希望の星が消えたあと
「この世に希望なんていらない」
全部、全部、何もかも消え失せてしまえばいい。
こんな世界、救う価値も救われる価値もないのですから。
そう言い残し、苦しそうに笑いながら、希望の星と呼ばれた少女はそのまま消息を絶った。
――そして世界は邪神に侵された。
§
ベネトナシュ・アルナイル。人々の期待を背負って戦うために輝いていた、希望の星の名だ。
しがない男爵家の令嬢だったベネトナシュは、たくさんの仲間と共に、順調に救世の旅を進めている……そのはずだった。
なのに、希望の星はもう僕たちを照らしてはくれない。
「彼女が消えた」と王都からの知らせが届いた時、平和でのどかだった小さな辺境の村は、混乱と狂気に包まれた。
領主の屋敷に向かっては「無責任だ」と鋭く責め立てる者。未来を嘆いて泣き伏せる者。神を見損なったと絶望して命を断つ者。
それをぼんやりとした心地で眺める僕は信じられなかった。誰一人として、彼女自身を惜しむことがないという事実が。
彼女を知らずにただただ縋るだけの立場であったなら、彼らの反応も理解できる。だが村人たちは皆、彼女を知っていたのに。言葉を交わしたことだってあったはずなのに。僕には本気でわからなかった。
ベネトナシュは、領主の一人娘。
しょっちゅう屋敷を抜け出し、村に降りてきては、「ベネトナシュ様はおてんばだなぁ」と村人を困らせていた光景が昨日のことのように目に浮かぶのは、僕だけなのだろうか。
彼女の美しさに一目惚れし、朗らかな笑顔に魅了され続けた僕だからなのだろうか。
「やっぱりあいつ、いけ好かないと思ってたんだ」
「貴族だからって偉そうな顔してさ」
「あんなお嬢様モドキなんかに世界を救うなんて無理だったんだよ」
「お供に魔法使いの王女様がいたんでしょ? その人がなんとかしてくれないかなあ」
彼女と共に楽しそうに遊んでいたはずの子供たちですら、失踪した彼女を案ずることはないどころか、罵るばかりだった。
ベネトナシュが希望であった頃は、信じているかのような顔をしていたくせに。
救いようがない。こんな世界、邪神に支配されて当然だったのかもしれない。
どこかの愚か者が封印を解き、この世に解き放たれた邪神。
その邪神を倒し得るのは、神の加護を受けて生まれた者だけ。創世神からのお告げに従って探し出されたのがベネトナシュだったわけだが、彼女がいない今はされるがままだ。
きっとそう遠くないうちに滅びを迎えるだろう。
彼女の決めたことだというなら、僕は終焉に不満はない。不満はないけれど。
「――どうして」
大丈夫、絶対に帰ってきますから、と彼女は笑っていた。
何の拘束力もない、ただの口約束。しかも交わしてからすでに三年も経っている。それでも僕は約束を反故にされたことが信じられなかった。
だって、ベネトナシュが嘘を吐いたことなんて、今まで一度もなかったのだ。
希望になんてならなくていい。世界なんて救わなくてもいい。
でも、なぜ帰ってきてくれないのか、その理由が知りたい。
――彼女に何があったのだろう。今、彼女はどこにいるのだろう。
その想いは日に日に募って、抑え切れなくなって、ある日「会いに行こう」と思った。
どこへ? わからない。わからないから、探しに行く。
僕は何も言わずに旅に出た。
僕が八つの頃、村にベネトナシュがひょっこり顔を覗かせたのが始まりだったと思う。
陽光を映して煌めく白金の髪に、青白い瞳。ふわふわとした白いワンピースと日傘。肌も白くて、まるで神に遣わされた天使のよう。こんな綺麗な子が存在している事実に驚いた。
「……君は?」
異様な神々しさを放つ彼女に誰も近づけないでいる中、気づけば僕は声をかけていた。
恐れも畏れもなかった。ただ、あまりの美しさに惚れ込んでしまっただけである。
名を問われた彼女は、屈託のない笑みを見せながら元気に名乗りを上げた。
