体育祭に賭ける思い
日付が変わろうとする頃、明かりがついたアパートの一室に昔の週刊誌の一番最初に書かれている記事を開いたまま机に置く。その記事は今から六年前に書かれた記事だ。ある事件で逮捕された男性の容疑やどういう人間なのかなど過去について三ページに渡って書かれている。
この記事を書いた出版社は、大手ではないがこの記事のおかげでいつもより多くの部数が売れ、出版社の名前が多く世に知れた。たくさん売れた背景には、大手出版社よりも詳しく書いてあり、それが読者に受けたのだ。
記事に書かれている逮捕された男性は、大手証券会社に勤めていて、職場の同僚に仕事面で常日頃から馬鹿にされていて、暴行をした日に堪忍袋の緒が切れてしまったという理由で殴る蹴るの暴行を働き、同僚は肋骨や右足を骨折し全治半年という大怪我を負わせてしまい、警察に逮捕されてしまったのだ。
当時、このニュースは話題となり、ワイドショーでは堕ちた証券マンとして持ちきりだった。コメンテーターの中には、暴行した加害者が一番悪いのだが、普段から加害者を馬鹿にしていた同僚も悪いのではないか。被害者が加害者にしたのではないかという声も多数上がった。だが、理由はどうであれ、加害者が一番悪いのは言うまでもない。
話題となった週刊誌の記事を目の前に、大きなため息をつく。この記事の主となったその男性は、いつまでも消えない自分が犯した罪を悔やんでも悔やみきれないでいた。あの事件のせいで自分は妻と離婚する羽目になってしまった。自分が逮捕されてからすぐに妻から離婚届を突きつけられた。本当は離婚したくなかったが、自分のせいで犯罪者の妻としてこのまま婚姻生活を送るのは無理だと判断し、仕方のない事だと思っていた。
犯罪を犯す前に離婚した妻とは再婚同士で、子供はいなかった。お互い連れ子もおらず、休みの日には一緒に買い物に行ったり料理を作ったり、ドライブをしたり、一年に一度は旅行に行ったりと二人でつつましくも楽しい生活を送っていたのだ。
一度目の結婚は社会人二年目で、大学時代からの同級生と四年の交際を経て結婚した。結婚生活は五年で終わり、二人の子供がいた。現在、二人の子供は成人を迎えているが、離婚してからは一度も会っていない。二度も離婚をしてしまっている今、自分は結婚生活には向いていないのではないか。結婚をして女性を幸せにする資格はないかと思っている。
そして、再びため息をつく。あの事件さえ起こさなければ、今でも幸せな生活を送っていたかもしれない。自業自得と言われればそれまでだが、あの時は常日頃から馬鹿にされていて、同僚に対して怒りが頂点になってしまったのだ。自分は何事も一生懸命にやっていたのに…。アイツのせいで自分の人生はめちゃくちゃだ。自分を馬鹿にした同僚が何もかも悪いんだという歪んだ思いが今でも胸に残っている。
翌日も仕事があるため、そろそろ寝ないといけないと思い、週刊誌を閉じて敷いてある布団に入る。三年の刑期を終えた今は、知人に紹介してもらった小さな工場で働いている。きっと自分のような犯罪者は雇ってもらえないと思っていたが、結果、雇ってくれた。従業員二十人いるが、刑務所にいた事は全員知っていて、元犯罪者という目ではなく、一人の人間として接してくれている。そういう優しさが嬉しかった。
だが、今でもあのときの事を思い出すと胸が苦しくなる。人生の中で一番楽くて良い時期に犯罪に手を染めてしまった。自分のせいでその人生を台無しにしてしまった。
暴行を働いた同僚とは、同期入社で一番仲が良かった。彼は同期に中では仕事がよく出来て、仕事が遅れている同僚や部下にはフォローをして面倒見が良かった。上司からは評価が高く出世が見込まれた出来の良い同僚だった。
しかし、いつからか自分を馬鹿にするような言い方や態度に変わっていった。それがたまらなく腹が立って暴行を働いてしまった。
風の噂によると、怪我を負わせたその同僚はいいポジションについていると聞いた。自分とはまったく違う人生を送っている事に羨ましいという思いと同時に、自分も暴行していなければそれなりのポジションについていたかもしれないという気持ちが心の中に渦巻いていた。
二学期に入ったばかりの九月上旬、赤谷夏希が通う高校では三週間後に行われる体育祭の応援合戦の練習がされていた。夏希の高校では、赤、青、黄の三色の組に分かれていて、夏希のクラスは青組だ。練習は主に放課後で、二学期に入ってからは毎日のように練習が行われていた。
スポーツジム・ダッシュの事件後、どこかポッカリ穴が空いてしまったような夏希は、夏休みの宿題を進める手を何度か止まり、全部やり終えたのは夏休みが終わる前日だった。
