クリスティ
マリアは、レンガ造りの建物が並ぶ古い町並みを歩いていた。アイラの実家である商店を通り過ぎ、手紙に書かれた住所を探す。街の広場からは三十分ほど歩いただろうか。ずいぶんと静かな通りに、マリアの足音がコツコツと響いた。
手紙の差出人は、調香師クリスティ。カントスに色々と世話を焼いた張本人であり、古くから王国で調香師を営んでいる女性だ。カントスの話によれば、学校で教鞭をとっていたこともあったようだが、その頃から腕の立つ調香師だったことは間違いない。先日の王妃様から届いたチェリーブロッサムの香りでは、マリアに次いで二番目の出来だった。マリア自身、あの香りは惜しい、と思ったほどに。あと一歩、何かがあれば、きっと結果は変わっていただろう。
マリアの表情にはどこか緊張の色が浮かんでいた。少なくとも、マリアが生きている年齢の二倍以上は調香師として働いている人のもとを訪ねるのだ。失礼があってはいけない、と背筋を伸ばす。もっとも、クリスティはカントスに世話を焼いていた時点で、失礼には慣れているのだが。そんなことをマリアが知るわけもなく、マリアは手紙に書かれた住所と思われる家の前で立ち止まると、ふぅ、と一つ息を吐いた。
クリスティの家もまた、レンガ造りの古い建物だったが、手入れが行き届いており綺麗にされている。アンティークドアにはガラスがはめ込まれ、中心の部分がステンドグラスになっている。三段ほどの階段脇には、プランターが並べられており、美しく花を咲かせていた。
マリアはゆっくりと扉についたドアノッカーに手をかけた。花のような文様が施された真鍮のそれは、真夏の陽射しを受けて少し熱を帯びている。軽く二度ほどそれを扉に打ち付けると、トントンと小気味良い音が鳴る。家の中からパタパタと小さな足音が聞こえ、ガチャンと音がして扉が開いた。
「マリアちゃんね。待っていたわ」
柔らかな、慈愛に満ちた表情を浮かべた白髪の女性が、マリアを招き入れた。
カラン、とグラスに氷がぶつかる音が心地よい。ジャムがたっぷりと入ったアイスティーがマリアの体を優しく包み込む。かわいらしいマカロンが大量に載った皿に手を伸ばし、マリアはその一つを口に入れた。
「わぁっ……すごくおいしいです!」
サクサクとした食感と、中に入っているラズベリークリームの滑らかな口当たり。マリアが目を輝かせると、クリスティはにこやかに言う。
「良かったわぁ。最近の若い子が、どういうものが好きなのか分からなかったから心配だったのよ。店員さんのおすすめを買ったのだけど、マリアちゃんが喜んでくれて嬉しいわ」
クリスティの家の中には、たくさんの植物があふれていた。天井から吊り下げられたプランターからはツタが零れ落ちていたり、花が垂れ下がっていたりしている。剪定されているのかそのバランスは素晴らしく、絵画か何かを見ているようだ。床に置かれた観葉植物や、名前の分からないたくさんの草が寄せ植えされた小さな植木鉢。緑に彩られた空間は、マリアにとってはまさに楽園だった。
「カントスからのお手紙をいただいたのだけれど、カントスは迷惑をかけなかったかしら」
部屋を見渡していたマリアに、クリスティは尋ねる。
「迷惑だなんて、とんでもないです。色々なことを教えていただきましたし、カントスさんと過ごした日々はとても楽しかったですよ」
「そう。それなら良かったわ。それにしてもあの子が、人に何かを教えるなんて……。ついこの間までは何も知らない学生だったのに」
年を取ると時間の進みが早くて困るわね、とクリスティは呟く。
「カントスさんから、クリスティさんのお話も少しお伺いしました。お会いできて本当に嬉しいです」
マリアが頭を下げると、
「あら、やだ。そんなにかしこまらないでちょうだい。私も、マリアちゃんに会えてうれしいわ。なんてったって、王女様の専属の調香師さんですもの」
とクリスティはマリアの方を見つめた。孫を見るような優しい瞳は、マリアとの出会いを心の底から喜んでいるようだった。