「私はベネ。ベネトナシュです!」
ベネトナシュ、という名前を聞いてもピンと来なくて、遠くから引っ越してきたのだろうかと考えた僕ら村の子供は彼女と遊び回った。
彼女のワンピースも日傘も泥だらけになったが、誰も気にせず、ひたすら楽しんだ。
ベネトナシュが領主であるアルナイル男爵家の御令嬢だと知ったのは、通りがかった長老にこっぴどく怒られてからのこと。僕らと同い年の、箱入りで奔放なお嬢様はお屋敷にいるのはつまらないと駄々を捏ね、着いた先がこの村だったらしい。
「これからも遊びに来るから、よろしくお願いします」
帰り際にベネトナシュはそう言って、その宣言通り、翌日にはまたやって来た。
皆が皆、彼女を好ましく思っていたわけではなかったのだろう。それでも村の大人は皆受け入れて、子供は彼女と遊んだ。
そうするうちに、僕たちは友達になっていった。
いつも綺麗な髪も、日傘やドレスも、他の子たちとは違う。それでも彼女は決して僕たちを下に見たりはしなかったし、貴族らしくない飾らない性格をしていた。
彼女と過ごす毎日は今までとの比にならないくらい楽しくて、輝いていて。――希望の星と呼ばれるずっと前から、僕にとっての輝く星は彼女だった。
どちらかというと目立たない僕を明るく照らし、手を引いてくれる。そんな存在は後にも先にもベネトナシュしかいなかった。
「どうしてベネトナシュ様はそんなに僕を大事にしてくれるの?」
「んー、友達だからです。あとは、私に最初に話しかけてくれたのが、貴方だったから」
「そんなだけの理由で?」
「わからないでしょうね、オトメゴコロは複雑ですから。貴方ならベネトナシュ様じゃなくて『ベネ』って呼び捨てにしてくれてもいいです」
トクベツ、ですよ?
にっこり笑った可愛い顔は、今でも脳裏にくっきりはっきり焼きついている。
その日から、僕は恐れ多くも彼女を「ベネ」と呼び始めた。
九歳になっても、十歳になっても、美しく成長して十五歳となってさえ、その関係性が変わることはなかった。
それが変化したのは村に見知らぬ一団が訪れた時。
一団が一人一人に握らせた美しい魔石を唯一煌めかせることができたベネトナシュは、希望の星に選ばれた。一団は王家からの使者だったのだ。
彼女はすぐさま村を発つことになった。
僕は不安に泣きそうになったけれど、帰ってくると約束を交わしてくれたから涙は引っ込んだ。
別れを告げて、ほんのひとときだけ、僕は僕の、彼女は彼女の人生を生きることになるはずだった。
――はずだったのに。
彼女と過ごした日々はどこか遠い昔のように思えて、それがたまらなく哀しい。
「ベネ」
許された愛称を呼んでみたが、誰からの応答もなく、僕の声は虚空へと消えるばかりだった。
邪神の魔の手があちらこちらに伸びている。
邪神は一般的なケダモノを悪に染め、魔獣を作り出す。その魔獣は人々を襲い、人の営みを破壊して回っているようだった。
全てを喰らい尽くして奪ったあとは、どこへともなく消えていくらしく、無人のがらんどうになるらしい。
「この街も廃墟か……」
腐敗した死の臭いに満ち満ちた街をぐるりと見回しながら、希望の星がこの街に光をもたらしたことはあったのだろうか、と無意味なことを考えた。
たとえ一度救われたとしても、二度目の救いがあるわけではない。それは元から仕方のないことだった。
ベネトナシュだってきっとそれは承知の上で旅に出た。「単なる人助けのためではありませんから」と笑っていたのを思い出す。
「人助けのためじゃないなら、何のために?」
僕が聞くと、ベネトナシュは紅水晶のような瞳を輝かせて――。
「世界を救えば、わがままの一つくらいは許されると思いませんか?」
なんて、可愛らしく言っていた。
「何を願うつもりなんだ」
「なーいしょ! その時のお楽しみにしててください!」
彼女は一体、何を願うつもりだったのだろう?
