光の海で見つけてよ
────子供の頃の記憶で真っ先に思い出すのは、祖父母に手を引かれて歩いてゆく自分と姉の姿だ。柔らかくて温かな祖父の手に自分の小さな手を引かれながら、「どうしてお父さんとお母さんは一緒に来ないの?」と尋ねて。そう言えば祖父は悲しそうな顔をして「もういないんだよ」と言っていたのを覚えている。「いないってどういう意味?」と聞こうと口を開いて、そんなことはあまり意味が無いなと口を噤む。伝えなくても、知らなくても良いことは、嫌と言うほど世の中に溢れているのだから。
自分の両親がお互いに不倫をした末に離婚し、再婚したと言う話を聞いたのは、それから少し経った中学一年生の冬のことだった。とは言えその頃から僕と姉は祖父母宅で暮らしていたから、あまり両親に対する思い入れも寂しさも無かった。ただ漠然と、[いない]のではなく[いらない]んだったのだろうとは感じていたけれど。
それからと言うもの、祖父母宅で僕は常に良き孫、良き妹で居続けた。星花の住所変更などの面倒な手続きを一緒に済ませ、ここまで育ててくれた祖父母に対する恩は計り知れないほど感じていたし、たった一人の家族である姉から良き妹を求められていたからでもある。
僕の姉、佐伯春佳はその名の通り優しい女性だった。優しくて無垢で、そして可哀想なくらい純真で。早々に諦めて無関心を決めていた自分とは対照的に、壊れてしまった家族関係がまた再び元に戻ることを願って、努力して────それでも結局修復は出来なくて。お互いの浮気相手との再婚を望んだ両親は、まるで厄介者を捨てるように祖父母宅に僕達を預けて、何処かへ行ってしまった。
捨てられたんだと解ったのは、祖父母宅に来た初日の夜に祖母の肩に顔を埋めるようにして泣いていた姉の姿を見たからだった。夜遅くに目が醒めて姉の姿を目線だけで探せば、姉は襖を開けた隣の祖父母の寝室で、祖母の肩に顔を埋めるようにしゃくりあげていて。彼女の嗚咽の合間に聞こえる、「浮気」「お父さんとお母さん」「再婚」と言う言葉から、ぼんやりと両親が互いに不倫をしていて、そして再婚をすることを知った。それと同時に、自分達がいたら再婚が出来ないから、適当な理由をつけて祖父母に自分達の面倒を見させようとしていたことも。
とは言え、もともと僕の両親は刹那主義な人達で。その瞬間をいかに自分が楽しく生きるのかと言うことを重視している彼らは、良くも悪くも人間の本能のまま生きているような人達だった。僕たちに関する認識も、「再婚できないから置いてった」と言う程度なのだろうけど。
けれども、関係の修復を望んでいた姉にとって、彼らの行動はとても大きな裏切りのようにも感じていたようで。今の姉の夫と結婚をするまでは、仕事から帰ってくれば飲み慣れない酒を呑んでみたり、子供のように大声をあげて泣いてみたりしていた。
そんな姉の様子を間近で見ていたから、中等部に入学してからは祖父母と姉に迷惑をかけないようにただひたすらに学校生活と学業に励んで、人ともめ事を起こさないように誰にでも優しく、誰にでも公平に接した。多少見た目が良かったことも起因しているのか、やがていつの日か[光の君]だなんて大層な名前で呼ばれて、王子様のように扱われることが増えていった。
自分が[王子様]と言う立場を望まれている事を理解してからは、今まで以上に誰にでも平等で穏やかに接することを徹底した。余計なことで祖父母に迷惑をかけたくもなかったし、今更誰かとぶつかり合ってわかり合おうとするなんて面倒なことをしようとも思わなかったからだった。
海の中で揺蕩うように、静かで穏やかな停滞した日々を望んでいた。それは決して前に進むことは無いけれど、それでも進まなければ今より状況が悪くなることもない。平凡で停滞した穏やかな毎日のなかで過ごすことは、僕にとって何物にも代えがたいもので。僕は今の状況のまま、何も変わらない日々を望んでいた。幸いにも姉ももう既に結婚して幸せな日々を送っていたし、姉の夫は申し分ないほど優しく、そして姉を支えてくれる人だったからだ。姉のために生きると言う目標もなくなった僕はと言えば、別段何かが変わることもなく、穏やかで平凡な毎日を愛しく思っていた。
「おはよう、光」
キッチンでなめこの入った味噌汁を作っていると、背後から柔く少し掠れた声に呼ばれる。その声にはっと意識を引き戻して視線を向ければ、起きたばかりの祖母が穏やかに笑っていて。それに「おはよう」と微笑み返してから、自分の嫌な記憶を溶かすように鍋を緩く混ぜる。
「おはよう、お祖母ちゃん。朝ごはん作っておいたから、好きな時に食べてよ。だし巻き玉子と漬け物と、あと昨日の残りの煮物が冷蔵庫にあるよ。ご飯は炊飯器からよそってね」
