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最後に、何と声をかけましたか――地方都市の葬儀社で三十年、洗って着せて帰るだけの私が、争わずに争いを終わらせた話

掲載日:2026/09/09

湯灌の湯は四十度と決めている。


夏でも冬でも変えない。冷たいと家族が身を硬くする。熱ければ湯気が立ちすぎて、肝心の顔が見えなくなる。四十度だと、湯が肌を滑る音が部屋にちゃんと残る。その音があると、泣いていいのだと家族に伝わるらしい。誰に教わったわけでもない。三十年かけて、そこに落ち着いた。


早瀬喜市さんは自宅の居間で亡くなっていた。見つかったのが翌朝だったから、身体はもう硬い。右の肘を掌で包んで温めながら、少しずつ角度を戻していく。急ぐと鳴る。骨の鳴る音は、聞いた家族の耳に一生残る。


「そんなに時間、かかるもんですか」


背中で声がした。長男の道彦さんだ。五十五歳。県外の都市で印刷会社の営業所長をしていると、受付の段階で聞いている。喪服の上着を脱いで腕をまくっているのに、汗はかいていない。この家に着いてから、まだ一度も父親の顔を正面から見ていない人だった。


「あと二十分ほどいただきます」


「二十分」


「腕が伸びれば、着物の袖が通ります。曲がったままですと、背中を切って着せることになりますので」


道彦さんは何か言いかけて、やめた。廊下へ出ていく足音が畳を鳴らした。


背中を切って着せることになると聞いて、あの人は足を止めた。父親の顔は正面から見られないのに、着物を切られるのは嫌なのだ。いちばん痛いところを飛ばして、手の届くところだけを気にする。そういう人を私は何人も見てきた。


肘が伸びてから、湯をかけた。足先から膝、腿、腹、胸へと、心臓に向かって上げていくのが順で、逆から掛けると身体が驚くのだと最初に教わった。喜市さんの脛には古い火傷の痕が三つ並んでいた。鉄工所にいた人の脚には、たいていこれがある。溶けた金の粒が跳ねて、作業ズボンの布を抜けて刺さる。痛かったはずだが、この痕の持ち主たちは誰も休まなかったのだろうと思う。髪を梳いた。硬くて癖のない髪で、櫛はよく通る。手を取ると、右の親指の爪が横に一本、段になっていた。若い頃に潰して、そのまま伸びた爪だ。廃業して二十年になると聞いたが、こういうものは残る。


石海市は内海に面した人口九万の町だ。造船と紡績で保っていたが、ドックは十年前に畳まれ、河口の倉庫は錆びたまま並んでいる。旧市街の商店街は半分がシャッターで、開いている半分も昼を過ぎれば閉まる。市立病院の裏手に、社員七人の石海典礼がある。私はそこで三十年、湯灌と納棺だけをしてきた。


職能等級は入社二年目に一度上がって、それきり動いていない。昇進試験を受けなかったからだ。役職はない。部下もいない。給料は三十の頃とたいして変わらない。その代わり、腕だけが妙なところまで行ってしまった。県内の同業から、事故の現場や、長く見つからなかった方の現場で、名指しの応援を頼まれる。呼ばれれば行く。行って、洗って、帰る。三十年、そればかりだった。


去年の夏は、隣の市の川べりで見つかった方のところへ呼ばれた。八月で、二週間経っていた。若い担当が廊下で吐いていた。私は手を動かしながら、この方の爪がきれいに切り揃えられていることに気づいて、それを家族に伝えた。伝えると、家族の顔がすこしだけ戻る。腕というのは、そういうところに使うものだ。


私には、やめていない手順がひとつある。


湯灌を始める前に、その場にいる家族ひとりひとりへ、同じことを訊く。


最後に、何と声をかけられましたか。


意味を問われたことは何度もある。供養ですかと言われたこともある。違う。書き留めるわけでも、あとで使うわけでもない。その一言を聞いてからでないと、私の手が動かないというだけのことだ。二千件近く訊いてきて、返ってきた答えが二つとして同じだったことはない。


早瀬家では、その問いが厄介なところへ落ちた。


居間の隣の六畳に、佐々木真弓さんが座っていた。三十八歳。二軒先に住んでいる。父親が喜市さんの鉄工所で三十年働いていたそうで、付き合いは彼女が生まれる前からになる。喜市さんの奥さんが亡くなった十五年前から、この家の食事と洗濯は彼女が見てきた。今日も朝から台所に立っている。膝のあたりに、小学三年生くらいの女の子がくっついていた。


