5話 彼は料理も上手い
恵の半裸を目撃してしまった成美が正気に戻るまで、実に15分を要した。その間、明は無表情ながらこめかみに青筋を浮かべた恵からデコピンを食らっていた。バツゥン! とやや重めの音が部屋に鳴り響き、明りは上体を反らしたたらを踏む。行き成りの事で一瞬唖然とした明であったが、何すんのよ! と気合一発腹筋に力を込めて上体を元に戻し、反論した。が、更に一発。上体は再び反る。起き上がりこぼしの完成である。
まぁ、恵からしたら自分の顔写真が割れてしまった諸悪の根源な訳だから、その気持ちも分からないでも無い。
さすがに自分に負い目があったから一発目は仕方が無いと思っていた明であったが、有無を言わさずにデコピンを連続で仕掛けてくる恵に怒り心頭。そっちがその気ならと、登校時の清楚な雰囲気なんぞ犬にでも食わしてしまえと言わんばかりに雰囲気を一転。恵と同じく中指を構え武器に恵に向かい合うのであった。
ちなみに、恵のデコピンは両手を使うタイプ。つまり利き手の中指を反らし、反対側の手で限界ぎりぎりまで引き、手首のスナップを利かせて最高の一撃を相手の眉間に叩き込む言わば一撃に威力を求めるタイプ。
対する明のデコピンは片手で用いるタイプ。つまり曲げた中指を親指に引っ掛け、十分に威力が溜まった所で相手の眉間に打ち放つタイプ。まぁ、二刀流が出来るという訳だ。
恵は右手の中指に左手を添え、明は両手を構え、臨戦態勢をとる。
ぐにゃあ……と辺りの景色がゆがみ、両者の間に緊張が訪れた。
顔を真っ赤にし、目をグルグルと回し、湯気を立てている成美の「あうあうあう……」という呟きという名の開戦を知らせるゴングが高らかに鳴り響き、攻撃手段はデコピンのみと言う何ともくだらない戦いの幕が今ここに明けたのであった。
恵と明が喧嘩をすると家具に尋常ではない被害が及んでしまうので、家で喧嘩をするときはデコピンのみで。という協定が立てられていたというのは全くの余談である。
◇
「あいたたたたた……。どうすんのよこれ、一日で治るのかしら」
「……明が悪い」
成美が正気に戻った際真っ先に視界に飛び込んできたのは、仰向けになった恵に明が馬乗りになり、必死に両手でデコピンを放つ明と、それを上手くいなし、わずかに生まれた隙を突いてカウンターという名のデコピンを放つ恵という、傍から見たら訳が分からない異様な光景であった。本人達は至って真剣なのだが……彼らの名誉に誓って、今見た光景を無かった事にしようと心の中で決めた成美であった。
プスプスと額から煙を上げながらソファーに座る二人を、喧嘩をするほど仲が良い姉弟を連想し半ば羨ましそうに見つめる成美であったが、本来の目的を思い出すと姿勢を但し、頭をふかぶかと下げながら謝罪の言葉を述べ始めた。
「申し訳ありません恵さん。恵さんの顔写真が周りにバレてしまったのは、私のせいなんです」
赤くなってしまった額に冷却ジェルシートを張り痛そうにそこを擦る恵と明は、本題に入るや否や額の痛みなど忘れ去り、成美に向かい合った。
「はじめは休み時間に恵さんの写メを見ていた事が発端だったんです。それがたまたま友達に見つかってしまって……。その時は何とか知り合いのお姉さんと言う事で誤魔化したんですけど、お昼休みに学食に行ったときに落としてしまって……」
と、ここまでの説明で恵には大体の予想がついた。
つまり、誰かが拾った携帯の中を見たという事だろう。善意による物か悪意による物かは恵の知ったところでは無いが、落とした人物を特定するために色々中身を弄ったに違いない。
「結局、放課後に携帯は手元に戻ってきました。ですが既にその時にはもう手遅れで……」
データを盗んだ人物は恐らく男だろう。女装をした際の恵は明と肩を並べるほど綺麗なのだ。
「ごめんなさい。下校時間ギリギリまで恵さんの顔写真を持っている人を探して、出来る限りデータを消去したんですけれど……」
罪悪感に押しつぶされそうなのだろう。成美の声に徐々に嗚咽が入り始めた。
「私も手伝ったんだけれど、さすがに誰が恵の顔写真を持っているかまでは分からなくてね。……その、恵。私が言うのも何だけれど、成美の事―――」
と、ここで恵が徐に立ち上がった。明が彼をとめる声も空しく、テーブルを挟んで対面に座っている成美の元へと歩み寄った。
成美は決意していた。恵は写真を撮られることを極端に嫌う事を知っている。これは全部自分の責任だ。彼に何を言われようと仕方が無いんだと自分に言い聞かせ、俯いていた。