そう言って味噌汁の火を止めると、目の前の祖母は「あらあら、ありがとね。でも、無理しなくて良いのよ」と言って微笑む。どんな時も決して声を荒げることのない、祖母の穏やかな話し方が好きだった。
「こんなことくらいなんでもないよ。……っと、ごめんね。僕、今日は空の宮市の方で友達と約束があるんだ」「おや、そうなのかい? 間に合う?」
味噌汁の火を止めながらそう言えば、祖母は驚いたような表情をしてこちらを見る。時刻は八時五分を回ったばかりだった。僕はエプロンを外しながら「ありがとう、大丈夫だよ」と言うと、エプロンを畳んで自室へと戻るためにリビングを出る。鈍く銀色に光るドアノブに触れれば、冷たい感触が掌を伝った。
自室に戻って小さな斜め掛けの鞄に財布と携帯をしまうと、微かに軋む木造の廊下を歩く。慌てた様子でカーディガンを羽織って玄関まで出てきた祖母の「行ってらっしゃい」と言う言葉に柔く微笑むと、「行ってきます」と返して玄関のドアを開ける。
春の柔い光が辺りを包んでいた。それに微かに目を細めながら小さく溜め息を吐けば、アシンメトリーの髪がはらりと頬に掛かった。それが酷く鬱陶しくて耳に掛けながら、何となく普段の通学路をふらふらと歩いてゆく。本当は何処にも用事なんてなかったのに。
「どっかで適当に何処かで時間を潰さないとなぁ」
休日まで僕と一緒にいれば、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、気持ちが休まらないだろうし、なんて。そんなことを考えてしまう自分に対して、つい皮肉げに笑ってしまった。
僕の住む海谷市から電車で三十分ほど離れた私立星花女子学園へ通って、今年の春でもう五年になる。中等部から通っていた際にはそこそこ長く感じていた距離も、五年も通ってしまえばいつもの日常で。ほんの少し磯の香りがするその通学路を歩きながら学校へ向かうのが日常だった。
────また嘘をついたな
通学路を歩きながら小さく溜め息を吐いて。それと同時に、そんなことを考えたって仕方がないか、なんて思ってしまう。人生も、選択した環境も、それが例え望んだものであったとしても、ままならないことはよくあるものだ。この今の穏やかな生活が壊れないように、適度な嘘を交えながら円滑な家族関係を築いてゆく方が何処か性に合っているようにも思えた。
朝日を受けて、海面がきらきらと煌めいていた。星空とも違うその目映い輝きに思わず目を細めて、ついふらふらと海の方へ足を向ける。石の階段を降りて砂浜へ着くと、スニーカーの踵が柔く砂の中に沈んでいく。
海が近づくたびに、磯の香りが強くなっているのが解った。海の近い地域では潮風があまり良い影響を及ぼさないこともあるそうだけれど、穏やかに波が引いては戻ってくる様子が僕は昔から好きで。早めに家を出るのも、長く家にいて祖父母に気を遣わせたくないこと以外に、こうして海を眺めることが好きだからでもあった。
波が引いては戻ってくる様子を眺めながら、つい好奇心で波打ち際まで寄ってゆく。先程までは穏やかな波だったから、どうせ服を濡らすほどの大きな波は来ないだろう。
ふらふらと海に向かって歩いてゆくと、こちらに寄ってくる穏やかな波に触れるためにゆっくりと手を伸ばす────時だった。
「────おいっ!」
不意に、酷く真っ直ぐな澄んだ声が聞こえた。それに振り向くと同時に、視界がぐらりと回って。腕をひかれたのだと気がついてから目を開ければ、そこには酷く幼い整った顔があった。
突然の出来事に驚いていると、僕の上に跨がるようにしてこちらを覗き込んでいる彼女は、僕の顔を見てほっとしたように息を吐いて。それからほんの少し怒ったような様子で口を開く。
「おい、危ないぞ! この時間帯は急に高い波が来ることもあるんだ! 流されたらどうするんだよ!」
触れられていた腕が酷く熱かった。僕は生まれつき体温が低い方だから、これはきっと目の前の少女のものなのだろう。僕はぱちぱちと目を瞬かせると、「ご、ごめん」と呟く。口をついて出たその言葉に、目の前の彼女はほんの少しだけ驚いたような顔をして。逆光の中で太陽のように輝く、真っ直ぐで澄んだ瞳が印象的だった。
僕の情けなく謝る声を聞くと、彼女ははっとしたような表情をして。僕の上に股がっていた身体をどけると、僕の腕をひいて起き上がらせてくれながら、少しだけ気まずそうに唇を尖らせる。
「や、オレも急に怒ってごめんな。怪我してないか? おにーさん」「お、おに……? いや、君が助けてくれたから大丈夫。ごめんね、心配かけて」
助けてくれてありがとねと言って自分よりも幾分か幼さを残した顔に触れれば、目の前の子供は数回ぱちぱちと瞬きを繰り返してから、「ああ!」と言って、にっと笑った。
「おにーさん、なんか王子様みたいだな!」「……そう。そう見えていれば嬉しいよ」
