黒彩【ルビ:くろいろ】
瞼を開ける。私はあくびをして、重たい体を起き上がらせてベッドから降りる。
カーテンから光が僅かに入ってくるおかげで、部屋は少し明るい。
「朝か……」
壁に掛かっている時計を見ると、すでに十二時を過ぎていた。
「なんだ、もう昼か」
私は洗面所へ行って歯磨きをする。
普段だったら五分で終わらしていたけれど、会社が休みだからか、今日は十分ぐらい時間を掛けた。
それから冷蔵庫の扉を開ける。密かに楽しみにしていた新発売の菓子パンを一つ取りだし、床にあぐらをか……こうとしたのだが、カップ麺の空容器がそこら中に散らかっていたため、適当にスペースを空けてから座った。
テレビは見ず、電気もつけず、スマホも触らず、ただ黙々とパンをかじる。
おいしい。だけど、それだけ。
それ以上に何も思わないし感じない。いつからこんな風になったのだろう。
袋をを丸めてゴミ箱へ投げる。しかし入らない。まあいいや。
それからしばらく、ぼーっとしていた。
――頭の中にノイズが走る。
全然仕事が出来てないとか、のろまだとか、使えないとか、そんな上司の声を思い出す。それだけじゃない。その人のスーツについている皺やほこりに口臭まで、それも鮮明に。
昔はそんなことはなかった。怒られることは多々あったが、上手くいったときは褒めてもらえたし、それで私自身も嬉しかった。
だけど……なぜだろう。いつの間にか幸福を感じることがなく、むしろちょっとした事から自責の念へと置き換わることが頻繁に起き始めた。
悪いのは自分で、自分が変われば解決すると、そう信じて頑張ってきたけれど……どうしても結果はついてこない。
だけど、やめられない。努力を、続けてしまう。体が勝手に、プログラムとして実行してしまう。
どうにかしたいのに、どうにもできない。矛盾した思いが体中を巡り巡って止まらない。
だけど、多分それは――私には羽がないからだ。
群衆の中に紛れる不純物。それがきっと、私。
そう、思っていたけれど。
ふいに――羽ペンが目に入る。目の前にある机に、インクボトルと共に置いているのだ。
自然と私は立ち上がる。
ペットボトルやカップ麺の空き容器を蹴ったり踏みつけながら机の前に近づき、椅子に座る。
机の上には、原稿用紙が。
「……ふふっ」
自然と笑みが漏れる。
右手に羽ペンを持つ。インクに少し付けて、ゆっくりと持ち上げる。
原稿用紙はまっさらだ。
胸の鼓動が早まる。
ペン先を紙に置く。
黒色の線が繋がり、文字になる。
――彩が灯った。
気がつけば私は別の場所にいた。
知らない場所、知らない人、知らない景色、知らない空が、目の前に。
書くスピードがどんどん速くなっていく。のめり込んで、夢中になっていく。
まるで、空を飛んでいるみたいだ。
自由に、私だけの世界を創造して、私だけの人生を、時には思いも寄らない出来事に遭遇しながら、謳歌している。
すごい。楽しい。ワクワクする。
悲しい。辛い。でも充実している。
たった一つの色から、いろんな彩が生まれてくる。
ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと――ここにいたい。
だけど、そういう訳にはいかなくて。
気がつけば、目の前に文字で埋まった原稿用紙があった。
最後の行には、『終わり』と書いてある。
いつの間にか窓からの光が薄くなり、部屋は真っ暗になる寸前だった。
「はぁ……」
ため息が漏れる。
一瞬だった。楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまう。私にとってすごく残酷な事実だ。
今日が終われば、明日が来る。私はまた、有象無象の中の一人になる。
だけど。
「まだ、頑張れそうかな」
私はまた、羽ばたけるから。
飛び続けられる限りは、多分私は――生き続けられると思う。
〈了〉