「夏希、今日も練習だよな?」
夏希の同級生の原口仁が聞いてくる。
「そうだよ」
応援団となった夏希はいつものようにカバンをリュックのように背負いながら答える。
「夏希が応援団だなんてな」
その横で夏希の友達の今竹美夕が、夏希が興味のない応援団の練習に励んでいる事を信じられないといった様子だ。
「ボクだってやりたくないさ。でも、応援団になった以上はやらないとな」
夏希は仕方ないという口調で言う。
応援団を決めたのは抽選だ。一学期の期末テスト前のホームルームに、担任である山上哲平が体育祭の応援団をやる生徒を男女一人ずつ選ばないといけないから立候補する人はいないかという言葉に、誰一人としてやりたいと言い出す生徒はいなかった。これではらちがあかないという事で、○印がついた人がやるという事で、夏希とクラス一のヤンキーの増田義隆がやることになってしまったのだ。
義隆とやることとなった夏希は、内心ゲッと嫌な思いになってしまったが、義隆も同じ気持ちかもしれないと思ったのだ。それと同時に、やってみれば意外と楽しいかもしれないという思いになっていたが、それは見事に打ち砕かれてしまった。
夏休みに三色の色の応援団になった生徒は集められ、体育委員を担当している教師から応援団の練習に当たっての注意事項や振り付けなどの話がされた。そして、各色に分かれて、応援団長などを決める話し合いをした。応援団長や副団長は夏休みに何度か学校に来て、教師達と振り付けを考え、二学期に入ってから他の応援団の生徒に教えるというものだ。だが、思った以上に練習は厳しくて、応援団に決まった時に感じた楽しいかもしれないという思いを持った事を後悔していた。
だが、夏希のクラスの青組の応援団のサポートに入っている教師の中に担任の哲平の姿もあった。哲平がいる事を知った夏希は、少し安堵感を覚えた。
「応援団の振り付けが意外と複雑なんだよなぁ」
夏希はなかなか覚えられない振り付けに苦戦しているようだ。
「まだ体育祭までしばらくあるし、練習も毎日あるしなんとかなるだろ」
仁は自分が応援団だからじゃないからといってあっけらかんとしている。
「練習ってどれくらいやるんだ?」
美夕も夏希と同じようにカバンをリュックのように背負いながら聞く。
「その時にもよるけど、一時間から一時間半くらいかな」
美夕の問いに、思い出すような表情をしながら答える夏希。
「しかも、体育祭の前の週の土日は朝から練習があるんだ」
引き続き、夏希は答える。
「朝から!? 夕方までやるのか?」
美夕は驚いた声を出す。
「そうだ。朝十時から夕方五時までだ。昼休憩以外にも十分くらいの休憩もあってみっちりじゃないなからまだいいかなって思うけどな。でも、三年の応援団長や副団長が厳しいんだ」
夏希は応援団長などの上級生の厳しいのがなければ…と話す。
「それくらい厳しくしないと勝てないって考えてるんだろ? 応援合戦も対抗戦だからな」
仁は自分達も頑張らないというふうに言う。
応援合戦も競技の一つとなっている。午後一番の競技に行われ、体育委員長や体育教師が主に採点をし、応援団の振り付けや各色の生徒達の声がどれくらい出ているかなど事細かに採点されるのだ。
毎年、応援合戦はどの競技よりも熱が入っていて、夏希の高校では名物となっている。応援合戦の練習は生徒達も見に来るほどなのだ。
「夏希も頑張ってるんだからオレらも頑張らないとな。オレはリレーに出たいな。これでも小学生の時からずっとリレーに選ばれて出てるんだよな」
仁は自慢げに体育祭のリレーに賭ける思いを話す。
「仁は走るしか能がないからだろ」
美夕は自慢はそこかと思いながら言う。
「そんなことねーよ。今竹は言う事がトゲトゲしいよな」
仁はまいったなという表情をする。
「トゲトゲしいって…別にそんなつもりじゃねーけどな」
美夕はフッと笑いながら言う。
(仁と美夕のこのやりとり好きだな…)
二人の和やかなやりとりに笑いながら夏希は思う。
「あっ、そろそろ行かねーと。練習に遅れると怒られるんだ」
夏希は教室に掛けてある時計を見て仁と美夕に言うと、急いで教室を出て行く。
その姿を見た仁と美夕は、転入してきた時の夏希と違うなと感じていた。
翌日の六限目のホームルーム、この日は体育祭に出る競技を決める事になっている。哲平は先に毎年なかなか決まらないクラス対抗リレーと男女別リレーを決める事にした。
「最初にリレーを走る生徒を決めたいと思っている。リレーは二つあって、最初にクラス対抗リレーを決めたい。男女八人で走ってもらうことになる。一人50mずつ走る事が決まっている。一学期に走ってもらった50m走のタイムで決めたいと思う」