そう言ってふっと笑えば、彼女は変わらずに太陽のような笑みでこちらを見ていて。何だか毒気が抜けてしまうなんて苦笑すれば、彼女は好奇心を孕んだような目でこちらを見つめていた。
「なぁなぁ! おにーさんはどこに通ってるんだ?」「僕? 僕は────」
彼女に尋ねられるまま自分の高校名を口にすれば、目の前の彼女は驚いたように目を丸くして。「おにーさん、女の人だったのか!?」と言う声に「そうだね」と返せば、彼女は酷く申し訳なさそうな表情をして、「そうか、ごめんな! オレ、気付かなくて」と言って頭を下げて。その表情にくすくすと笑いながら「よく間違えられるから、気にしないで」と続ける。
「でも、星花ならオレも今年から通うんだ! だからおねーさんの方が先輩だな!」「そうなの? じゃあ高等部で会うかもしれないね」
そう言えば、彼女はぱちぱちと目を瞬かせると「オレが通うのは中等部だぞ?」と言う言葉に、今度はこちらが驚いてしまう。
「君、まだ小学生なの?」「うん! ついこの前卒業しちゃったんだけどなー」
合格の手紙も貰ったんだと自慢げな表情をする彼女に、肩の力が抜けていくような気がして。「そう、頑張ったんだね」と返せば、「まぁな!」と笑う。
「なぁなぁ! それより、おねーさんはなんて名前────」
こちらに身を乗り出すようにして尋ねてくる彼女に驚いて、「ちょ、」と身を捩れば、海の方から「ひかるー!」と言う声が聞こえて。彼女はそれを聞くと、「今戻るー!」と大声で返して。その様子にくすりと笑えば、彼女は少し困ったような顔でこちらを見るものだから。その指通りの良い髪を撫でると、「────光」と呟く。
「僕も光って言うんだ。今年の春で高等部二年生になるよ。何組かはまだわからないけどね」
そう言って微かに笑えば、目の前の彼女は明るく笑って「オレと一緒か! おねーさんにぴったりだな!」と笑う。それに苦笑しながら「そうかな」と返せば、「ああ!」と彼女は屈託のない笑顔でそう言った。
「きらきらしてて、王子様みたいだな!」
純粋なその言葉に喉の奥が引き攣るのを感じながら、「……そう」と返して。「そんな大層な人間じゃないよ、僕は」と言えば、「そんなことないだろ!」と笑う。
「……っと、ごめん! オレ、そろそろ行かなきゃ!」「……え、あ、そう。気を付けてね。助けてくれてありがとう」
それを聞けば、彼女は────光さんは、けらけらと笑うと「どういたしまして! 光さんこそ、気を付けて帰れよー!」と言って、先程声のした方向へと走ってゆく。その後ろ姿を見ながら、思わずくすくすと笑ってしまう。
(面白い子だな。……まぁ、中等部と高等部は校舎も違うから、もう会う事も無いんだろうけど)
海の方へ目を向ければ、水面はきらきらと星が瞬くように輝いていた。それが何となく先程の彼女に似ているような気もして、つい笑ってしまう。
少女漫画みたいな出会い方だなと思いながら、ふと自分が自然体で笑っていたことに気が付いて。それにどこか気まずい思いをしながら、小さく溜め息をついた。
「王子様なんて、本当はどこにもいないんだけどなぁ」
そんなことを皮肉気に呟けば、潮の香りが柔く鼻腔を擽って。彼女が────光さんが走っていった足跡を波が消していった。
(どっかで適当に時間を潰してから帰ろうかな)
僕は暫く波を眺めた後、石の階段を上がって道路の方へと出る。その途中、携帯電話の着信音が鳴って「はい」と応答すれば、近所に住む大学生の友人からで。『あ、光? これから本屋に行くけど、よかったら一緒に行く?』と言う言葉に、「良いの? 行きたいな。今外に出てるから、奈々さんが大丈夫だったら駅の方に迎えに来てもらっても良い?」と頼めば、『良いよ、着いたら連絡するね』と言って電話が切れて。お礼を言い忘れたなと思いながら、祖母に言ったことが嘘にならなかったことに何処か安堵した気持ちを抱えていた。
「────光さん、か」
先程の彼女を反芻しながら、ついくすりと笑ってしまう。同じ名前なのに、僕とは似ても似つかないほど真っ直ぐで純粋な面白い女の子だった。
奈々さんとの約束のために駅の方へ向かって歩いて行きながらふと何となく海の方を見れば、潮の香りとともに眩く光る海面が波の音とともに僕を見つめていて。暫くその様子を見てから、僕は再び駅の方へ向かって歩いてゆく。
何だか酷く不思議な気分だった。見つかりたいわけではないのに見つけて欲しいような、相反する気持ちを彼女に対しては抱いてしまうのだ。
「また会えたらいいなぁ」
僕は伸びをすると、波の音に耳を澄ませながら駅に向かって歩みを進める。潮風が柔く髪を乱した。
────その時の僕は、まさかそれから数週間後に星花で再び彼女と出会うことになるとは思ってもいなくて。それでもただ漠然と、彼女に出逢った瞬間から何かが変わるようなそんな予感がしていた。