コイン
レジカウンターでつり銭のチェックをしていた里帆先輩がふいに舌打ちをして呟いた。「やられた。まったくもう」
さいごの客がついさっき出ていって僕と彼女ふたりだけの店内はBGMだけが小さく流れしんとした静けさに満たされていた。その声は嫌でも耳に入る。商品を棚に並べていた手を止め、僕は彼女のそばに行った。
「どうしたんですか」
「見てよこれ」
その手の上には一枚のコインがあった。見たことがないデザインで、古代の壁画に描かれた太陽のようなシンボルが中央に彫られている。
「500円のふりして置いていったのよ。やられたよ」
僕はコインをつまむと天にかざしながら裏表と眺めた。裏には数字の3とそれを囲むように三日月の形が彫られていた。どちらの面にも他には文字も数字も描かれてはいない。
「たしかに大きさといい色といい500円玉にそっくりですね」
里穂先輩は僕の手からコインを取ると目のまえで裏表と何度も改めた。しかめっ面でコインを見つめるその表情は美術品の鑑定士を思わせる。
「でもこんなに見た目が違うんだから渡されたときに気がつくと思うんだけど。夕方の混んでた時かな。失敗したな」
「お札ならまだしも500円玉だとチェック甘くなりがちですよね」
「忙しいとどうしてもね。うちもコンビニみたいにセルフレジにすればいいのに。そうすればこんなこともなくなるのにね」
「こんな場末の個人経営の100円ショップじゃ無理ですよ」僕は笑っていった。彼女も笑う。「まあね」
「それにしても、これなんのコインでしょうね。外国の硬貨というわけでもなさそうですし」
「ゲームセンターのコインじゃないの。なんにせよ大したものじゃなさそう」
彼女は棋士が駒を置くような手つきでコインをカウンターに置いた。ぱちんと軽やかな音が店内に響く。
「それ貰ってもいいですか。というか500円で買いますよ」
「こんなの欲しいの。ほんと変わってるよね君」里帆先輩は呆れたような顏でいうとコインを摘まんで僕の手のひらに落とした。
「なんかぴんと来たんですよ。ちょっといいなって」
財布を取りだすと中から100円玉を5枚取りだして渡した。彼女はそれをレジに収める。僕はコインを財布に入れる。
「そういえば、あと一週間ですね」
「そうだね、早いよね。来週にはこことお別れか。そのあとは就活で大変だ」里帆先輩は笑みを浮かべた。
「就職はこっちで探すんですか」
「うーん、そのつもりなんだけどまだわからないかな」
「寂しくなっちゃいますね」僕はいった。
里帆先輩は笑みを浮かべたまま無言で僕を見つめていた。
うちに帰ってからカップラーメンを啜りながらコインを調べた。それは新品のようにぴかぴかと輝き、擦れや傷はついておらず使用感がまったくなかった。やはり描かれているのは数字の3と太陽と月のシンボルだけ。だがそれらは古雅な意匠と精緻な技法を用いられているように見え、玩具や使い捨てにされる消耗品のようにはどうしても思えなかった。しばらくネットでも検索してみたが情報はなにひとつ得られず、スマホと並べてテーブルに置いたままベッドに潜ってしまった。
夢を見た。
真っ暗な空間に僕はいた。意識ははっきりとしていて夢の中だと気がつくまでにしばらく時間がかかった。どちらを見てもただ深い闇が広がっていてなにも見えない。だが不思議なことにとても広い場所に立っているのだとわかった。そしてもっと不思議なことに不安な気持ちはまるでなかった。予感なようなものを覚え、僕はそこでなにかを待った。
そしてそれが現れた。永遠に感じられるほどの時間が経ったのか、あるいは直後だったのか把握することは出来なかった。夢によくある感覚がおかしくなる現象か、もしかしたらここには時間そのものが存在しないのかもしれない。僕の真正面にあたる闇の中はるか遠方に、はじめは小さく弱々しい光りの点として浮かんだそれはつぎの瞬間には数メートル先で人の形をした光りの塊となり、気付くと目の前に立つ子どもとなっていた。年のころは低学年の小学生くらいだろうか。純白の浴衣のような衣を身に纏い男女どちらかはわからなかった。その子は事務的な連絡事項を告げるような口調でいった。
「そなたにまことを与えよう。その機会三度なり。ゆめゆめ徒になすでないぞ」
目覚めるとまだ薄暗かった。夜明け前の気配が窓ガラス越しに伝わってくる。息は荒く、体中が寝汗でぐっしょりと濡れていた。キッチンにいきコップ一杯の水を飲み干した。そうしてやっと落ちついてくると先ほどの夢を反芻した。その映像は生々しく脳裏に刻み込まれていて、細部まで明瞭に思い浮かべることができる。そして子どもが語ったその声は頭の中でなんども繰り返し再生された。