受付が始まる前に、二人の声が高くなった。


「父は判断がつく状態じゃなかった。あなたにそう言わされただけでしょう」


「言わされたって、何をですか」


「家と土地は真弓さんに。父がそう言ってたって、近所中が言ってる。誰が言い回ったんですか」


真弓さんは黙った。喜市さんが書いたという紙は確かにある。便箋一枚に、家と土地は佐々木真弓に、とだけ。名前と印はあるが、日付がない。それだと遺言として通らないと、道彦さんは調べてきていた。


「今月中に出てください。無理なら弁護士を立てます」


「こちらも立てます」


女の子が母親の袖を掴んだ。真弓さんは掴まれたまま、動かなかった。


線香の煙が真上に上がっていた。この家には隙間風がない。喜市さんが自分で建具を直していたのだろう。障子の桟がひとつだけ木の色が新しくて、そこだけ寸法がわずかに合っていない。手の震える人がやった仕事だった。


争えば三年はかかる。三年、真弓さんはこの家に住み続けられない。娘さんの学校も、彼女の勤め先も、町の東側に固まっている。西へ移れば全部が遠くなる。パートの勤めで家賃を払いながらそれを続けられるとは思えない。この町で行き場を失うというのがどういう手触りをしているか、三十年で何度も見てきた。


湯を張り終えて、二人に順番に声をかけた。


「お仕度の前に、ひとつだけ伺わせてください。最後に、何と声をかけられましたか」


道彦さんは鼻から息を出した。


「亡くなる三日前に、家から電話が来ました。出たら親父で。親父、悪かったな、と」


それだけ言って、口を閉じた。待ったが、続きは来なかった。何を悪かったと言ったのか。父親が何と答えたのか。どちらも言わない。言わない人の顎の力み方には型がある。忘れているのではなく、覚えているものを外へ出さないでいるときの顔だった。


真弓さんは台所のほうを見ながら答えた。


「お茶、いれますね、って」


「その前は」


「その前は……朝、起こしに行って。それだけです」


これも欠けている。答えの丈が短すぎる。十五年この家の朝にいた人が、最後の数日について起こしたことと茶のことしか言わないのは、言わないと決めているからだ。


欠けているところを、その場で埋めにいくことはしない。三十年で覚えたのはそこだ。隠している一言を突かれると、人は隠していること自体を守りにかかる。守りに入った人からは、もう何も出てこない。私は湯を落として、道具を片づけた。


通夜が終わって社に戻ると、事務所に社長の岸本さんが残っていた。六十三歳。私を採ったのはこの人だ。


「沢渡さん、例の話だけどな」


「お断りします」


「まだ何も言うとらん」


「湯灌の責任者、でしょう」


岸本さんは湯呑みを置いた。県内から名指しで呼ばれるのだから、部門を立てて私の名前を出したいのだと、先月から言われている。等級は三つ上がる。給料も上がる。


「もったいないだろう。三十年、等級ひとつで来て」


「肩書きがつくと、現場に行けなくなります」


「行けばええ」


「行けなくなります。人を割り振る側に回るというのは、そういうものです」


岸本さんはしばらく湯呑みの中を見ていた。この人は私が入った年に、三十まで持たんぞと言った。あの頃、女に湯灌をさせる社は県内に二つしかなかった。三十どころか三十年もったのは、この人が私に何も持たせなかったからでもある。


岸本さんは笑わなかった。しばらくして、そうか、とだけ言った。私もそれ以上は言わなかった。説き伏せたいわけではない。断るというのは相手を負かすことではなく、こちらが台から降りることだ。降りてしまえば取り合いにならない。取り合いにならなければ、私の手は誰にも持っていかれない。