哲平がそう言うと、生徒達からはブーイングが起こった。
「体育祭なんてヤル気出ねーよなぁ…」
義隆がいつものように学校行事はめんどくさいという表情をして、哲平に聞こえるか聞こえない声で言った。
義隆の声が聞こえていた哲平は、
「増田、そういうことを言うな。学生なんだから行事に参加するのが当たり前の事だ」
いつものことだというふうに言う。
哲平にそう言われた義隆は、さらにめんどくさそうな表情をする。
応援団に抽選で当たってしまった義隆は、強制的に体育祭に参加しないといけないことに苛立っていた。練習には参加してきちんと振り付けを覚えているが、内心、心の中では嫌で仕方なかった。ただでさえ学校に行くが嫌なのに学校行事に参加しないとなるとなおさらだ。応援団に当たらなかったら、学校を休むつもりでいたのだ。
「応援団もあるしやってられねーよなぁ。体育祭なんてなければいいのに…」
義隆の不満はさらに加速していく。
「仕方ないだろ。無駄口はそこまでにして、リレーの出る生徒を決めるぞ」
哲平は義隆のそう思う気持ちもわかると思いながら、紙に書かれた50m走のタイムが速い男女上位四人ずつ名前を呼ぶと、走るかどうかを確認する。その中に仁の名前も入っている。八人共、走るという意向を返事した。決まった生徒を各競技の名前を書く欄に名前を書いていく。
「次に男女別リレーだ。これは五人で100mずつ走る事になっている。クラス対抗リレーに出る人は出なくてもいい。出たいという人がいればそれでいいが…」
次に男女別リレーに出たいという生徒を募る。
女子はすぐに決まったが、男子はなかなか決まらない。哲平は部活に入っている男子で走るのが速い男子が走るのはどうだという提案をした。すると、すぐに決まった。
そして、哲平はリレー以外の種目を書いていく。リレー以外の種目は、綱引き、玉入れ、大玉ころがし、七人八脚、パン食い競争、100m走、大縄跳びだ。
「リレーではこの二種目だけだ。リレーに出ない人でまだ何も出場しない人は黒板に名前を書いてくれ。リレーに出る人も出たいのがあれば書いていいぞ。一人一競技は出るように」
哲平はそう言うと、後は自分のクラスの生徒に委ねた。
夏希のクラスの生徒はなんだかんだ言いながら、自分の出たい種目に名前を書いていく。時折、哲平は生徒達の仲介に入った。ホームルームが終わる少し前にやっと決まると、哲平は今年は意外と早く決まったなという気持ちになりながら、ホッとした表情を見せた。
夏希は応援合戦以外に玉入れに出る事にした。本当はもう一種目出たかったのだが、当日は応援合戦で気持ちがいっぱいになっていて、体育祭どころではないと思ったからだ。
仁はクラス対抗リレー以外にパン食い競争と100m走に出る。美夕は綱引きと夏希と同じ玉入れだ。義隆はパン食い競争と大縄跳びだ。
リレーは午前中に行われ、どちらのリレーも学年毎に走る事になっている。夏希の高校は全学年十クラスあり、決勝に進んだ四クラスが一位から三位を決める事になっている。リレー以外に大縄跳びと綱引きも同様だが、綱引きだけは色ごとの対抗戦になっている。
「これで決まったな。来週の体育はほとんどが体育祭の練習に当てられる。体育祭の前日は全校生徒で予行練習をするが、行進や応援合戦などだけで競技は全部はやらない。その分、体育の練習でしっかりするようにな」
哲平は各競技に書かれた用紙を見た後、自分のクラスの生徒達が良い成績を残してくれると信じて言った。
夏希の高校の体育は週に二回ある。夏希のクラスは火曜日の四限目と水曜日の一限目だ。いつもは二日続きの体育があるのが煩わしく思う夏希だったが、体育祭が終わるまで体育祭の練習に当てられるとなると、体育祭の練習だけに専念すればいいので逆にそのほうが良かった。出来ればずっと体育祭の練習に…と思うが、そういうわけにはいかない。今週までは夏希が苦手なテニスなのだ。恐らく、体育祭が終わったらテニスが再開されると思われるが、早く別のものに切り替わってくれたらいいのに…と思う気持ちがあった。
「ヤマテツ、リレーの走る順番はいつ決めるんだよ?」
リレーに出る仁はまだリレーの走る順番を決めていない事を気にして哲平に聞いた。
「そうだな。今決めたほうがいいよな。そのほうが体育の練習の時に練習しやすいよな」
哲平はそういえばまだ決めてなかったなと思いながら言う。
そして、リレーに出る生徒を集めて、走る順を決める事になり、すぐに決まったのか紙に控える哲平。
哲平が紙に書き終えると同時にチャイムが鳴った。