曇天と雷鳴
うぅ、と苦しそうなクリスティのうめき声が聞こえる。マリアの体中の血が、サッと引いていく。
「クリスティさん!」
「教授!」
カントスとマリアは慌ててクリスティへと駆け寄った。精油で服が汚れてしまうことなど、今はどうでもよかった。
「教授! しっかりしてください! 教授!」
カントスは、クリスティの体を仰向けにすると、マリアの方へ視線をやった。
「ミス・マリア! 君は、外に出て医者を探してくれ。早く!」
マリアはカントスの声に背を押されるように、調香の部屋を飛び出した。
クリスティの家の扉を勢いよく開けて、階段を飛び降り、レンガ造りの町並みを駆ける。この辺りの地理には詳しくない。走るマリアを何事だ、と見つめる女性に
「この辺りに、お医者様はいらっしゃいませんか?!」
とマリアは泣き叫ぶように尋ねた。
「お医者様なら、この先の二つ目の角を曲がって少し行ったところに病院が……」
「ありがとうございます!」
マリアはお礼もほどほどに走る。
(お願い……どうか……)
先ほどまで晴れていたはずの空には、暗い雲がかかりはじめていた。
「すみません! お医者様は! 急患なんです!」
マリアは病院の扉を勢いよく開けると、看護師と思われる女性に声をかけた。
「どちら様?」
「この先の家で、クリスティさんという女性が!」
「何事かね」
マリアの声が診察室まで聞こえていたのか、奥から医者が顔を出す。
「クリスティさんが、倒れて……」
マリアが途切れとぎれに言葉を発すると、医者は目を丸くして、慌てて診察室の方へと戻っていった。
患者に説明を終えたのか、看護師に早口で何やら告げると、医者はマリアと一緒に病院を飛び出した。
(お願い。神様。どうか……どうか、クリスティさんを助けて……)
マリアは走りながら祈る。マリアの後ろを医者がついていく。町を走る二人の顔は、真っ青で、こめかみからじわりと滴る汗は冷たかった。
クリスティの家に着くころ、分厚い雲が空を覆いつくした。しばらくすると、外は雨になった。
マリアが病院へと向かっているころ、クリスティを楽な姿勢にさせたカントスはクリスティに呼びかけていた。
「教授! 落ち着いて、深呼吸をするんだ! 落ち着いて!」
クリスティはいまや、息も絶え絶えで呼吸は浅かった。その顔面は蒼白になり、冷や汗が額に滲んでいる。時折うめき声をあげ、苦しそうに胸のあたりをおさえた。
「教授! しっかりしてください! 教授!」
カントスは何度も呼びかける。胸のあたりをおさえる手をそっと取り上げると、自らの手でぎゅっと握りしめる。クリスティの手は震えていた。
「もうすぐ、マリアさんが医者を連れてきてくれる。だから、それまで頑張るんだ……」
カントスは泣きそうになるのをぐっとこらえながら、懸命にクリスティを励ます。クリスティにその声が聞こえているのかどうかは、定かではなかった。ただ、時折握られた手に力が入るのを、カントスは感じていた。
「さぁ、落ち着いて深呼吸して……大丈夫です。教授、大丈夫ですよ」
カントスは握りしめた手を空いていた片手で優しく撫でる。大丈夫だ、とクリスティにかけているはずの言葉は、いつからか、自らを励ます言葉になっていた。
(マリアさん……早く、早く来てくれ……)
カントスにとって、それは恐ろしいほど長い時間のように感じられた。先ほどまで明るかったはずの外は、いつの間にか暗くなっている。真夏の昼間だというのに、どんよりとした雲が空を覆っているせいか、まるで夜になったようだった。
「カン……ス……」
かすれたクリスティの声が聞こえる。話さなくていい。カントスは首をブンブンと横に振り、クリスティの手をより一層強く握りしめた。
「カントスさん!」
マリアの声と同時に、窓をたたく雨の音が聞こえた。ドタドタと床を蹴る足音が聞こえ、カントスは顔を上げる。
「お医者様を連れてきました!」
ゼェゼェと荒い呼吸を繰り返すマリアの後ろに、同じように肩で息をする医者の姿がある。
「早く! 早くクリスティを見てくれ!」
カントスは慌てて医者の手を取ると、クリスティのそばに座らせた。
クリスティは、すでにぐったりとしていた。
「クリスティさん! わかりますか?! クリスティさん!」
医者の呼びかける声にも反応を示さない。医者はクリスティの胸に耳を当て、その心音を確認する。そして、わずかに目を見開くと、クリスティの胸元に手を当てた。医者は一度深呼吸すると、胸に当てた手をぐっと押し込んでは離し、押し込んでは離す。肋骨が折れてしまうのではないかと思うほどの強さで、何度も何度も、それを繰り返す。人工呼吸を行い、再び胸骨を圧迫する。
医者は何度も繰り返す。カントスとマリアは、クリスティの手を握り、クリスティの名を呼び、ただひたすらに祈った。医者の額には汗が浮かんでいる。カントスの目元には涙が浮かんでいた。
「頼む……! どうか、教授を助けてくれ……」
カントスの悲痛な叫びは、かすれた音にしかならなかった。
マリアは、そんなカントスの奥に、一つの瓶を見つけた。ミントグリーンの液体が入った瓶。
(イニュラの、香り……)
呼吸器系の症状を緩和させる、と先日クリスティから教わったばかりだった。マリアは立ち上がり、その瓶を手に取る。瓶のフタを開けると、マリアはそれをクリスティの鼻に近づけた。
「マリアさん?!」
カントスは、マリアの奇行に声を上げる。だが、マリアはこれに賭けたかった。薬に救われる人がいるように、香りに救われる人もいる。そう言ったクリスティの言葉に。
「クリスティさん! クリスティさんが、私に教えてくれたんです! 香りには、薬にはない不思議な力があるって!」
マリアの目尻には、涙がたまっている。
「だから、お願い……目を、覚まして……」
薬品のような、カンファーの香り。爽やかなハーブが、すでに部屋にこぼれてしまっていた精油と混ざりあい、雨の降る森林のような香りに変化する。部屋中を満たした香りは、薬師であり、調香師であるクリスティそのものを表しているようだった。
雨は一層激しくなった。
マリアも、カントスも、医者も。誰一人としてあきらめなかった。心肺蘇生を行い、人口呼吸を施し、クリスティを励まし、祈り続けた。どれほどそうしていたか分からない。ドン、と雷が落ちる音がした瞬間。カハッと空気の漏れる音がした。クリスティは再び意識を取り戻したのか、うめき声をあげる。しかし、それも長くは続かなかった。クリスティは弱弱しく微笑んだ。そして、マリアとカントスの手を強く握り返したかと思うと、かすれた、言葉にならない声を発した。
「ありがとう。最後に、あなたたちに出会えて、良かったわ」
二人には、そう聞こえた。クリスティが本当にそう言ったのか、それは誰にも分からない。
空に雷鳴が轟き、窓をたたく雨はより一層激しさを増した。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
このお話では、特に、ここまで読んでいただいた皆様にお礼を申し上げたく存じます。
色々とご意見があるかもしれませんが、これからもマリア達の日常を見守っていただけましたら幸いです。
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