「前」
その言葉を「前を向け」と捕らえた成美は、恵の顔が目の前にあるという事実を理解仕切れなかった。真っ青だった彼女の顔は一度普段のそれに戻った。
「……へ?」
そして顔先10cmに恵の顔があるという現実を受け入れた途端、彼女の顔に熱が上がり、一気に真っ赤になった。信号機の様な女である。
「次はないよ」
と、恵は成美を許した。
これに驚いたのは明である。彼はフェミニストでは無い。ある程度は女性に優しくするが、ここにいるメンバーは全員愚連隊所属である。肉体言語も日常茶飯事であったからだ。
「……っ! すみませんでした!」
成美はもう一度謝罪し、半ば泣き笑いの様な笑顔を浮かべて恵に許しをもらえた事を喜んでいた。
のだが。
「ふんっ」
「!!?!?!?!!?!?!!??!!?」
前を向いた瞬間不意に額に訪れた重く鈍い痛み。そして飛び散る火花。成美には一瞬何が起こったのか分からなかった。
額を押さえてソファーでごろごろとのたうち回る成美と、冷却ジェルシートを張っていたとはいえ、先ほどのダメージが抜け切っていなかったのか額を押さえてふらふらをゆれている恵を見て、明はああ、何時も通りだと安心したのであった。
「ぬおおおおおぉぉぉぉぉぉ……あ、愛の鞭……」
「むぅ」
「まぁ、やっぱこうなるわよね」
~しばらくお待ち下さい~
「な、亡くなった祖母が見えました」
「妹が見えた」
「あんたら……まぁいいわ。成美、こんな時間だし晩御飯食べていきなさいよ」
寸劇が終わってからしばらく。痛みから解放された成美は、氷嚢で少し膨らんだ額を労わりながら先ほど恵からプレゼントされたヘッドバッドの威力に驚いていた。
その威力は相当のものであっただろう。何せ、頭突きを放った本人ですら軽くよろめいた程だったのだから。事実、頭突きは威力が高い。条件にもよるが、女性や子供が放った頭突きでも相手に重症を負わせる事が可能だ。アゴにヒットすれば一撃で昏倒させることも出来る。
武術に心得が有る者が使うとなるとその威力は更に跳ね上がる。鍛えられた腹筋と背筋により威力が増した頭突きを食らったのだから、成美としてもたまったものではない。
これはひょっとして族同士に喧嘩にも使えるかもしれないなどと変な電波をみょんみょんと受信しながら先ほどの頭突きを評価する成美を見て、あーこれは駄目になったかも知れないなぁとか失礼な事を考えつつ、明と恵の二人はキッチンへと向かっていった。
「恵、冷蔵庫から適当に野菜とお肉とって頂戴。あとお味噌」
「ん」
このやり取りだけで、今日の夕飯のおかずは決まった。豚肉入りの野菜炒めとサラダである。
普段レストランでバイトをしている恵にとって、夕飯を作る事など朝飯前である。夕飯だけど。
ストトトトトトトトトト。と料理の達人も裸足で逃げ出しそうなほど巧みな包丁裁きで食材の下ごしらえをする恵を尻目に、明はご飯と味噌汁の準備を始めた。
ちなみにリビングでは、いまだに頭突きに対しての考察を止めない成美の姿があった。彼女はよくも悪くも真面目なのかもしれない。
「ちょっと恵、あれ大丈夫なの? なんか変な電波受信してるし、さすがに心配になってきたんだけど」
「大丈夫……だと思う」
焦げ目がつかない様にフライパンを揺すりながら、恵もちょっとだけ不安そうに成美の様子を伺っていた。
喧嘩の際は大抵フルフェイスのヘルメットを被っているため、素で頭突きをしたときの予想以上の反動に、彼も少しだけ心配になったらしい。しかしそれよりも今晩のおかずの方が大事だったのだろう。すぐに視線をフライパンに戻すと、調味料で味付けをした後皿に盛り付け始めた。
「次はサラダをお願い。ご飯は高速で炊いてるから、後数分で炊き上がるわよ」
「ん」
と、食器を用意しながら恵に指示を出す明。実に息があっている。
しかし始めから二人の息が合っていた訳ではない。それこそ恵がこの家に厄介になり始めた頃は、味噌汁の味噌は赤味噌か白味噌か。目玉焼きには醤油か塩コショウか、ご飯は柔らかめがいいか固めがいいか等、更には買ってきた食材を冷蔵庫のどの位置に置くかまで、決めなければならなかった。
その都度デコピン合戦という不毛な争いが発生し、夕飯の時間が30分遅れる事などざらだった。ようは一年をかけ、互いの妥協点を探りあったという訳だ。
味噌汁は合わせ味噌。これに限る。