参 『自殺の名所』 5/5
曇天の空が少しずつ紅に染まり始めていた。
こういった民家から離れた、人工の灯りがまったくない場所は夜になってしまうと、歩くのもままならないほどの暗闇になってしまう。
俺たちがどんなに物好きでも遭難したいというわけはなく、とりあえず森から近くの道路に出て、そこから駐車場の場所まで戻ろうということになった。
森一面に広がっている瑞々しい緑は、落陽を浴びて、ゆるゆると真っ赤に染まっていく。
秋風といってもいい湿気を帯びていない涼しい風がその木々のあいまをすり抜けていった。
この森は俺が住んでいる場所より一足早く、季節が移り変わっていくようだ。
ただ遊歩道を歩いているだけなら、ここもなかなか悪いところじゃない。
また今度一人で来るのもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、遠くのほうに人が立っているのが見えた。
その服装から、その人が森の入り口で出会った、あの女の人だということが分かる。
俺たちは思わぬ再会に手を振りながら、そちらのほうへ歩いていく。
無反応。
近寄った俺たちは、すべてを理解した。
夕陽で全身を朱に染めながら、彼女は宙にわずかに浮いていた。
風が吹くと、それにあわせて彼女も揺れる。
ギシギシと軋む音をたてながら、彼女は死んでいた。
ほんの少し前には、俺たちと同じように二つの足で地面に立っていた彼女は、もうこの地上にはおらず、かといって天に召されるわけでもなく、その境界を風に吹かれながらブラブラと揺れている。
これが、いや彼女が、俺たちが見てきたのと同じ死体といっていいものなのだろうか?
森の入り口で俺たちを見送ったあの笑顔を思い出す。
その足元には何かを埋めたような跡があり、そばのリュックの中には遺書が入っていた。
遺書を要約すれば、婚約した男に捨てられたということだった。
しかも相手の男は妊娠していた彼女を振って、別の女のところへ行ったらしい。
本来なら彼女のことをささえるべき家族は未婚にもかかわらず妊娠している彼女を疎み、絶望のうちに彼女は子供を生んだ。
子供が生まれても家族の態度は変わらず、そんな絶望的な状況の中でさらに彼女は絶望的な事実に気がついてしまった。
彼女には、愛すべき自分の子供ですら憎んでしまう心が生まれていた。
あの、最も憎悪している男の血が、半分でも子供に入っていることが、彼女には堪えられなかった。
だから彼女は子供と一緒にこの世からいなくなることを決意した。
彼女は家で子供を殺してから、リュックサックにいれてこの場所に埋め、自らの命を絶ったのだ。
ということは俺たちと出会ったときにはすでに子供を殺し、彼女は自殺を決意しながら俺たちと会話していたことになる。
あのとき、彼女はたしかに笑っていたにもかかわらずだ。
「ど……どうします? とりあえず人を呼んだほうがいいですよね?」
と言うと、井上さんは冷静に、俺が思いもよらないことを言い始めた。
「いいや。そっとしておいてやろう」
「そんな、かわいそうじゃないですか!」
「なんで? おまえは他にも死体を見てきただろう? そいつらは放っておいて、この人だけ特別扱いするのか?」
「それは……」
それまで黙って話を聞いていていた由花子さんも口を開いた。
「私も形兆と同意見。彼女なりに考えて出した生き方だもの、尊重してあげるべきだと思うな。たしかに子供はかわいそうだけど。致し方ないね」
「生き方もなにもこの人は死んでるんですよ?」
「君は彼女のこの姿を自分に重ねて、絶望としか捉えていない。これは絶望の姿なんかじゃない。これは彼女が考えた、最も幸福な姿なんだよ」
「幸福? これが幸福だと言うんですか?」
「ここには彼女と同じ仲間が大勢いる。彼女を必要としている人たちがいる。彼女を警察に通報したら、彼女はまた逆戻り。周囲から疎まれ、孤独にさいなまれる場所にね」
「でも……」
「いい? 本当に、真の意味で、死を望む人なんているわけない。これはたしかなことだと思うよ。死は絶望でしかないのだから。でも彼女は死のうと思って死んだんじゃない、生きようとして死んだの。その結果。それが叶った彼女の姿を、私たちがどうこうすべきじゃないと思うな」
それを受けて井上さんも言う。
「この人が考えていたことは、俺たちには一生わからないだろう。彼女の生きかたに俺たちは何も言えないし、何も言うべきじゃない。それより、なにより、もうすぐ陽が落ちる。面倒ごとはごめんだ」
「そうそう。警察の相手なんてそんな退屈なことに時間を費やせるほど私たちはヒマじゃないの」
俺は何も言うことができなかった。
しばらく沈黙したあと、由花子さんが黙ってその場から離れると井上さんもそれに続き、結局、俺もその場から離れた。
俺は後ろめたい気持ちがぬぐえず、なんとなく一瞬振り返ったときに見た彼女の死に顔を、今でもはっきりと覚えている。
◆
駐車場の車に乗って出たころには、あたりはもうすっかり暗くなっていた。
そうして車はもと来た道をまた戻り始める。
窓の外にはあの森が後ろへと流れていった。
俺はそれを見ながら、その彼女の死に顔を思い出していた。
それはまるで眠っているかのような、とても穏やかな表情だった。
(了)