中庭
マリアは手土産を片手に、クリスティの家のドアノッカーを軽く打ち鳴らす。マリアが身に着けているつばの広いストローハットは、ミュシャから送られてきたものだ。強い日差しを遮り、マリアの顔に大きな影を落とす。
「あら、いらっしゃい」
影からのぞくマリアの美しい瞳に、クリスティは穏やかな笑みを浮かべた。
マリアの手土産に、クリスティは嬉しそうな声をあげた。
「まぁ。こんなに色々持ってきてもらっちゃって。ありがとう、マリアちゃん」
「いえ、こうも暑いとお買い物に出るのも大変でしょうし。私もちょうど買い物をしたかったので」
夏野菜の入った紙袋と、それからお茶菓子。クリスティはキッチンにそれらを片付けていく。お茶菓子は、マリアに出そうと準備していたオレンジジュースと一緒に並べる。
「それから、もしよかったらこれを。受け取っていただけませんか?」
お茶をテーブルに並べると、マリアはおずおずと小さな精油瓶を差し出した。美しいブルーのリボンに、可憐な白いレースとシルバーの星屑が星空を思わせる。
「かわいらしい。素敵な精油瓶ね。これは、マリアちゃんの?」
「はい。先日、カントスさんに色々と教えていただきながら作ったものなんです」
「まあ、そうだったの。それじゃぁ、ありがたく頂戴しようかしら」
クリスティは少し懐かしそうな瞳で精油瓶を見つめた。
「これ、今開けてもいいのかしら」
「はい、ぜひ」
マリアが微笑むと、クリスティはそっとフタを開けた。そして、爽やかなレモンと洋ナシの甘みを堪能すると、なるほど、とうなずく。
「星の香りね」
そっと瞼を閉じ、うっとりとその香りを堪能する。オレンジジュースのほのかな香りが少し混ざって、より鮮明に香りを彩る。
「ふふ、なんだかカントスと調香を一緒にしていた頃を思い出すわ。あの頃より、あの子ももっと素敵な香りを作っているのでしょうね」
クリスティは精油を少しだけ身にまとって軽やかに笑った。
「まるで、自分が若返ったみたい。ありがとう、マリアちゃん」
大切にするわね、とクリスティはその精油をリビングの棚に飾った。
マリアは、出されたオレンジジュースと、自ら持ってきたお茶菓子をいただきながら、クリスティの話を聞く。
「もしよかったら、この後中庭をご案内するわ。植物はたくさん育てているのよ」
クリスティの提案にマリアが目を輝かせると、クリスティは慈しむように瞳にあたたかな色を浮かべる。教職をしていた頃の名残かもしれない。マリアはそう思う。
クリスティの中庭は、それは素晴らしいものだった。マリア自身も、屋上や店の裏庭を使って多くの植物を育てているが、クリスティの庭はもっと雑然と、しかし隅々まで手の行き届いたまさに楽園。無造作に生えているように見えて、その実、整然と無駄なく植えられた草木たち。花々は美しくその緑に色を添え、風が吹けば、爽やかな香りが体中を包み込む。
「すごく、素敵です」
マリアは目の前に広がる光景に息を飲む。レンガ造りの古い町並みに残る豊かな光景は、まるで世界から切り離されたかのようだ。
クリスティはそこにある植物を、一つずつ丁寧にマリアに説明する。調香ではなく、薬として使うものもあるそうで、中にはマリアの知らないものもいくつか植わっていた。
「本当に、クリスティさんは植物の知識が豊富なんですね」
クリスティからもらったグラス一杯の水に口を付け、マリアは中庭を見つめた。クリスティも隣で同じように水を飲むと、額の汗をハンカチでそっとぬぐい取る。
「年の甲よ。マリアちゃんもきっと、私と同じくらいの年になったら、これくらいのことは覚えているわ」
クリスティは謙遜したが、マリアには、それがどれほどの努力を重ねたものなのか分かった。
中庭の端に咲いた小さな紫色の花に、マリアは目を止める。
「あれは……セイボリーですか?」
「えぇ。花を見るのは初めて?」
「はい。森には、低木くらいの大きさのウィンターセイボリーならあるんですけど」
「これは、サマーセイボリーよ。ウィンターセイボリーは一年中採取が出来て便利だけど、サマーセイボリーの方が、香りとして扱いやすいのよ」
クリスティの言葉に、マリアはサマーセイボリーに近づいた。
少し辛みのある、爽やかなハーブの香り。祖母からも、セイボリーを使うときは、出来る限りサマーセイボリーを使う方がいい、と昔教えてもらったことがある。こうして実際に植物の香りを確認すれば、なるほど確かにそうだ、とマリアも納得する。森に生えていたウィンターセイボリーはもっとフレッシュな、ハーブ本来の緑の香りが強かったように思う。それで良い時もあるが、サマーセイボリーのこのくせになるような少し辛みのある香りは調香に向いている。
マリアがさっそくメモを取ると、先ほどまでリビング側に腰かけていたクリスティも隣に並ぶ。
「サマーセイボリーは、虫刺されにも効くハーブよ。この間精油を作ったから、もしよかったらもらってちょうだい」
「わぁっ! ありがとうございます!」
マリアの笑顔を見たクリスティは、少し待っていてね、とリビングへ戻っていった。
マリアがクリスティの庭に生えた様々な植物のメモを取っていると、クリスティが小瓶を片手に戻ってくる。
「これよ」
マリアはメモを取っていた手を止め、クリスティのもとへ駆け寄る。小瓶を受け取り、頭を下げた。クリスティは目を細め、お土産だと思って、とウィンクして見せた。こういうお茶目な一面がかわいらしい、と思うのは、目上の人に向かって失礼だろうか。しかし、マリアはこんな風に年を重ねていきたい。そう自然と思う。
クリスティの中庭は、時間を忘れて楽しむことのできる場所だった。マリアは気になった植物について、心行くまで質問し、クリスティもそれに答えた。夕暮れの柔らかな日差しがあたりを包むと、クリスティは顔を上げた。
「そろそろ時間かしら。今日も楽しかったわ」
「こちらこそ、遅くまでお邪魔してしまって。本当にありがとうございました」
マリアも名残惜しそうに、クリスティを見つめる。あっという間だった、そう思う。
クリスティは先日と同じように、マリアを玄関先まで見送った。マリアの姿が見えなくなり、静寂の戻った家の中を見つめる。自分のものとは別の、もう一つのグラスが、そこにマリアがいたことを表している。
「楽しい時間は、あっという間ね」
クリスティは、グラスを片付けようとテーブルに手を伸ばした。
ズン、とクリスティの胸が重くなる。クリスティはその場でしゃがみこんだ。思わずつかんだグラスを離す。手から滑り落ちたそれは、ガシャン、と音を立てて床に飛び散った。
「うっ……」
クリスティは胸のあたりをおさえる。なんとか深呼吸を繰り返すも、胸の圧迫感が収まることはない。クリスティはゆっくりと呼吸を落ち着け、床に散らばったガラス片に触らぬよう、ゆっくりとその場に腰を付けた。
(やっぱり、年寄りは嫌ね。マリアちゃんが来た時くらい、はしゃがせてくれたっていいじゃないの)
苦虫を嚙み潰したような顔で、クリスティは出来る限り一定のリズムで呼吸を繰り返す。思いとは裏腹に、体は言うことを聞かない。クリスティはなんともやりきれない気持ちだった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
クリスティの中庭を皆様にも楽しんでいただけましたでしょうか。
セイボリーについては、活動報告にもう少し詳しく記載しておりますので、ご興味ありましたらぜひそちらもご覧ください。
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