ふらふらと寄り道しながら、僕が目指したのは王都だ。
王都ならきっと、誰かしらベネトナシュのことを知っているに違いない。彼女は国に管理されていたのだから。
誰でもいい。たとえ責任者がしらばっくれても、誰かが話してくれるはずだ。そう期待して、旅を進めた。
けれど、その先に待っていたのは。
悲鳴が聞こえる。心をかき乱すような、嫌な悲鳴が。
小さな子供を踏みつけにして逃げ惑う男がいた。魔物の牙を背中に突き立てられてもがく老人がいた。家族を犠牲にして、一秒でも長く生き残ろうとする者がいた。
この国で最も華やかであるはずの王都の光景に、僕は吐き気を堪えて目を覆う。
――この世の地獄が、そこにあった。
廃墟は何度も見た。だが、目の前で魔物が溢れ、新たな死体が作られていく様を見る経験は今までになくて――言葉を失う。
しかも、凄まじい惨劇が繰り広げられる最中、似合わない笑い声が響いてくるのがますます恐ろしかった。
少女だ。まだ幼さの残る、甲高い声だった。
「あはは、なんていい眺めなんでしょう。美しい王都がボロボロに破壊されていくのは、なんと素晴らしいのでしょうか!」
彼女が纏うのは、夜空より昏い暗黒のローブ。それでほとんど全身を覆い隠していた。
城の塔の登頂に立ち、さらさらと白金の髪を風に靡かせる彼女の姿に、僕は釘付けになる。
顔のところどころが焼け爛れて右目が潰れ、それでも美しく唇を歪める狂気に魅せられた……わけではない。彼女の周りを大勢の魔物が付き従うかのように取り囲んでいるから、というわけでもない。
だって、その禍々しい少女は、僕にとってあまりにも見覚えがあり過ぎた。
こんなのはあり得ない、と否定したくなる。世界を救うために旅立った幼馴染が、こんなところで、人の傷つく姿を見て笑っているなんて信じたくない。信じられるわけがない。
それでも、無事な左目の色と、可愛らしい声で理解させられてしまった。
「ベネ、なのか?」
届くわけもないけれど、思わず手を伸ばす。どうして彼女は振り向いてくれないのだろう。
塔の下へ走った。少しでも近くに行きたかった。
「ベネ! ベネトナシュ!」
叫ぶ。だが、少女は高笑い続けるばかりだ。
狂ったように。気がおかしくなったように。ただただ笑って、笑い転げて。
ふと、まっすぐ目が合った。
「――ああ」
輝きの失せた、濁った青白い瞳。その冷たさはとても言葉にできるようなものではない。
視線一つで背筋に震えが走るのなんて初めての体験だ。彼女とは今まで何度も何度も見つめ合ってきたはずなのに。
冷たい目のままで、彼女はこてんと首を傾げて見せた。
「どこかでお会いしたことがあるような気がしますね。どなたでしたっけ」
どなたでしたっけ。どなたでしたっけ。どなたでしたっけ。
彼女の言葉を脳内で何度か復唱し、それでも意味がわからなくて、掠れた声で問いかけることしかできなかった。
「…………ベ、ネ?」
「生憎ですが、私はベネじゃありません。そうですね……魔女とでも呼んでください」
吐き捨てるように言った自称魔女は、しかしどう見てもベネトナシュ・アルナイルだった。
目つきが変わっても、笑い方が凶悪になっていても、間違えるわけがない。
「僕だ。僕だよ! 本当に何も覚えてないって言うのか。それじゃあ!」
僕との約束も、忘れていたのか。
そう言いたかった。言いたかったが、言葉にするのが怖くて、僕は口をつぐんでしまう。
僕なんて容易く忘れられる程度の存在だったのだろうか。そんな風に思われていたのだろうか。
「私は残骸です」
鈴を転がすような声音で、しかしはっきりと、彼女は言い切った。
「かつて希望の星と呼ばれていた少女の成れの果て。それが私です」
その間も、逃げ惑う民衆に魔弾の雨を降らせ続けている。止めないと、と思いながら、僕は彼女を塔の下から見上げることしかできない。
壊れたように笑い狂う少女の、どこか苦しげな表情をただじっと眺めることしか。
「私に残されているのは裏切られた記憶だけです。仲間だと思って頼ってきた相手が私を憎く思っているなんて知らなくて、されるがままに手ひどく甚振られる記憶」
「――――」
「きっと、幸せだった頃の記憶と引き換えに復讐を果たし、世界を滅ぼすというのが邪神との契約内容だったのでしょう」
「邪神と……契約?」
「そうですよ。絶望した希望の星は悪に堕ち、邪神に魂を捧げたんです。だって、嫌だと言っても穢されました。悲鳴を無視して。いい気味だと、とても楽しそうに笑っていました」
