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調香師は時を売る  作者: 安井優
調香師との出会い クリスティ編

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クリスティの一日

 その日、クリスティは病院に来ていた。薬を届けるためではない。ここ数か月、ぼんやりとした胸の痛みがクリスティを襲っていたのだ。

(全く、本当に年を取るのは嫌ね……)

 クリスティは、病院の待合室でため息をついた。


 薬師としての知識や技術のあるクリスティは、出来る限り健康には気を使って生きてきた。よくある風邪の症状くらいであれば、自らの薬でもなんとかできる。適度に運動し、十分な休息をとる。暑いこの時期は熱中症にも気を使い、意識的に水分を取る。どれも小さな積み重ねだが、だからこそ元気で過ごしていられるのだ、とクリスティは自負している。


 しかし、このなんとも言えない胸の痛みだけは、どうにもならなかった。明確な痛みではないものの、時折胸を締め付けられるような感覚は不快だった。夜は寝苦しく、その不快感に目を覚ましてしまうこともある。

(最近は少し落ち着いていたと思っていたけど……マリアちゃんが来て、少しはしゃぎすぎちゃったのかしら)

 年甲斐(としがい)もなく、ずいぶんと話に花を咲かせてしまった、という自覚はある。マリアは聞き上手で、ここしばらく誰かとたくさん話をすることも少なかったのだ。ついつい、長話をしてしまった。


「クリスティさん」

 看護師に呼ばれ、クリスティはゆっくりと立ち上がる。深呼吸をして、できるだけ背筋をのばす。どうぞ、と案内された椅子に腰かけ、目の前に座る医者を見つめた。過去には薬を頼まれたこともある、馴染みの医者だ。町の小さな開業医だが、腕は確かで、クリスティも信頼していた。


「レントゲンを見ましたがね、特に問題はないですよ」

 医者は、写真をいくつか並べて、肺のあたりを指差す。クリスティもその写真を見つめた。ここ何十年かで開発された技術だと聞く。自らの体の内側を見ることが出来るという事実には驚くばかりだ。

「もし何か肺に異常があれば……」

 医者はそう言いながら、この辺りにどうとか、他に症状はないか、などと尋ねる。クリスティは首を横に振り、自らの症状を思い返した。


 結局、何もわからないままか。クリスティは人好きのする笑みを浮かべ、謝る医者に、大丈夫よ、と声をかけた。

「原因は分かりませんが、しばらく続くようなら絶対安静に。すぐに病院へ来てください」

 医者の言葉にクリスティは、うなずき、金を払うと病院を出た。


 夏の陽射しが老体には堪える。日傘をさし、出来る限り日陰を歩く。クリスティは

(少し休憩にしようかしら)

 と何軒か先に見えるレストランの看板に目をやった。冷たいものでも飲んで、少し休んでから家へ戻ろう。そう考え、クリスティはその方向に足を向ける。

(ずいぶんと、疲れやすくなったものね。暑さのせいだと良いのだけど)

 クリスティは倦怠感(けんたいかん)にもう一度ため息をつくと、レストランの扉をゆっくりと押し開けた。


 店内の涼しい場所へ案内してもらい、クリスティは軽食とアイスティーを頼む。

「ミルクはたっぷりお願いね」

「かしこまりました」

 クリスティの注文に、店員は頭を下げて去っていく。店内には蓄音機から流れる小さなレコードの音が響いており、心地が良い。暖かい木々のぬくもりと、どこか歴史を感じさせるレンガの壁が、店内の落ち着きを引き立てている。


 クリスティはこの町が好きだった。もともとは、東都の出身でどちらかといえばにぎやかな都会暮らしだった。いつからか、歳を重ねるにつれて、静かな空間を好むようになり、この町へと越してきたのは、教職を引退してからのことだった。東都の、なんともいえぬあの花々しい雰囲気を懐かしく思うこともあるが、このレンガ造りの建物が並ぶ町並みは、故郷と同じくらいクリスティの心を穏やかな気持ちにさせた。


