ミュシャの心配ごと
(おかしい……)
ミュシャは、電話とカレンダーを見比べては眉間にしわを寄せた。いつもであれば、とっくに鳴り響いているはずの電話のベルが、今日は微塵も鳴る気配がない。
ミュシャのため息は、奥にいたマリアの両親にまで届いているのだが、本人は気づいていない。はぁ、と大きくため息をついて、再び鳴らない電話をにらみつけた。
今日は水曜日。ミュシャの勤めている洋裁店は、毎週木曜日が定休日だ。つまり、明日は休みということになる。そして、マリアの店『パルフ・メリエ』もまた、木曜日は休みと決まっている。買い出しや、洋裁店に卸した商品の補充、ミュシャとのカフェ巡りなど……用事は様々だが、マリアは店が休みの日にはほとんど街へ出てくる。そんな訳で、毎週水曜日の夜にマリアが洋裁店へ電話をかけてくることは、もはや当たり前のことであった。
それなのに、今日は様子が違うのである。
「ミュシャ君。気持ちはわかるけど、今日はもうあがっていいんだよ」
マリアの父がミュシャに声をかけるも、ミュシャは首を横に振るばかりだ。
そんなに気になるのであれば、自分から電話をかけてみてはどうか、と両親は思うのだが、ミュシャには何か思うところがあるようで、電話がかかってくるのを待つのが関の山らしい。
「あまり遅くなってもいけないわ。明日の朝になったらかかってくるかもしれないし」
「そうだね。僕から後で電話しておこう。ちょうどほら、店に置いてあるマリアの商品も少なくなってきてたんじゃないか」
「そうね。ほら、マリアったら昔から、何かに熱中するとすぐ他のことを忘れちゃう癖があったじゃない」
「ああ、そうだな」
「あなたそっくりだって思ってたのよ」
「ははは、懐かしいね」
両親の気づかいもむなしく、ミュシャには届いていないようだった。ミュシャの頭の中は、マリアに何かあったのではないか、という心配でいっぱいになっている。
「ミュシャ君。マリアのことを心配してくれているのは嬉しいけど、せっかく明日はお休みなのだし」
マリアの母に肩を優しくたたかれてようやく我に返るほどだ。
「あ、すみません。その……僕にかまわず休んでください。戸締りなら、僕がしておきますから」
ミュシャは首を何度か横に振ってそう答える。マリアの両親には悪いが、せっかくの週に一度の楽しみなのだ。ミュシャとて、それをおいそれと他人に譲るつもりはない。
(マリアのことだ。何時間でも待てる)
ミュシャは自分に言い聞かせるように、そう強く決意して、電話の前に腰かけなおした。
マリアの両親も、そんな健気なミュシャの姿を見てしまっては無理強いもできず
「……そう」
と静かにうなずいて、戸締りをお願いするしかなさそうだ、と店の奥へと再び戻った。
時計の短針が二周したころ。
ジリリリ、と聞きなれた音に、ミュシャはハッと目を覚ました。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
「もしもし」
ミュシャが受話器を取ると
「あ、ミュシャ?」
と待ちわびた、愛おしい声が聞こえた。
「マリア!」
「ごめんね、こんな遅い時間に電話して」
「いいんだ、それより何かあったの?」
平静を装うために、数度深呼吸を繰り返して、ミュシャはぎゅっと受話器を握った。
「ううん。何もないよ、ミュシャ。ふふ、ママみたいね」
マリアの楽し気な声に、ミュシャは安堵する。ミュシャが勝手に心配していただけなのだが、ママとはなんだ、と思わずふてくされてしまう。
(そろそろマリアにも、僕のことを異性として意識してほしいんだけどさ……)
「それで、電話を忘れるほど何をしてたの」
「少し実験をね」
「実験?」
「うん、そうなの。この間、裏の森にライラックが咲いたから」
楽しそうに話すマリアが電話越しに
「あつっ」
と声をあげたので、ミュシャは思わず大きな声を出してしまう。
「マリア! 大丈夫?!」
マリアを心配して故だが、あまりにも大きな声に、奥で休んでいたマリアの両親も店の方へと視線をやった。
「大丈夫よ、少し油がはねただけだから」
「油?」
「何かあったのかい、ミュシャくん」
マリアの父に聞かれて、ミュシャもなんと答えて良いのか分からず、首をかしげる。
「パパには、なんでもないって伝えて」
マリアにそう言われて、ミュシャは顔をしかめながらも、仕方なく
「なんでもないそうです」
と伝える。本人がそういうのであれば信じる他ない。マリアの父は、不思議そうな顔をしながらも
「そうかい、それなら良いが……」
と、店の奥へと戻っていった。
「マリア、本当に大丈夫なんだよね?」
ミュシャがもう一度マリアに念を押すと、マリアはクスクスと笑った。
「もちろん。それでね、ミュシャ、明日のことなんだけど」
「あ、そうだ。マリアの好きなパン屋にでも行こうと思ってるんだけど」
「ごめんなさい、明日は……いいえ、しばらくは街に行けそうにないの」
ミュシャの脳天に雷が落ちたようだった。思わず言葉を失ってしまう。電話越しにミュシャを呼ぶマリアに答えなければ、とミュシャはなんとか真っ白になった頭をフル回転させる。
「……どうして?」
「その……実験がね、少し手間がかかるのよ。それで店を離れられなくって」
「でも、うちの店にある商品の在庫も減ってきてるし、少しくらい……」
「それについては大丈夫、郵便屋さんをお願いするから。在庫の数を教えてくれる?」
「それはいいけど……それにしたって、たまには街に出ないと! 仕事のしすぎは息がつまるって、よくマリアが言ってるでしょ」
「ふふ、心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。好きでやってるんだし、それにこれはどうしてもやり遂げたいの」
ミュシャの提案……いや、懇願むなしく、マリアはそう言ってきかなかった。
(そこまでしてやらなきゃいけない実験って何なの)
ミュシャはぐっと言葉に出すのを堪えて
「わかった……」
そう答えた。
(マリアがこっちに来ないなら、僕がそっちに行ってやるんだから)
「ごめんね、ミュシャ。これが終わったら必ず埋め合わせするから」
「うん、約束」
「約束ね。それじゃあ、また」
ミュシャの決意も知らず、マリアはそう言って電話を切った。
「……すみません、あの」
マリアの電話を切って、店の奥へと現れたミュシャの顔に強い決意を感じて、マリアの両親は何かを察する。
「そうだわ! ミュシャ君、たまには気分転換に少し離れた場所へ行くのはどう?」
「あぁ、そうだ。もしどこかへ出かけるなら、ついでに頼まれてくれないかい。マリアに小麦と野菜を送ろうと思ってたんだ」
「あら、じゃあ、金曜日もお休みにしてゆっくりしてきたらいいわ。ね、ミュシャ君」
パチン、とウィンクをしたマリアの両親に、ミュシャはパッと顔を明るくする。
「はい、ありがとうございます!」
ミュシャのこんなにハキハキとした返事を聞いたのは初めてかもしれない、とマリアの両親は顔を見合わせた。
(待っててね、マリア。僕が会いに行くから)
こうして、ミュシャは次の日の早朝、馬車に乗って森へと向かったという。
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20/6/6 改行、段落を修正しました。
20/6/21 段落を修正しました。