言葉が出なかった。
絶句という表現でも足りないくらい。言葉を忘れてしまったような錯覚に陥るくらい。
「なら、こうして大勢を踏み躙るのだって、決して悪いことなんかじゃないですよね?」
無邪気を装って、鉛よりも重たい問いかけに、答えを返せなかった。
彼女の口からするすると語られたことは、普通には考えられないほどひどかった。真偽のほどはわからないけれど――目の前で虐殺を繰り広げる彼女を真っ向から否定できなくなるには充分で。
「あはははははっ!! いいですね、その顔!」
魔女は僕を指差し、大きく嗤った。
「私はこの世の全てを憎んでいるのです。最初から裏切るつもりで希望の星に優しく接した仲間も。希望の星を利用し、搾取し続けた王家も。何もかも壊れればいい。ズタズタのぐちゃぐちゃになれば最高です!」
最高と言っているくせに、涙一つこぼさない彼女が泣き叫んでいるように見えるのは、きっと僕だけだ。
希望の星については詳しくは知らないが、ベネトナシュのことは誰よりも知っている。
――彼女を救ってあげたい。
心から、強く思った。
魔女の話が本当であれば、ベネトナシュは消滅し、もうどこにも残っていない可能性もある。たとえそうだとしても……思ってしまったものは思ってしまったのだから仕方がなかった。
何の力もない、小さな村でのうのうと生きてきただけの僕に何ができるかはわからないけれど。
「無駄話はこれで終わりです。さて、このまま貴方を殺させていただくとしますね」
決意を固める僕へと、魔女の掌が向けられる。
彼女になら命を奪われてもいい。だが――。
「悪いけどお断りだよ。たった今、やりたいことができたから」
次々と僕めがけて飛来し、すぐ背後や耳元を掠めていく魔弾を、咄嗟に身を翻して避ける。それでも何発か命中して倒れそうになるのを我慢した。
魔弾は邪神と契約したという時に得た力なのだろう。禍々し過ぎて、全然彼女には似合わない。
「逃げるつもりですか」
「またいつか必ず会いに行く。ベネ、お願いだから、その時まで待っていて」
そう言い残して、僕は全力で逃げた。
容赦など一切ない攻撃だったからそうでもしないと死んでいた。魔弾のみならず彼女が従えている魔物に追跡され、巻き添えを喰らって周囲を走っていた何人も命を落としていたくらいである。
かつてのベネトナシュなら、自らが盾となり、全ての悪意を受け止めていただろう。
しかし僕はこの世界の希望にはなれない。なるつもりもなかった。
僕にとって大切なのはベネトナシュだけだ。彼女を捨て、裏切った他の有象無象がどうなろうが、どうでもいいのだから。
§
城で悠々と過ごしていた王族を皆殺しにしてやりました。
城に火をつけ、魔物をけしかけて逃げ道を塞ぎ、恐怖の中でジリジリと焼き殺す爽快さと言ったらありません。
『世界を救う』という大掛かりな茶番で王家の威信を取り戻そうなどと、愚かなことを考えた罰です。もっと苦痛を与えたかったくらい。
邪神を復活させたのがあの王家だと、どうして誰も気づかなかったのでしょう?
希望の星すら、事実を知らされたのは王女の護衛騎士に辱められている最中のこと。
希望の星を貶め、心を折ることは王家の計画の内でした。「務めを果たさない役立たずに代わってワタクシが世界を救うのよ」と、王女に嘲笑われながら教えられました。
王女は魔法使いの素質がありましたが、旅出の時は弱過ぎてとても邪神を倒す救世主にはなれませんでした。そこで求められたのが希望の星。希少な補助系の魔法を意識せず使える力のあった彼女は、王女が魔物との戦いを経て都合良く強くなるための道具だったのです。
本当は神に愛されてなどいませんでした。王家の、王女の、仮初の希望という名の道具でしかなかったのです。
それを知った時、少女の心はあっさり壊れてしまいました。
いえ、本当に壊れてしまった原因は別にあるのかもしれません。
私は残骸ですから、彼女が何を思ったのかはわからないのですが……溢れ返るような深い深い憎しみだけは、今もこの胸に在り続けています。
皆殺しです。皆殺しです。皆殺しです。憎しみを死に変えて与える、残骸の私はそれしか方法を知りません。
全てを忘れていたいのに、どうしてなのでしょう。
一人の少年の顔ばかりが頭に浮かんでくる理由が、私にはわかりませんでした。
あの日、王都を滅ぼした日、希望の星の名を呼んだ少年。殺してやろうと思ったのに、なぜか仕留め切れなかった少年。