クリスティは、マリアの祖母、リラのファンでもあったという。生きていれば、リラの方が十ほど年上だ。クリスティが学生時代に、たまたまリラの作った香りに出会い、自らも調香師になることを決意したのだそうだ。
「もともと、薬学を専攻していてね。畑違いではあったけれど、植物の知識も活かせて楽しかったわ。私の時代はまだまだ香水なんてものは高級品だったし、調香師だけでは食べていけなくて。薬師として働きながら、調香をしていたのよ。その後、薬学と生物学の教師をしたりもして」
クリスティは楽しそうに昔のことを語る。穏やかな口調は、聞いている人の心を落ち着かせた。
そして、カントスに出会い、彼に調香を教えることになった。クリスティはその時のことを思い出して、肩を揺らす。
「彼は本当に面白い学生さんでね。彼には芸術の才能しか、なかったのよ」
それでも、クリスティにとってはもっとも素晴らしい生徒だったという。芸術の才能だけで、彼はこの先ずっと生きていける。そう思ったそうだ。クリスティの考えは正しかった。
「私はもう、教師ではないし、先の短いおいぼれよ。でも、もしもマリアちゃんのお役に立てることがあるなら、喜んで力を貸すわ」
クリスティはまっすぐにマリアを見つめた。美しいエメラルドグリーンの瞳に、柔らかな明かりが灯っている。
「最後の最後まで、誰かの助けになれるって思っていたいのね」
老人は頑固よ、とウィンクをして見せたクリスティの姿に、こんな風に年を重ねていけたら、とマリアは思う。
「毎週木曜日が、お店の定休日なんです。だから、もしクリスティさんのご都合がよければ、ぜひお伺いしたいです」
マリアの申し出に、クリスティは快くうなずいた。
「もちろんよ。でも、無理はしないでちょうだいね」
「ありがとうございます!」
マリアが深いお辞儀をすると、クリスティはたおやかな笑みを浮かべた。
せっかくだから、とクリスティは調香の部屋を見せてくれた。
「最近はもう、馴染みのお客様からのご依頼だけを受けるようにしているのよ。あまり材料がそろっていないから、少しマリアちゃんには物足りないかもしれないわね」
マリアは、瓶の並んだ棚を見つめる。瓶には、中に入っている精油や植物のラベルが張られていて、整理されていた。
「歳のせいかしらね。最近、物忘れが多くなってしまって。こうやって書いておかないと分からなくなってしまうのよ」
クリスティはマリアの視線に気が付いたのか、そう言って笑った。
棚に並んだ瓶の数は決して多くはないが、使い勝手の良い植物や精油が並んでおり、一通りのものなら作れそうだった。中には、珍しい植物もいくつかあり、マリアの興味を満たすには十分だった。薬師をやっている、といっていたから、ここで薬も作るのだろう。調香の材料と兼ねているものもあるようだ。しげしげと眺めるマリアを、クリスティは嬉しそうに見つめていた。
「またいつでもいらっしゃい」
玄関先まで見送ってくれたクリスティに、マリアは礼を言う。クリスティはその優しい笑みを崩すことなく、マリアの後ろ姿が見えなくなるまで手を振っていた。マリアもまた、クリスティの姿が見えなくなるまで、大きく手を振った。
(とっても素敵な方だったわ)
帰り道の馬車に揺られながら、マリアは今日一日の出来事を振り返った。マリアの記憶の中にある祖母と年齢が近いせいもあるだろう。祖母を思い出して、少し懐かしくなる。
夕暮れに染まる空を見つめながら、マリアは
(早く、来週の木曜日にならないかしら)
と次に会える日を心待ちにするのであった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
20/7/29 ジャンル別月間ランキング 96位をいただきました。
あっという間に14,000PVも達成しておりまして、本当に感謝感激です。ありがとうございます!
今回から、新章がスタートしました!
章タイトルにもなっている新キャラ、クリスティもさっそく登場しましたが、いかがでしたでしょうか。
新章もぜひ、お楽しみいただけましたら幸いです。
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