翌朝、まだ暗いうちに早瀬家へ着くと、真弓さんが台所にいた。湯呑みを四つ、盆に伏せて並べている。


「昨日の続きを伺ってもいいですか。亡くなる前の三日ほどで、ほかに何か頼まれませんでしたか」


真弓さんの手が止まった。


「……道彦さんに、電話をつないでくれ、と」


「頼まれたんですか」


「はい。亡くなる三日前の朝です。番号は私が押しました。指が震えて、自分では押せないと言うので」


「それを、昨日はおっしゃらなかった」


「言えますか」


盆の上で湯呑みが小さく鳴った。


「私が言わせたって、あの人はもう決めてるんです。そこへ、電話も私がつなぎましたなんて。全部私が仕組んだことになるじゃないですか」


告別式の前に、控室で道彦さんを捕まえた。


「余計なことを申します。あのお電話ですが、掛けようと言い出したのは、お父様のほうだそうです」


道彦さんが顔を上げた。


「番号を押したのは、あの人でしょう」


「押されたのは佐々木さんです。指が震えて自分では押せないからと、お父様が頼まれたそうで」


道彦さんは口を開いて、閉じて、それから、まいったな、と言った。声が掠れていた。


「親父が何て言ったと思います」


「伺っていません」


「お前が決めろ、ですよ。それだけ。四年ぶりに声を聞いて、それだけです」


言ってから、道彦さんは自分の膝を見た。四年前に何があったのかは訊かなかった。訊かなくても、この人がその四年を、突き放された四年として数えてきたことは分かる。お前が決めろ、を、もう好きにしろと読めば、そうなる。


「お父様は、ご自分から息子さんを呼ばれました」


それだけ言って、私は控室を出た。何を決めろと言われたのかは、私が言うことではない。


台所へ戻って、真弓さんに湯呑みを一つ受け取りながら伝えた。


「息子さんは、悪かったな、とおっしゃったそうです。電話で」


真弓さんは、しばらく私の顔を見ていた。それから、はい、と言って、盆をきちんと持ち直した。


出棺のあと、道彦さんが玄関先で真弓さんに頭を下げた。弁護士の話は取り下げると言った。真弓さんは、家は要りませんと答えた。要らないなら誰が住むんですかと道彦さんが言い、しばらく二人とも黙って、それから道彦さんが、住んでいてくださいと言った。名義のことは追々でいいですと。


どちらも勝っていない。取りに行こうとしたものを、二人とも自分から下ろしただけだ。要求は一度も通っていない。誰も要求しなかったからだ。私が渡したのは、それぞれが知らずにいた一行きりで、あとは二人が勝手に読み直した。前提が二つ、欠けていただけだった。


霊柩車が角を曲がって見えなくなるまで、女の子は母親の隣に立って、その方向を見ていた。あの子はこの春に転校せずに済む。それだけのことが、この町ではときどき命の長さに直結する。


道彦さんは駅まで歩いていった。タクシーを呼びましょうかと訊いたら、いいです、と言われた。旧市街へ入っていく背中を見ていた。子どもの頃に通った道だろう。閉まったシャッターの前で一度立ち止まって、それからまた歩き出した。


家に帰って、抽斗から大学ノートを出した。


書きませんと遺族には言っている。覚えてもいませんと。そう言わないと、答えてくれない人がいる。抽斗には十九冊が重ねてある。厚さの違うのは、その年に何があったかで枚数が変わるからだ。


今日の分を三行書いた。早瀬喜市、八十二、長男、悪かったな。早瀬喜市、八十二、佐々木真弓、お茶、いれますね。


少し迷って、四行目を書いた。お前が決めろ。


私の帳面は、かけた言葉しか書かない決まりでやってきた。故人が言い返した言葉を書いたのは、三十年で二度目だ。一度目は十九冊のいちばん下、一冊目の最初の行にある。書いたのは入社二年目の秋で、以来一度も読み返していない。


あの年から、私は昇進試験を受けていない。


十九冊のいちばん下から、一冊目を抜いた。表紙が湿気で波打っている。開かなかった。開かないまま、今日の一冊の上に置いて、抽斗を閉めた。三十年いちばん下にあったものが、いちばん上に来た。それだけのことだ。


湯を四十度にするのは、そこに音が残るからだった。残った音は、誰にも渡さずにきた。十九冊ぶん持っている。それで足りている。


明日は九時に、市の東で一件入っている。

「新作ハイテンションコメディ『お前、今日誕生日じゃん!〜人の誕生日を絶対に忘れない男、全力のハッピーバースデーで世界を救ってしまう〜』の連載を開始しました!

2026/09/26 まで毎日19時更新、全12話完結まで毎日投稿です!

作品URL: https://ncode.syosetu.com/n0424ms/

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