彼は何者なのか。いえ、何者だって問題はないはずでした。
問題ないはずが、心臓を握り潰されているかのように苦しくて苦しくて仕方がなくなってしまうのです。
――助けて。
むしゃくしゃして、故郷の村を襲いました。
特別な思い入れはないのですが、なんとなく多くの絶望を見られる気がして。
ベネトナシュ・アルナイルをよく知っていたであろう人々がなぜか謝りながら命乞いしてきましたが、殺しました。胸のつかえは取り除けませんでした。
――どうすれば。
この痛みを抑えるには、笑い狂うしかありません。
耐えかねた私は、かつての自分を穢した者たちの元へと向かいました。
奴らは邪神を倒すべく、そろそろその住処に辿り着くことでしょう。しかしそう易々と討伐されてたまるものですか。邪神には、世界を滅ぼしてもらわなくてはいけないのですから。
――ああ、神様。
この世界をお創りになった神は、醜い人間に愛想が尽きて、邪悪になってしまったと言います。邪神の口から直接聞いた話です。
結局諸悪の根源は人間。だとしたら、私の行動は何も間違っていません。
――許してください。
邪神と契約して得た力なら、かつての仲間を塵のようにできます。
そうしたら、少しはすっきりするでしょう。
王都のことを何もわからず、不安だった希望の星に優しくしてくれていた王女。礼儀正しく、周囲への気配りや思いやりが上手で、信頼していた護衛騎士。王女とのやり取りを微笑ましそうに見ていた他の騎士や大勢の神官たち。
「お久しぶりです、皆様」
邪神が住居としている高山の麓にて、彼らを出迎えました。
元から人や動物の目を惹きつけやすい体質だった私は、邪神の力を取り入れることで魔物を従えられるようになっています。山をぐるりと魔物が取り囲んでいますから、逃げ道は存在しません。
ここまでは、計算通りでした。
計算通りだったというのに――――。
殺せませんでした。魔物をけしかけることも、近寄ることすらできないという体たらくでした。
邪神に願って、仲間への情というものは綺麗さっぱり忘れています。復讐の邪魔になっては困るからその方がいいと、希望の星だった少女が判断したからです。
記憶は失われても、本能に刻みつけられた恐怖が消えてくれなかったのでしょうか。
――嫌です。嫌です。やめてください。
ぽろりと涙が溢れました。辱められた時に遊び半分で護衛騎士に噛みつかれて光を映さなくなった右目から。
「二目と見られないような顔にしてあげる」と王女に顔を焼かれた痛みが蘇り、膝をつきそうになりました。
私は魔女です。邪神と契約した以上、ろくでもないこの世界を終わらせなければなりません。
こんなところで屈してはいらないと顔を上げようとして、でも、激しい震えに襲われて。
「驚いたわ。死んだと思ったのに、邪神の配下に転身していたなんて。でも、雑魚ね」
「……ッ!」
侮辱の言葉に苛立ち、無闇やたらに放出した魔弾は、一つたりとも命中することはありませんでした。
避けられているわけではなく、当たらないのです。
「また遊んでやりたいのですが」
「いいわよ? それならさっさと捕まえてしまいなさい」
「はっ。ありがとうございます!」
王女の護衛騎士が私へとギラついた目を向けてきます。私を甚振るのを至高の娯楽とでも思っている猿なのでしょう。
猿の相手をするのだけは二度と御免でした。
ああ、早く殺さないと。
「あはははっ!」
意味もなく笑みが漏れました。
いつもよりも増して頭がおかしくなっている、そんな気がします。
殺さないと。殺さないと。殺さないと。
強い衝動のままに手を伸ばし、そのまま再び魔弾を放とうとして、そして――。
手首を、誰かにそっと掴まれました。
王女ではありません。希望の星を穢した、王女の護衛騎士……でもありませんでした。
どこにでもいそうな平凡顔の、栗色の髪と瞳をした少年。ですが、彼の顔を忘れた日などあるわけもなくて。
「おい誰だお前!」
「一体どこから現れたのよ! まさか、雑魚の仲間?」
キャンキャンとやかましい王女たちをガン無視して、彼は私と向かい合い、囁いてきました。
「助けに来たよ、ベネ」
取られた手を持ち上げられ、軽く口付けられます。
それは殿方から淑女へと愛を伝える時の行為だと知っていました。なのに不思議と嫌悪感が湧かないのは、あまりにも少年の目がまっすぐだったからでしょうか。
「どう、して」
この世界に希望なんていらない。そう思って、希望の星として輝くことを辞めたはずでした。
