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太一と美由紀

作者: 日下部良介

 小さな男の子の体は砂浜の上にぐるりと転がった。何度も何度も転がって、ついには大の字になって空を仰ぎ見た。

「太一は弱いな」

 そう言って太一の顔を覗き込んだのは同じ年頃の女の子。更にその上から日焼けした真っ黒な顔が重なり、白い歯を見せた。

「でも、根性だけは認めてやるよ」

 女の子の兄であるその少年はゆっくりと太一に手を差し伸べた…。




 スマートフォンのアラーム音が鳴る。太一は体を起こし、スマートフォンを手に取る。アラームを解除するとそのままの姿勢で目を閉じて、今まで見ていた夢の内容を整理する。そして苦笑した。




 子供の頃、近所に住んでいた兄妹とよく遊んでいた。妹の方は太一と同じ年だった。その二つ上の兄とよく相撲を取った。海岸の砂浜で。毎日何度も相撲を取った。夢に出てきた場面は彼と最後の相撲になった時の場面だった。何度やっても勝てない太一に妹の方が声を掛けたのだ。




「ん? 待てよ…。あの後、美由紀ちゃんはまだ何か言っていたな…」

 美由紀は妹の名だ。美由紀が何を言ったのか太一は思い出せなかった。勝てない悔しさでちゃんと聞いていなかったのかも知れない。その日の夜、兄妹の家族は町から出て行った。あとから聞いた話だが、父親が事業に失敗して借金をこさえ、夜逃げしたのだとか…。


 気を取り直してベッドから抜け出ると、冷蔵庫を開けて1リットルパックの牛乳を取り出し、パックのまま口に注ぎ込んだ。それからソーセージの袋を噛み破り、丸ごとくわえると、そのままワイシャツを着てズボンをはいた。ネクタイを手に取って鏡の前に移動し、ソーセージを口に詰め込みながらネクタイを締めた。歯磨き粉をチューブから左手の指に押し出すとそのまま口を開けて直接歯に練り付けるとコップの水と一緒にうがいをして歯磨きを終えた。

「行ってきます」

 一人暮らしの太一の部屋には他に誰も居ない。けれど、出掛ける時に「行ってきます」と言うのは子供の頃からの習慣で一人暮らしの今でも出掛ける時にはそう口にしてから家を出る。




 太一は大学に進学してから、ずっとこの木造2階建てのアパートに住んでいる。太一の家も両親が離婚し、それを機に太一は母親とともに母親の実家がある東京に移り住んだ。そして、そのまま東京の大学に進学した。進学を機にこのアパートで独り暮らしを始め、この春から社会人の仲間入りを果たした。




 ドアを閉めて鍵をかけると腕時計を見た。

「やばい」

 2階から階段を駆け下りると、自転車に飛び乗り駅へ向かって必死にペダルを漕いだ。そして、何とかいつも乗る電車の時間に間に合った太一はいつもと同じ2両目の一番後ろのドアから電車に乗り込んだ。

「おはようございます。また会いましたね」




 太一に声を掛けて来たのは同じ会社の女の子、美由紀だった。太一が急いで駅までやって来たのは、この美由紀と同じ電車に乗るためだった。美由紀を見るたびに太一はどこか懐かしい気持ちのなるのだった。

 美由紀とは入社式のときに出会った。太一が美由紀のことを意識しだしたのは彼女の名前が“美由紀”だったというのもある。そう、子供の頃によく遊んだあの“美由紀ちゃん”と同じ名前だったから。もっとも苗字は違っていたので全くの別人なのだけれど。

 研修期間を終えて、同じ部署で一緒に仕事をしているうちに太一は美由紀と仲良くなり、美由紀が同じ沿線に住んでいるのだと知った。一度、偶然同じ電車に乗り合わせたのをきっかけに、太一は意識して同じ時間の同じ車両、同じドアからその電車に乗るようにした。その甲斐あって、かなりの確率で美由紀と出会うことが出来た。




「まあね。同じ時間に同じ会社に行くんだから仕方ないね」

「あら、仕方ないの?」

「ん?」

「私は川島君と会うのをいつも楽しみにしているんだけど」

 彼女の口から出た思わぬ言葉に太一はドキッとした。

「えっ! いや、本当は僕もそうなんだ。飯田さんがこの沿線だと聞いてからずっと探してた」

「まあ! 川島君ったら調子いいのね」

 電車は都心に向かうにしたがって次第に混み合ってきた。そんな電車の中で太一は美由紀と一緒に居られる時間に幸せを感じていた。


 この日もいつものように、いつもと同じ電車で美由紀と出会った。この日は運よく電車に乗った次の駅で太一たちの前に座っていた乗客が二人電車を降りた。

「座る?」

「そうだね」

 二人並んで、空いた目の前の座席に座る。座ると同時に美由紀が話を始めた。

「川島君って、下の名前は“太一”だよね」

「そうだけど、それが?」

「わたし、子供の頃によく遊んでいた男の子が居て、その子も“太一”って名前だったの。川島君はその子とは名字も違うから別人なんだけどね。研修の時に川島君の自己紹介を聞いた時に、“太一”と同じ名前だ…と思ってなんだか懐かしくなっちゃって。太一なんて名前の子、そんなには居ないから… あっ、次だね」

