、ほどよく膨らんだ胸を上下させながらふぅふぅと息をしている。
それを見た俺はついさっき死にかけたにもかかわらず、股間を熱くたぎらせる。
疲労から無意識にじっと見つめていたので由花子さんと俺は目があった。
とっさに目をそらすが、由花子さんは俺のことを見ながらニヤニヤと笑っている。
くそ。
ばれている。
そのまましばらくニヤニヤしていた由花子さんだったが、急に顔が青ざめたかと思うと、立ち上がってポケットやリュックの中を猛烈な勢いで探り始めた。
それを見て俺と井上さんは同じように青ざめる。なぜなら由花子さんが必死に探しているものが俺たちには手に取るようにわかってしまったからだ。
これをなくすということは、つまり俺たちは――。
「地図とコンパスの消失を確認! 遭難です!」
「「そうなんですか!」」
俺たちはむやみに明るく、とにかく冗談でこの窮地から脱出しようとこころみる。
だがその行為もむなしく、俺たちの目の前にある現実の強度はあまりに強く、無情だった。俺たち三人のあいだには真夏だというのにうすら寒い空気だけが漂っていた。