それでも、私にとっての希望は現れてしまったのです。名前すら知らない、記憶にある中ではただ一度話しただけの少年の姿で。
「僕は君のトクベツだから」
「……トクベツ?」
「昔、君がそう言ってくれたんだよ。『トクベツ、ですよ?』ってさ」
「あはっ、純情可憐な乙女ぶっちゃって、可愛いですね。残念ながら私は知りません。そんなのは記憶にない思い出です」
堕ちる前の希望の星、世間知らずのお嬢様感を隠しもしなかった彼女ならば言いかねない……というかおそらく言っていたのだろうと理解しますが。
――会いたくなかった。
覚えていなくたって、わかってしまいます。
少年がかつての私と関わりが深かった相手であることも。おそらく彼を理由として、希望の星が悪に堕ちたのだということも。
悲しいとは思いません。嬉しいとも思いません。ただ、激しく鼓動を繰り返す心臓が痛くて痛くてたまりませんでした。
痛みと共に、残骸の私がひび割れてしまうほどに。
§
邪神に願って、力を手に入れた。
ここまで至るのは簡単な話ではなかった。何度も死にかけたし、そもそも邪神がどこにいるのかすらあやふやだったくらいだ。
邪神を調べても王都が壊滅したせいで得られた情報が少なかった。なので人づてに、希望の星が含まれていた一行の足跡を聞いて回り、それを丁寧に辿っていくという地道な方法を取らなければならなかった。
そうしてやっと居城がわかった僕は、躊躇うことなく邪神に頼み込んだのである。
邪神は元々は創世神で、人が抱く強い―― 「世界を救いたい」だなんていう夢物語ではなくて、もっと切実で痛みを伴う願いを聞き入れてしまう性質なのだとか。
僕が願ったのは、力を手に入れること。
ベネトナシュを救うための力が欲しかった。再び彼女の本当の笑顔を見たいから。かつての約束を、思い出してほしいから。
その他に望むものはなかった。
邪神と契約を交わしてしまったので、僕も悪に染まってしまったのかもしれない。だが元々僕は正義側にいたわけではない。ベネトナシュが堕ちたなら、それについていくだけだ。
そして手を取って、暗い闇の中から引き上げてみせる。
邪神が住まう山の麓、そこでは下品な笑い声が響いていた。
ベネトナシュの、狂ったような、引き攣ったようなそれではない。心底楽しくてたまらないというのが丸わかりな、僕が生まれ育った村でも稀にいた悪ガキのそれに似ている。
ただ、笑い声の主は悪ガキとは程遠い、王女とその仲間であった。
「また遊んでやりたいのですが」
「いいわよ? それならさっさと捕まえてしまいなさい」
彼らと向かい合うのは、黒いローブをはためかせる少女。
ベネトナシュは笑いながら泣いていた。
記憶はないと言っていたが、その言葉のどこまでが本当だったのか。仲間だった相手を殺すなんて優しい彼女にはできなかったのかもしれないし、あるいは強気に振る舞っていただけで、恐ろしかったのかもしれない。
だから僕が彼女の盾となり、前に立つ。
「助けに来たよ、ベネ」
手の甲に口付けたのは、自分は敵ではないと伝えるためだ。他意はない。
好きな女の子の前ではなるべく格好つけたいだとかではなくて、ただ、ベネトナシュを安心させてあげたかった。
もうずっとずっと長いこと、苦しんできたに違いないのだから。
復讐なんてしなくていい。涙だって流さなくていい。全て、僕が引き受けよう。
見た目だけは華やかな王女とベネトナシュを襲った護衛騎士は、絶対にこの手で滅ぼしてやる。
邪神から与えられた漆黒の剣を、静かに敵へと向けた。
§
王女は主に攻撃魔法を得意としています。騎士は剣。神官は大した戦力にはなりませんが、数だけは多いので邪魔です。
普通に考えれば、到底一人で相手などできません。けれど、彼はやってみせました。
しかも、その大半を一瞬でねじ伏せてしまったのですから、つい先日まで非力な少年であったとは信じられないほどの変貌ぶりでした。
残るは王女と、忌々しい護衛騎士の二人だけです。
私は彼の背中をただじっと見つめていました。無防備で、私のことを信じて疑っていない、優しい背中でした。
その無防備さに腹が立ちながらも、撃ち抜いてやる気にはなれません。
一体何をしているのか、自分に問い詰めてやりたい気分です。
救われてはいけないのに、想われる価値なんてないのに、助けてほしいと望んでしまっているとでもいうのでしょうか。
ピシリピシリと脳内で音が響き、私が砕け散っていきます。憎しみが別の感情へと塗り替えられていくのです。