 美由紀の話はそこで終わり、電車は会社がある最寄り駅に到着した。二人は電車を降りた。


 太一は歩きながらずっと美由紀の顔を眺めながら、電車の中で美由紀が話していた話を思い返していた。その心中は穏やかではなかった。心臓の鼓動が高鳴り、息苦しくも高揚感で胸が弾んだ。

「ねえ、始業時間にはまだ余裕があるから、お茶でも飲んでいかないか?」

「あら、川島君が誘ってくれるなんて珍しいわね。私はかまわないけど」

 二人は駅に近い場所にあるカフェに入った。


 二人は其々オーダーした飲み物を受け取ると店の奥の席へ移動した。この通りは同じ会社の人間も大勢通る。窓際の席では目立ちすぎる。

「あの時、美由紀ちゃんは何て言ったんだ?」

「えっ? なに? いきなり美由紀ちゃんって…。 あの時っていつのことよ」

「あの砂浜で、僕が美由紀ちゃんのお兄さんに相撲で負けた時、美由紀ちゃんは僕の顔を覗き込んで何か言ったんだ。そして、それが最後になった…」

「えっ! ちょっと待って。なんでそんなことを知っているの? って言うか、“僕”ってどういうこと? まさか川島君って…」

「さっき電車の中で飯田さんの話を聞いていて思い出したよ。そして確信したんだ。あの時の“美由紀ちゃん”は飯田さんなんだと」

「うそ! 川島君ってあの“太一”なの? でも名字が違うし…」

「苗字のことはいいよ。美由紀ちゃんたちが居なくなってから僕にも色々あったんだ。それで、美由紀ちゃんは最後に僕になんて言ったんだ? ああ、でも、もう憶えていないよね」

 美由紀は放心状態でしばらく声を出せないでいた。落ち着こうとコーヒーを一口すすり、一呼吸おいてから口を開いた。

「憶えているわよ…。私もまさかその夜に夜逃げ同然で町を出ることになるとは思わなかったし、太一とはずっと一緒に居るものだと思っていたから。川島君こそよく覚えていたわね」

「たまに夢を見るんだ。あの時のことを。今朝もそうだった。鮮明に覚えているんだけど、最後の美由紀ちゃんの言葉だけが聞こえないんだ。あれから16年、それがずっと引っかかってた」

「そうなんだ…。私も気にはしていたのよ。でも、さすがに夢にまでは見なかったけれど」

 そう言って美由紀はくすっと笑った。

「それで、何て言ったんだ?」

「えーっ! 今更言えないよ。恥ずかしいし。あっ! ねえ、そろそろ行かないと遅刻しちゃうわ」

 そう言うと美由紀は席を立った。

「あっ! 飯田さん! 美由紀ちゃん!」

 太一が叫んだので、歩き始めた美由紀は立ち止まって振り向いた。

「川島君! 会社の中で“美由紀ちゃん”なんて呼ばないでね。恥ずかしいし、周りが面倒くさいから」




3年後。


 スマートフォンのアラーム音が鳴る。太一は体を起こしスマートフォンを手に取る。アラームを解除するとそのままの姿勢で目を閉じて、今まで見ていた夢の内容を整理する。そして苦笑した。

「起きた? ご飯の支度、出来てるわよ」

 夢の中の主人公が寝室のドアを開けて太一に声を掛けた。

「ありがとう。今行くよ」

 太一はベッドから抜け出ると寝室のドアを開けた。キッチンから食欲をそそるにおいが漂ってくる。ダイニングテーブルには愛する妻が用意した朝食が並べられていた。

「いつもありがとう」

 太一は感謝の気持ちを伝えながら席に着いた。結婚して1年が過ぎようとしていた。こんな風に感謝の気持ちを伝えるのは、まだ交際していた頃以来だったかも知れない。

「ありがとうだなんて、どうしたの? 急に」

 既に席に着いていた美由紀は照れ臭くなって顔を赤らめる。太一は味噌汁を一口飲んで美由紀に向き直る。

「夢を見たんだ」

「あら、どんな夢?」

「あの時の夢。君が居なくなる前、最後に君に会った時の夢。子供の頃の砂浜の…」

 その夢の話は美由紀にも覚えがある。それは太一と美由紀がお互いに惹かれ合うきっかけでもあったのだから。

「ふーん」

 美由紀には次に太一が発する言葉が判っていた。だからあえてとぼけた風を装ってはぐらかそうとした。

 3年前、二人が子供の頃一緒に遊んでいたのだと判ってから、太一は幾度となく聞いてきた問いかけを美由紀はずっとはぐらかしてきた。

「ねえ、君はあの時なんて言ったんだ? 憶えていると言っただろう。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか」

 そろそろいいのかな…。美由紀はふとそう思った。

「もう、知る必要はないと思うよ。だって、その通りになっているんだから」

「えっ? どういうこと?」

「こう言ったのよ…」

 美由紀は立ち上がると、太一の傍へ行き上から太一を覗き込むようにしてにっこり笑った。

「太一は弱いから私がお嫁さんになって太一を守ってあげる」

 一瞬、きょとんとしていた太一はすぐに美由紀を抱き寄せて口づけを交わすと真顔に戻ってこう言った。

「ありがとう。でも、これからは僕が君を守るから」




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