(マリアちゃんは、森の奥に住んでいると言っていたわね……)

 クリスティは、マリアのことを思い出す。あんなに若い頃から、森の奥に一人で暮らし、調香師として生活しているのだというから立派なものだ。

(私があれくらいの頃は、もっと子供っぽかったんじゃないかしら)


 マリアは、クリスティの憧れの人、リラを祖母に持ち、その店を継いだだけだ、と謙遜(けんそん)したが、王女様の専属の調香師として選ばれるだけの実力を持っている。クリスティも、チェリーブロッサムの香りについては、まずまずのものが出来たのではないか、と思っていたのだが、マリアの香りは見事だったと噂に聞いた。

(本人に言ったら、きっと大きく首を横に振るでしょうね)

 クリスティはその姿を思い浮かべ、一人笑みをこぼした。


 たっぷりのチーズとキノコ、エビが散りばめられたリゾットが運ばれてくる。

「まぁ。おいしそうね」

「熱いので、気を付けてお召し上がりください」

 クリスティの反応に、店員も満面の笑みを浮かべた。すぐさまミルクがたっぷりと入ったアイスティーを持ってきて、丁寧に机へ並べる。クリスティが会釈すると、店員は丁寧なお辞儀を一つ残して、店の奥へと戻っていった。


 リゾットをスプーンの半分ほどにのせてすくいあげる。バターとニンニクの香りがふわりと広がり、食欲を刺激する。暑い時期は、どうしても食欲が減ってしまうのだが、これであれば最後までペロリと食べてしまえそうだ。チーズとキノコの香りも良い。ふぅふぅ、と息を吹きかけて、リゾットを冷ますと、クリスティはゆっくりと口へスプーンを運んだ。

「あら。これはおいしいわ……」


 たまたま立ち寄った店だが、料理の味は絶品で、クリスティは目を細めた。この町に住んでしばらく経つ。ずいぶんと町には慣れたつもりだったが、こんなに良い店があるとは知らなかった。もともと料理をするのは好きだし、一人で外食というのも味気ないと思っていたので当然といえば当然なのだが。

(今度、マリアちゃんをお茶に誘ってみようかしら)

 クリスティは、口いっぱいに広がる豊かな味を楽しみながら、早く木曜日が来ないかしら、と胸を弾ませた。


 食後のアイスティーもおいしかった。良い茶葉を使っているのか、それとも紅茶の淹れ方が良いのか。どちらにせよ、普段自分が飲んでいるものよりはずいぶんと良いもののように思えた。

「本当に、おいしかったわ。どうもありがとう」

 クリスティは、代金を支払いながら店員に微笑みかける。店員はやや照れたようにはにかむと、

「ぜひまたいらしてください。お待ちしております」

 と深いお辞儀をした。


 胸の痛みは原因不明。病院での出来事にため息をついたクリスティであったが、食事を終え、レストランを出る頃にはすっかり良い気分だった。日傘をさし、家までの道のりを歩く。心地よい風が時折、町を抜けていく。

(きっと、心配しすぎね。精神的な疲労は、肉体にも影響するっていうし……あまり深く考えるのはやめましょう)

 クリスティは決意し、胸の痛みや倦怠感(けんたいかん)についてそれ以上考えるのはやめた。最悪は、自分も薬師だ。何とかなるだろう。楽観的にそう(とら)え、家を目指した。


(そうだわ。久しぶりに、鎮静作用のある香りでも作ってみようかしら……)

 クリスティは不安を払いのけるように、頭の中で調香のレシピを思い浮かべた。


いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!


今回は、クリスティメインのお話でしたがいかがでしたでしょうか。

マリアが出てこない回はずいぶんと久しぶりで、皆様に楽しんでいただけているか少し不安ではありますが……クリスティの穏やかな老後の生活も良いな、と思っていただけていましたら幸いです。


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