私は魔女とでも名乗るべき者です。この世界に平和をもたらす意味を見失った、希望の星の残骸。最初から塵のような存在でしかないのですから、崩れ去るのは必然だったのかもしれません。
少年が騎士へ斬りかかっていきます。その最中に王女から魔法で横槍が入りますが、構うものかとばかりに蹴りを繰り出して、王女を吹き飛ばしました。
そして――。
漆黒の剣が、護衛騎士の喉元に突き立てられました。
かつての私がどれだけ抗っても勝てなかった相手。旅の道中、暗い森の中で押し倒されて、好き放題に弄んできたその男の首から、赤い飛沫が跳ね上がります。
「そんな……っ」
王女が悲鳴を上げました。一方、私は息すら忘れて目を見開くことしかできませんでした。
少年がそんなことをする必要はないはずです。
邪神に願う必要も。私に味方し、背に庇う必要もありはしないのに。
「何なのよ! 本当にもう、何なのよ! ワタクシが世界を救うの。そのために仮初の希望を作って、わざわざ壊してあげたのに……こんなのって!」
ヤケになったのか、炎やら嵐やら何やらの特大魔法を作り上げる王女。
剣一本ではとても防げない威力です。それでも、少年は怯むことはなくて――。
「優しいベネを傷つけた罰だよ」
愛しさが込められた言葉を呟いてから、無謀にも正面から突っ込んでいこうとしました。
このまま王女と相討ちになってくれれば私としては助かります。面倒な連中が一挙に死んでくれるわけですから。
――それでも私は。
半ば反射的に、補助魔法を発動させていました。少年の魔法耐性を一時的に強くするというもので、希望の星と呼ばれていた頃は仲間たちに使っていた魔法です。
邪神との契約を結んで穢れた力を取り込んだため、元の魔法が使用できなくなる決まりでした。それが使えるようになったのは、おそらく、契約に綻びが出始めたからでしょう。
彼に出会って、希望の星であった頃の記憶が疼き出してしまったがための綻びは、どうしようもないくらい私の中で広まっていたようです。
「ベネ……?」
王女の猛攻撃に耐え抜き、あっさりと敵の胸を貫いた少年が、驚いた顔で私を見つめます。
そう呼ぶのを許したことを私はたった今思い出しました。思い出してしまいました。
箱入りとして育てられたつまらない幼少期。
彼との出会いの日のこと。
一緒に過ごした、キラキラと輝いていた毎日。
彼に抱いていた特別な想い。
村を発つ前に交わした約束。
そして――世界を救った暁に、王にでも頼んで叶えてもらおうと思っていた、私のわがまま。
どうして希望の星が……私が記憶を封じていたのか、理解できてしまいました。
幸せだったからこそ、邪神を倒しさえすれば平和で平穏な人生が待っていると信じて疑っていなかったからこそ、耐えられなかったのでしょう。
全てが今更でした。
だって、故郷の村を焼いてしまいました。
「ごめん、なさい」
王都も今は存在しません。
「ごめんなさい」
私が馬鹿だったから、誰よりも大好きな貴方との未来を守れなかった。
「ごめんなさい。私はもう、貴方の花嫁にはなれないのです」
§
いつからだろう。ベネトナシュから邪悪な気配が遠ざかっていた。
消滅したわけではないが、僕に向けられた魔法は彼女固有のもので間違いない。禍々しい魔弾などよりずっと、彼女らしい温もりがそこにあった。
王女の胸から剣を引き抜こうとして、うまく抜けずに諦め、ベネトナシュの方に駆け寄る。
ベネトナシュは、力なく膝をつき、絞り出すようにして繰り返し繰り返し同じ言葉を呟いていた。
「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」
言葉の刃で、自分を傷つけるように。
魔女の狂笑という仮面を剥がしてしまえば、そこに残るのは悲しみに震える、ただの少女だった。
ベネトナシュは……ベネは、消えてなんていなかった。
たまらなく嬉しくて、喜ばしくて、考えるより前に僕は彼女を抱きしめようとした。けれども手は宙を掠め、拒むようにゆるゆると首を横に振られて。
そして、告げられる。
「ごめんなさい。私はもう、貴方の花嫁にはなれないのです」
――――――ああ、そういうことか。
世界を救ったあとに叶えたいと話していたわがままの内容が、今、ようやく理解った。
想いを寄せていたのは、僕だけではなかったのだ。
男爵家の生まれのベネトナシュと平民の僕。身分差があり、本来であれば結ばれるわけがない。故にこそ、だ。