もう少し寝ようとベッドに戻ろうとしたとき、テーブル上のコインが目に入った。一瞬それは薄暗い部屋の中で仄かに光りを放ったように見えた。寝る前に調べものをしたせいであんな夢を見たんだと考えながらコインを手に取ってみる。だが夢の中で体験したその生々しさが妙に気にかかる。まことを与えるとはどういう意味だろうか。素直に考えれば投げたコインの裏表によって問いがYesかNoであるかがわかるということであろう。そしておそらく太陽の面がYesだ。ばかばかしいと自嘲気味になりながらも僕は二択の問いを探した。
「今日の天気は晴れ」唱えながらコインを放り投げた。床に落ちたコインは月の面が上だった。窓を明けるとまだ夜気をはらんだ冷たい空気が部屋に流れてきた。空は雲ひとつなく、ふちの方が薄明るくなって日の出の前触れを告げていた。雨の予兆はどこにも無い。スマホを立ち上げ天気予報を見てみたが傘のマークはどこにも無かった。僕はほっとしたような少しがっかりしたような気持ちになってコインを再び財布にしまった。
バックヤードで在庫の整理をしていると里帆先輩がやってきていった。
「雨降ってきちゃった。表の商品を中に入れるの手伝って」
行ってみると豪雨で通りの向こう側もよく見えないほどだ。大急ぎで商品を店内に引き入れる。
「これはひどいですね。さっきまであんなにいい天気だったのに」
「ついさっき突然降ってきたのよ。ああもうびしょ濡れ」
ふたりとも頭からシャワーを浴びたようにずぶ濡れになっていた。濡れたシャツの背中に下着が透けてみえる彼女の姿から目を背け、僕はいった。「レジやりますから着替えてきていいですよ」
「ありがとう」彼女はそんな僕の様子に気がついているのかいないのか、エプロンを手早く外すとバックヤードに向かった。僕はレジカウンターに立ち、こっそりと財布の中からコインを取りだした。見ると数字は2となっていた。
その夜、僕は悩んでいた。人生でこれほど頭を使ったことはないというくらい考えていた。だが二択で劇的に人生が変わるようなものは思いつかない。株やカジノでひと儲けするにも元手がないのでは勝負しようがない。あらゆる手段を使い借金をして掛け金をつくるという道もあるが、そこまでリスクを冒すのは腰が引けた。今日の雨も偶然だったという可能性も否定できず、数字が変わったという超常現象もたんに勘違いだったようにも思える。段々と面倒くさくなってきてベッドにごろりと横になると、ふいに濡れたシャツ姿の里帆先輩の姿を思い出し動悸の高まりを感じてしまう。むくりと起きるとコインに問いかけた。
「里帆さんに彼氏はいる」
親指で弾くとコインはきれいな放物線を描き床に落ちた。そのままころころとキッチンまで転がっていき、そこで倒れた。行ってみるとコインは月の面を上にしていた。
それから数日が過ぎた。コインの数字は1のままだった。そしてそれは里帆先輩のさいごの日だった。レジカウンターでふたり並んで客を待ちながら話をした。その日の彼女はテンションが高く饒舌だった。
「あんなにミスばっかりしていた君も立派になったもんだよね」
「里帆さんのおかげです」
「ほんとだよ」彼女は笑った。「でも楽しかったなあ」
「はい」
「私、好きなんだよね」
「えっ」意図せず声が大きくなってしまう。
だけど彼女は気にせず続ける。「この店の雰囲気」
「あ、ああ。いいですよねのんびりとしていて」
「のんびりしている100円ショップはどうかと思うけど」
「たしかに」ふたりで笑う。
「私がいなくても頑張ってね」
僕はそれには答えられなかった。そのとき店に入ってきた客がぼくらを呼び、里帆さんが対応に向かった。僕はコインを取りだすとぎゅっと力強く握りしめ、小声で語りかけた。
「里帆さんに告白する」
コインをそっとカウンター上に落とした。だがコインはカウンターの上を端まで転がっていき、ついに床に落ちてしまった。あっと思ったときには床の上をさらに転がっていて、そのまま商品棚の下に入ってしまい見えなくなってしまった。まずいと思い商品棚のほうに行こうとしたそのとき、里帆先輩が戻ってきた。
「なに。おかね落としちゃったの。だめだなあ」
「いや、そうじゃないんですけど」あたふたしていたが、ふいに彼女と目が合い不思議と気持ちがすっと落ちついた。「あの……里帆さん」
突然の改まった口調に彼女はきょとんとした顏になる。「ん、どうしたの」
「これからも、えっと、連絡していいですか。メールとか。もしよければメアド教えてください」
里帆さんは一瞬すこし驚いた表情になったが、すぐにいつもの素敵な笑顔になって、僕を見つめた。