どう答えるのが正解か、と考えたが、最適解は導き出せない。「そんなことないよ」という平凡な慰めしか言えなかった。
ほんのささやかでも救いになってくれますように、と願いながら。
「……嘘です」
「嘘じゃない」
「昔のように綺麗で純粋な女の子ではなくなってしまいました。焼かれた顔は醜いし、潰された瞳はとてもおぞましいでしょう?」
「それでもベネはベネだよ」
「でも! 貴方ではない男に口付けられました。貴方ではない男に……穢されてしまいました」
「うん」
知っている。
「だけど、嫌いになんてならない。なれるわけがない。今も昔もずっと、ベネが好きなんだ」
「自暴自棄になって、何人もの命を奪って。幸せになる資格はありません」
「人殺しなのは僕も同じだ」
「何より、信じて待っていてくれた貴方に顔向けできないっ!」
言いながら顔を俯けるベネトナシュ。
彼女の悲痛な心の叫びに、僕は静かに頷いた。
「それでもいい。それでもいいんだ。幸せにならなくたっていい。幸せになれなくたっていい。君と生きられたならなんだって構わないよ。だからさ――」
彼女の濁っていない方の瞳が僕に向けられる。
近づく距離。互いの吐息と視線が交わった。
「どうか、僕のわがままに付き合って」
これでもなお拒まれたなら、僕に彼女を救う資格を有していないということになる。そうなったらどうしよう、そんな不安に苛まれる時間が続いたが、顔を背けられることはなくて。
やがて、彼女は笑った。
「助けられてしまった以上、仕方ないですね」
狂笑ではない。苦しそうな笑顔でもない。村にいた頃の、あの朗らかな笑みだった。
そのあと、二人で邪神を討伐した。
ベネトナシュの魔法で力を増して、僕の剣で斬って倒したのだ。討伐後、契約の反故によって僕たちの闇の力は失われた。
だが、決して世界を救いたかったのではない。僕とベネトナシュの未来を手に入れるためには必要なことだった、それ以上でも以下でもない。
変質する前は創世神であったとしても、悪であることに変わりはない。邪神自身も、「それが定めなのやもしれぬな」という風に案外あっさりその結末を受け入れた。
「希望の星でも人間の王女でもなく、悪に堕ちた者たちに滅ぼされるとは思わなんだ」などと苦笑してもいたが。
魔物を用いてじわじわと勢力を広げていた邪神に比べ、ベネトナシュの方がよほど多くの被害をもたらした巨悪と言えるだろう。聞いた話によると、彼女はいずれ世界を滅ぼそうとすら目論んでいたようだし。
希望の星は堕ちた。だから二度と堂々と夜空を照らすことはしない。ただ、与えられた使命を果たして、一区切りはつけた。
希望の星でもなく、魔女でもない。白い日傘に純白のワンピース姿がよく似合うベネトナシュ・アルナイルに戻った彼女を伴い、僕は村へと戻ってきた。
死体しかない村だ。村を出た時は、ベネトナシュを罵倒する人々がいたはずである。
「ごめんなさい」
「いいよ……ってわけにはいかないけど、ちゃんと約束を守ってくれたから、僕は許すよ」
帰ってくる、という約束。もう果たされないかもしれないと思っていた約束が叶ったことが、とても嬉しい。
「死体はせめて綺麗に埋葬してあげようか」
領主、すなわちアルナイル男爵は、娘のやらかしの責任に嫌気が差して、夜逃げしたという。その直後に村で惨事が起きたため、管理する者はいなくなっていた。
村人たちを墓地に埋めてしまえば、村に残るのは僕とベネトナシュだけだ。
これからは、僕たちが二人きりでこの村に住まうことになる。誰にも知られず、ただ、ひっそりと。
破壊し尽くされたこの世にはもう、希望らしい希望は残っていないかもしれない。
愚かで醜い人間たちは名声を求めて新たな悪を作り出し、争いを繰り返してしまうのかもしれない。
けれども、そんなのは僕には関係がなかった。
だってベネトナシュがすぐ傍で笑ってくれている。
心の傷は癒え切ってはいないだろう。恐怖や憎悪を思い出してしまうこともあるとは思うが、彼女を暗い闇の底から引きずり出し、笑顔を取り戻させることはできている。
それだけで充分だった。
「ベネ、好きだよ」
「……なんですか急に。気安く想いを伝えてオトメゴコロを揺すぶるのはやめてください」
「ごめん。可愛くて、つい」
先のことはわからない。
ただ、たとえこの愛おしい毎日が崩れ去ったとしても、何度でも僕はベネトナシュを救ってみせると決めている。
どんな手を使ってでも、必ず。




